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アダチ龍光さんのこと

■私はアダチ家のタブーに
 触れてしまったのか?

 「ひょっとたらアダチ家のタブーに触れてしまうのか?」
それとも
 「ごめーん!あれは全部ウソ。」
と謝罪されるのか、少々ドキドキしながら電話を掛けたのだけれど、 「龍光おじさんのことが聞きたい」という私の問いかけに、父親は少々うれしそうに答えてくれました。

 アダチ龍光こと阿達一(ひとし)はその名の通り新潟にある曹洞宗のお寺[※16]の長男として生まれ、妹である祖母とは腹違いの兄弟となるそうです。当然、一には寺の後継ぎをと両親は考えていたのでしょうが、芸事にうつつを抜かしていると18の時に勘当され、上京します。周りからは「河原乞食」呼ばわれされたそうです。

 長女だった祖母は高校を卒業後、福島県は会津若松の隣、河沼郡日橋村[※17]で理髪店を経営します。一時期は数人の従業員を抱えるほど繁盛していたと聞きます。後に自転車店を営む祖父を婿に迎え、しばらくは2店を並行して営業し、後に理髪店を畳みます。この「阿達自転車店」が私の「ばあちゃんち」[※18]ということになります。

 父親の幼い頃、龍光は何度が自分の妹の家、つまり私のばあちゃんちを訪れており、父によれば

 「龍光伯父さんは小遣いを1,000円くれたりした。当時これだけの 大金をくれる人はいなかった」

と云います。当時ラジオや雑誌等のメディアで龍光の活躍に日常触れる機会がどれだけあったかはわかりませんが、「手品をやっている金持ちの伯父さんがいる」ということは強烈に父の印象に残っていたようです。また18の時、父は高校卒業後上京し、東京に嫁いだ姉に連れられて演芸場へ上京報告に龍光を訪ねて行ったそうです。

 このようなエピソードを聞く限り、龍光と祖母の関係は、決して悪いものではなく、却って家族ぐるみの付きあいをするほど仲の良い間柄であったことが伺えます。

 後に龍光は婿入りし、この際に中川姓となったようです。子供を持たなかった龍光は晩年養子を取ったといいます。祖母は常々「悪いのにつかまった」と口にしていたそうで、龍光と祖母が疎遠となったのはこの辺りに事情があるようです。やはり祖母は龍光の葬儀には出席してませんでした。

 また父によると晩年龍光は不遇な生活を送っていたと云います。それがどのようなものだったのかはわかりませんが、死因に関しても父は「よく知らない」と答えました。

 私の祖母は2000年の3月に93歳で亡くなった[※19]のですが、身の上を綴った遺書のような文書を残していると聞きました。

 「この中に龍光叔父さんのことも詳しく書かれているのでは」
と父は云います。これは次回帰省をする際の大きな宿題となりそうです。

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引用文中「龍光」「竜光」と表記を統一しておりません。原文ママです。

[※16]
後に伯母からお寺の名前と場所は多宝寺 (新潟県東蒲原郡鹿瀬町)であると確認。現存する。

[※17]
後に堂島村と合併し、河東村に。
現・河東町。近々会津若松市と合併の動きもある模様。

[※18]
2003年7月撮影。看板には
「佐々木屋号 阿達自転車店」の文字があります。佐々木は祖父の旧姓です。

[※19] 私の日記より抜粋

身内の死というのは初めてではなかったのだけれど、やはり参ってしまいます。明け方6時半頃、トイレに立って、7時半頃布団の中で眠るようにして帰らぬ人となってしまいました。死因は老衰ということですが、布団の乱れ一つなく、まるで「私の人生はこの辺にしとこう」といったように、身支度を整えてから誰にも迷惑を掛けないように静かに逝ったという感じでした。自分に厳しい芯の通った人間であっただけに、何ともらしいというか、かっこいいというか、なんともかんとも・・・。
 つい2週間前に田舎に顔を出した時はいつもと何ら変わることなく大声で話をしていて、突然ひょいと立って「あれ持ってけこれ持ってけ」と私にお土産を持たせてくれて、「一生懸命元気でやりなさい」と声を掛けてくれていただけに、その死を聞かされた時はとにかく驚いたのだけれど、さすがに90を過ぎた最近は会う度に「今回が最後だろうか」という思いがあったのも正直なところでした。
 この時は帰り際に珍しく玄関口まで見送ってくれて、「元気なんだな」と確認して帰ったのだけれど、今にして思うと、最後だからこその見送りだったのかなと考えたりして何とも云えない気分になってしまいます。
 明治にお寺の娘として生まれ、女学校を卒業後理容店を営み、近所の自転車店の店主と結婚し5人の子供を持ち、戦争で旦那を失い、以後女手一つで子供たちを育てたすごい人生。それは私の父親をはじめ子供たちの自慢でもあって、何度となく「ばぁちゃん伝記」を聞かされたモノです。それを本人の口からたくさん聞きたかったと云ってみても、もう今さらって話です。
 93歳の大往生。常々口にしていた通り誰にも迷惑を掛けずに静かに逝った祖母。
おめでとうと云っていいのだろうけど、田舎に帰ると変わらずそこにいるはずの人がいなくなってしまったという事実は生きている人間のわがままなのかもしれないけれど、ホント寂しい話であります。
告別式は子供5人、孫10人、曾孫11人含む参列者約200人。まさに人生を完成させた勝者のお祭りでした。


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