【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)


(title design/S.Takei)

続きです。

誰も区切ってなどいないのですが、そろそろこの楽しいタイムスリップの旅も、時間切れが迫っている気がいたします。

実に、実に名残惜しいのですが、このラストスパート。
ご一緒にトルコ「大木戸」に向かってみましょう。

新宿を背に新宿通りの四谷大木戸交差点の手前を左に曲がれば正面にその姿が見えてきます。

お忍び気分なら四谷大木戸交差点を、右手に「大木戸」の看板を見て心躍らせながら環状4号線(外苑西通り)靖国通り方面に曲がり、ふたつ目の通り、左の坂をひょいっと上がり、「自慢荘」の手前を右に曲がる。四谷大木戸交差点を曲がった頃には、「大木戸」の袖看板も見えているかもしれません。


撮影:1964年(昭和39年)9月25日


撮影:1964年(昭和39年)9月25日


撮影:1977年(昭和52年)

1966年6月30日、ビートルズのローディのマル・エヴァンスは、協同企画の中村実氏に連れられてここにやってきたわけです。
「自慢荘」前に車を付けて降り、向かえの新宿駐車場に車を停めたのでしょうか。

トルコ「大木戸」に到着。

黒い煙突は、木戸とトルコ「大木戸」の入り口の間の、ちょっと見上げるところにあったと言います。

[柳谷様] よくこの入口のところに石油屋さんの車が停まってたのを覚えています。お風呂のボイラー(石油給湯器)のため。

でも、昭和40年くらいから「自慢荘」に出入りしていた酒屋さんに聞いたら「煙突は地中からダクトのようなものが出ていて、調理棟の外壁を伝って屋根にいたる煙突のようになっていたという記憶がある。」と言っていました。

後にそういう風に変えたのか、このイラストは僕が子供の時の記憶なので、酒屋さんの話が正しくて、別のトイレの排気みたいなものを間違えて覚えていたのかもしれません。

そうすると何人かの人が「煙突があった」というのは「ああ、そうなのかな」と納得が行く気がします。

酒屋さん曰く「色は多分黒かった。」と。
そこに「トルコ」という文字が書いてあったかというと「覚えてないなぁ。」ということでした。

料理屋「多満川」ご主人柳谷治様のイラストに、誠に失礼ながら手を入れさせていただき、酒屋さんの証言を絵にするとこんな感じになるのでしょうか?

複数の方から「大きな黒い煙突があった。」という証言があったことと結びつけるなら、確かに煙突は、このくらいの高さがあると自然な印象になるかもしれません。

ただ、「煙突に『トルコ』という文字があった。」という証言は、すぐ横にあった袖看板の存在の記憶と混ざっているのではという気がしてなりません。

また一方で、

[柳谷様] でも「自慢荘」で働いていた仲居さんは、「煙突に覚えはない。」って言ってました。

ということで、「大きな煙突」問題は完全にはクリアにはなりませんでした。

次に、トルコ「大木戸」の入り口付近はどんな雰囲気だったのでしょうか?

[柳谷様] 入り口横の看板も、袖看板も光らないものでした。光るものをいえば、入り口が明るかったぐらいじゃないかな。知ってる人しか来ないという感じだったから。

けばけばしいネオンがあったわけではなく、入り口辺りの雰囲気は、シンプルで落ち着いたものであったのかもしれません。

では、階段を降りてトルコ「大木戸」の店内へ向かってみましょう。

[柳谷様] 子供の頃、遊んでるとボールがみんなここ(トルコ「大木戸」)に入っちゃったりするんですよ。で、ボールが階段の下の方に落っこちてしまって。で、お店の人が「いいよ、入って取っておいで。」なんて声を掛けてくれたのを覚えています。

ということは、階段のところには扉がなかったということではないでしょうか?

[柳谷様] 覚えているのは、入り口からすぐ階段だったんです。そこを降りて行くと、木戸みたいな・・・赤いガラスの扉があった気がします。

そして中に入ると、すぐに左手に小さい受付のようなカウンターがあって後ろの壁にカレンダーかなんかが貼ってあった。

右手にはピンクのモザイクタイルのようなものを埋め込んだ浴槽のようなオブジェ・・・水が張ってあって・・・花を活けようとでもしていたのかな・・・そんなものがありました。

その上の方に青とピンクの電飾が施されていたように思います。

その奥に4つか5つピンク色の扉があったと記憶しています。そこが個室だったんでしょう。

とにかく一面ピンク、ピンクという感じでしたね。

そして、柳谷様におうかがいしていただいた、当時の従業員だった方の証言で、さらに具現化されました。

[C様] 入って向かって左手の一番前が受付で、その裏が待合室だった。待合室の後ろに個室が1〜2部屋。

向かって右手の変なオブジェのようなものの後ろはすべて個室で、3~4部屋あったような気がする。

奥の方は事務所やボイラー室だったような気がする。

[柳谷様] あと、さっきの酒屋さんの話では、「個室の扉には船の舷窓のような丸窓が付いていて、出前に来た近所のお店の旦那さんがそこから必ず中を覗こうとしてたんだよねぇ・・・。」って言ってました。

かつて「その8」で取り上げた、匿名掲示板で語られていたトルコ「大木戸」の記憶

5 :名無しさん@入浴中:02/03/13 12:31
大木戸・・・・。
懐かしい・・・。
ホテル本陣の側だよね。
着物姿が懐かしい・・・。

10 :special love:02/03/13 20:57
個室サウナ 大木戸…今はもう無いんだ
夕方行くとタイムサービスで安かった。
個室に入ると赤い壁に赤い絨毯。ベットがあって岩風呂風のお風呂があった…

36 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:39
懐かしい店名だな。
そう半地下のお店で小さな部屋が向かい合ってて、
女郎屋を思わせるような淫靡な造りだったね。

37 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:42
遊郭の香りのする所だったね。

と合わせて想像をふくらませると、トルコ「大木戸」の姿が活き活きと目の前に現れて来るようです。

お話をおうかがいしながら、柳谷様に目の前でさささっと描いていただいたトルコ「大木戸」入った正面からのイラストを掲載します。

そして稚拙ですが、大木戸の見取り図を描いてみました。

つ、ついに私たちは、ポール・マッカトニーですら訪れることの叶わなかった、あの、トルコ「大木戸」の店内の様子までも共有したのです!

——– ◆ ——–

次に、トルコ「大木戸」の雑誌での取り上げられ方も見てみます。

「その手のお店の情報誌を当たれば写真の1枚2枚なんて、ぱぱっと出てくるもんだろう。」

と、どこかで考えておったのですが、それは完っっ全に甘かったです。予想以上の苦戦でした。

「1960年代後半から1990年代半ばに掛けての風俗ガイド本、情報誌を当たるべし!」

と、古書店を当たれば、

「そういうのは、時々出てくるんだけれど、売れないだろうと捨てちゃうことが多いんだよね。」

という回答を数店から。

オークションサイトで片っ端から落札しても、空振り続きでした。

並行して、大宅壮一文庫に数回通い、1960年年代前半から1996年の範囲で

 「『新宿』or『トルコ』『ソープ』『サウナ』」

のキーワードで、雑誌掲載記事が約100件、その他データベース化されていない目録から、上記のキーワードや「プレイスポット」などの分野からピックアップした記事が掲載された百数十冊にトルコ「大木戸」の掲載記事を探しました。

私の探し方の力不足もあるのでしょうが、見つけることができたのは、かろうじて2つの記事だけでした。

掲載はともに「週刊現代」。

まずは、1979年(昭和54年)4月12日号 P194〜196掲載記事「トルコロジー細密描写!! 若者の街 東京・新宿トルコただいま30軒『遊びの不毛地帯でした』」掲載の「新宿・トルコ風呂ガイド」。


記事の内容をざっくり書くと

「新宿という、時代の最先端を行く街にしては、サービスが古くさい。」

という否定的なトーンが基本なのですが、一方で

「この古典的サービスにこそ味わいがある。」

といった一体何が言いたいのかと少々論旨がブレブレ。

「大木戸」の紹介には

新宿御苑前の裏通り。料亭風の造り。伝統的なプレイと好評。

とあります。
「料亭風の造り」なんじゃなくて、料亭にトルコ風呂を造ったんですよ。

続いて、1979年(昭和54年)9月6日号 P161〜163掲載記事「残暑ピンク・リサーチ!!『トルコの古典的プレイWS(ダブスペ)サービスをいまもやっています』」掲載の「古典的トルコ20 (丸中数字)1」。


ここでは、先ほどの記事とうって変わって、

「指と掌で名器より素晴らしい味を!」

「現在トルコといえばフルコースがお決まりだが、捜せば昔からのスペシャル、ダブルスペシャルをちゃんとやってくれる店がある。」

「本番オンリーの店が多い中で50分間一万円で味わう”戦後風俗史”の原点のスタイルを発見」

と古典トルコ礼賛。

「大木戸」の紹介には

新宿の中心から離れているだけに、お忍びの遊びに最適。トルコ嬢の質も良好。

とあります。

また、松沢呉一さんからは、Facebookを通じて下記の雑誌掲載の情報をお寄せいただきました。

数日前に、ダンボール箱ふたつ分、古いエロ雑誌を入手したのですが、90年代の風俗雑誌のリストにも出ておらず。おそらく広告を出すようなことはしていなかったのだと思われます。それ以前のガイド記事にも出ていないのですが、ひとつだけ発見しました。「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号に、「芸者にトルコ、スターの遊び場は」という記事があり、「京浜地区の歌磨呂、都内の大木戸なんて有名だったなあ」というコメントが出ています。横の写真は大木戸ではないと思いますが、そこには「ご存知『歌磨呂』『大木戸』」の文字があります。(2016年7月31日 2:40)


(画像提供:松沢呉一氏/「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号)

おっ!この写真はついに「大木戸」を捉えたものか!?

おうかがいすると

この雑誌は、成人映画のスチールなどを適当に使っていて、わざわざ写真を撮りに行っているわけではないでしょううから、トルコっぽい写真を出しているだけだと思います。右ページと左ページは別の写真で、右はネオン、左はビルの入口っぽい。(2016年7月31日 8:11)

うーん。残念。

しかしこれら雑誌記事での取り上げられ方を見るに、キーワードが「古典的」だったり「お忍び」だったり「知る人ぞ知る」だったりと、「大木戸」がどのようなお店だと記者たちに認識されていたかがよくわかります。

あと、もう少しあとの時期の雑誌ですと、ソープランド専門情報誌「月刊ミューザー」(おおとり出版)1988年(昭和63年)10月号の巻末リスト「日本全国色めぐり」に店名を見つけることが出来ました。

なんとか最後までに、トルコ「大木戸」の外観写真でも、内装写真でも、姫の紹介写真でも1枚雑誌から見つけたかったのですが、力及ばず時間切れ。

これは宿題に残させて下さい。

松沢呉一さんのコメントにもあったように、あまり積極的に広告を出していたお店ではないと思われ、「知る人ぞ知るお忍びの店」で充分に商売になっていたのか、そもそもあまり商売っ気がなかったのか・・・。

ただ、トルコ風呂が辿った時代の変遷をみると、なんとなく見えてくるものがあります。

以前もご紹介した「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)の中の1章、木谷恭介著「トルコの世界」から少し長めに引用します。

 トルコ風呂の変遷を考える上で、重要な日が二つある。
 一つは昭和四十一年七月、風俗営業法の一部改正で、トルコ風呂の新築営業の認められる地域が指定されることになった。
 (中略)これが、後にトルコ風呂密集地域を生むことになったのだが、もう一つは昭和四十六年四月、千葉県が県条例を改正し、個室廃止を打ち出した。
 一室の床面積を二十平方メートル以上とし、三人以上の相部屋とした。
 この条例は画期的なものだったが、実際には三人用の部屋を個室として使用する結果となり、それまで千五百円程度だった入浴料が一気に五千円とアップ。サービスもエスカレートし、豪華大名トルコが全国に普及した。
 地域指定は新しい赤線を誕生させる結果となったし、個室撤廃は料金の高騰と、それに見合う密度の濃いサービスを招いただけでしかなかった。
 (中略)昭和四十六年以降と以前では、トルコ風呂の質的な変貌が著しすぎ、同じ遊興施設として論じることに無理がある。
 そこで、便宜的に四十六年以降を近代トルコ、以前を古典的トルコと区別して考えることにしたい。
(中略)
 一般週刊誌がトルコ風呂のレポートや紹介記事を掲載するようになったのも、四十六年十二月以降のことで、それまでは風俗ものの記事としては、全く扱われなかった。
 現在、私たちが何気なく話しているトルコ風呂とは、近代トルコのことであり、古典的トルコは歴史の彼方へ埋没していこうとしている。(P178〜180)

1960年代前半から約十年間とされるトルコ風呂の第1次黄金時代のはじめに、経営を思いたったものの、建築に4年もの歳月が掛かってしまい、ブームには後乗りになってしまった。

雑誌などメディアがトルコ風呂を取り上げ始めた頃には、その存在が「古典的トルコ」の分類となってしまい、なかなか取り上げられることがなかった。

経営者を変えながら、営業を続けてきたが、1995年というインターネット普及前夜に閉店してしまった。

もちろん「知る人ぞ知るお忍びの店」というスタンスを長年貫いたというところもあったのかもしれません。

しかし、トルコ「大木戸」が、メディアに記録をほとんど残さなかった理由はこんなところにあったようにも思えます。

そんなミステリアスな姿もまた、トルコ「大木戸」が、私たちを惹きつける魅力なのかもしれません。

——– ◆ ——–

そんなわけで。

ビートルズ来日から50年。

1966年7月1日の午前中。
ポール・マッカートニーがホテルを脱出して、訪れようとしたけれど叶わなかった「四谷の外国人が喜ぶおフロ」を探す旅は、トルコ「大木戸」の発見と存在証明という充分な成果を上げることが出来たのではと自負しています。

正直、書きづらいこと、ホントはもう少し粘りたかったところも残しているのですが、どこかで続報としてお伝えできればと思います。

途中、脱線やテーマの拡散が激しくなったことをお詫びいたします。でも脱線と拡散の中に、小さな本質が見つかることもよくわかりました。ただ「全部書く必要はない」ってことですね。

また、一部のポール・マッカートニーのファンの方や、ビートルズマニアの方におかれましては、不快感やお叱りの声もきっとあったことと思います。

そもそもポールはトルコ「大木戸」には行ってないわけですから、そこをわざわざ掘り返すなんて・・・と、ホントごもっともなことだと思います。

しかし、私も長年のビートルズ好きの端くれとして、来日50年の節目に遊ばせていただいたと、何とか大目に見ていただけましたら幸いです。

——– ◆ ——–

いやぁ。
まさかこんな濃密な歴史の旅になるとは思いませんでした。

休みの日にめちゃめちゃ歩きまわった日々を振り返り、ほうぼうから手に入れ部屋に山になった資料をみながら、ホントにこれがたった1ヶ月間ほどの出来事だったという事実が不思議でなりません。

こんなに自分が夢中に突き動かされたのは久しぶりです。
途中なんどかしんどくなったけれど、ホント面白かった。

最後にこの写真を。

新宿を背中に新宿通りの四谷四丁目交差点の手前を左に曲がり、まっすぐ立ちます。

今となってはこれまで何度も何度も見た大好きな景色。

左右に高い建物が建ってしまっているけれど、私にはまずちょっと先の右に連れ込み宿の「新御苑」、左手に「自慢荘」が。

正面突き当りに「自慢本店」の黒い塀が、手前に「多満川」さんが。

そしてそして「多満川」から手前に「自慢荘」に戻る中途に、トルコ「大木戸」の袖看板とほのかに光る入り口の灯りがはっきり見えます。

こういう場所にふらっと粋に遊びに行く、そんな大人になりたいです。

そんなわけで。
力尽きました。ご清聴誠にありがとうございました。
(了)


【あとがき】
このシリーズ・・・シリーズになるとは思ってなかったのですが・・・ホントたくさんの方のお世話になりました。

振り返れば・・・写真提供いただいた新宿歴史博物館様、四谷図書館のE司書さん、初期段階の貴重な証言をいただいた旅館「長良川」ご主人様、貴重な証言とお写真をご提供いただいた四谷四丁目町会のみなさま、そして町会の窓口となっていただいた大木戸藪蕎麦店主小林様、密なあまりに密な四谷四丁目のタイムトラベルにいざなっていただいた「多満川」ご主人柳谷様・・・などなど。
みなさまには感謝の気持ちでいっぱいです。

そして、Facebook上で要所要所でヒントをいただいた、敬愛するノンフィクション・ライターの松沢呉一さん。

「知りたいことがあるのなら、知ってそうな人のところに行って聞いちゃえばいいじゃない。」

と言外のコメントで背中を押していただかなければ、このシリーズは存在しませんでした。長期化してしまって、後半はいい加減関わりたくなかったかと思いますが・・・ありがとうございました。
ものを知る、調べるってことの良い勉強になりました。

あともちろん、今回の気付きを私に与えて下さった本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんへの感謝ももちろん忘れてはおりません。

今回の取り組みは、宮永さんの長年の緻密で執拗で詳細なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みであったことを重ねて申し上げます。

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その15


(title design/S.Takei)

続きです。

最終章第3回。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様からおうかがいしたお話を振り返りながら、割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」の建物の構造を、パズルのピースをひとつひとつはめていくように明らかにしていくと、どうしてもどうしても引っ掛かる箇所に遭遇してしまうのです。

当初からの疑問でした
  「トルコ『大木戸』は地下か? 半地下か? 問題」
がもう一度目の前に立ちはだかって来るのです。

いやいや「地下」だってことはもうはっきりしたじゃない。

って?

はい。そうなんです。
何度かご紹介しているこの柳谷様のイラストを見ても、トルコ「大木戸」が階段を下った地下にあったということは明らかです。

柳谷様にお話をおうかがいした際も、このイラストから
 「トルコ『大木戸』は地下にあった。」
ということを確認し、中の構造や雰囲気(もちろん後述します)に関しても知ることが出来ました。

でも、待って下さいよ・・・。


・1950年代半ば〜60年代半ば(昭和30年代)の技術で、木造建築の建物に後から地下(ましてそこにトルコ風呂を営業できる施設)を作ることが出来たのでしょうか?

・それとも前後2棟の「自慢荘」全体が、建築された当初から「地下」または「半地下」を持つ構造だったのでしょうか?

・上記の柳谷様ののイラストを見ると、「自慢荘」2棟の後ろの棟(調理場と住居とされる)のみの地下に「大木戸」があったように見えます。後ろの棟だけに後から地下を作ったのか、それとも建築当初から地下をもつ構造だったのでしょうか?

ここはどうしても白黒はっきりさせなきゃいけないところではないでしょうか?

「地下のトルコ風呂がどうやって出来たか考えると、夜も眠れなくなっちゃう!」

・・・ということで、誠に恐縮の極み。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様に再度お時間を頂戴してしまいました。

そして、いきなり柳谷さん口から語られた真実に、思わず絶句してしまいました。

[柳谷様] 昭和32年(1957年)頃に「自慢荘」に勤め始めた仲居さんから話を聞いてきました。

その方が入って2〜3年後に、「自慢荘」のお客さんだったとある新宿の呉服屋さんが、当時の「自慢荘」の経営者にこんな話を持ちかけたそうです。

「なんか、今『トルコ風呂』っていうのが流行ってるみたいで、オレも是非やってみたいんだけれど、お前さん造らない? オレが経営するから。」

その話に「自慢荘」の経営者が乗って、調理場と住居側の後ろの棟を全部建て替えたんですって。

全部建物を一度壊して、地下を掘って掘って・・・。
ものすごいお金を掛けて、贅を尽くして造ったそうです。
しかも重機も大したものがない時代ですから、かなりの難工事で、結果、建て替えに4年も掛かっちゃたそうです。

えーー!?
トルコ「大木戸」誕生のきっかけは、何とも壮大な金持ち同士の道楽だったのです。

さて。
ではここで、事実と時代背景等を合わせて見て行きましょう。

柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたのが昭和32年(1957年)頃。

お客さんだった呉服屋さんが、「自慢荘」の経営者に「トルコ風呂ってのが流行ってるからやってみたい」と話を持ちかけたのが2〜3年後・・・つまり昭和34〜6年(1959〜1961年)頃。


本シリーズ「その12」
で書いたトルコ風呂発展の経緯を振り返ってみます。

戦後、銀座に1951年(昭和26年)オープンし、トルコ風呂という存在を広く世に知らしめ、その後のトルコ風呂発展の礎となった「東京温泉」が活況を制したことで、トルコ風呂は、まず上野浅草に、そして新宿、五反田、渋谷、池袋などへと続々オープンした。

一方、1957年(昭和32年)の売春防止法の施行(この年は客引きなど一部の施行で、全面施行は翌年)で、青線赤線業者は業態変化を余儀なくされ、トルコ風呂の経営に乗り出す。

新宿2丁目の御苑寄りに「御苑トルコ」がオープンしたのが1959年(昭和34年)。元は新宿青線の「初夢」という店だったとされる。

※参考資料〜別冊週刊サンケイ 1960年5月1日号「女千人に浴室八百 −トルコ風呂繁昌記−」

もうひとつ。今度は引用を。

 「(トルコ風呂好きで)『大木戸』にもはまっていた。」(柳谷様の弟様・談)

とされる小沢昭一が編集に携わり、白水社から出たシリーズ「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)という本があります。

この本では、過去は遊郭から現代のホステスまで、広義の意(かなり乱暴ですが・・)での「水商売」の接客の作法を「芸」という視点から、複数の著者が原稿を寄せています。

その1つの章に、木谷恭介著「トルコの世界」というものがあって、トルコ風呂の名を一躍世に広めた銀座「東京温泉」から始まり、トルコ風呂における「芸」なるものを見出しながら、その発展とサービスの変遷を解説していて、これが実に明解でわかりやすいのです。

この木谷恭介という人も実に興味深い方で、そこにも触れたいのですが、脱線をガマンして、先に進みます。

では、「トルコの世界」から引用します。

 昭和35年ごろから40年代前半に掛けての十年間は、トルコ風呂がもっともトルコ風呂的な時代だったと言える。
 トルコ嬢が客に行うサービス・テクニックを芸だと考えるなら、この時代がもっとも花開いた時期であり、5本の指に職業的生命とプライドを賭けるトルコ嬢が輩出し、ゴールデン・フィンガーの名を高めた。
 (中略)
 赤線が消滅してからの十年あまりは、トルコ風呂の第1次黄金時代であった。
 待合室だけでは客を収容しきれず、店の前に床几([アダチ注]しょうぎ・折り畳み式の木枠と座る部分は布を張った肘掛けのない椅子)を置いて客を待たせたというほどの盛況で、(以下、略。P177〜178)

新宿の呉服屋さんが「自慢荘」経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかけたとされる、昭和34〜6年(1959〜1961年)頃は、まさにトルコ風呂第1次黄金時代と合致します。
そしてその波は新宿にも、とても大きく押し寄せていたと察せられます。

そして「自慢荘」は、トルコ風呂建設のため、調理場と住居側の後ろの棟の全部建て替えの大規模工事を4年を掛けて行います。

計算では、トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、昭和38〜40年(1963〜1965年)頃ということになります。

ビートルズの来日の年、1966年が迫ってきました。

しかし、もう少し時期を絞れないでしょうか・・・。

ここで、過去ご紹介した新宿区歴史博物館所蔵の写真から、四谷四丁目大木戸交差点にその存在を確認したトルコ「大木戸」の看板のことを振り返ってみます。


(画像クリックで高解像度版画像にリンクします)

撮影日は
 「1964年(昭和39年)9月25日」
とあります。

つまり遅くとも1964年(昭和39年)にはトルコ「大木戸」は営業をすでにスタートさせていたということになります。

ということは・・・。

1.昭和32年(1957年)頃
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。

↓(2〜3年後)

2.昭和34〜5年(1959〜1960年)頃
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↓(4年後)

3.昭和38〜39年(1963〜1964年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

と、特定することで辻褄が合うのではないでしょうか?

さぁ、大きな声で叫びましょう。
 トルコ「大木戸」は、昭和38〜39年(1963〜1964年)頃オープンした!

・・・と、すごくきれいにまとまったかと思ったのですが・・・本シリーズを改めて初めから読み返して、はたと気付きました。

国会図書館で所蔵している住宅地図で、最初にトルコ「大木戸」の名前を見つけることが出来るのは「全住宅案内地図帳」1962年(昭和37年版)でした(本シリーズその2)。


調査時期は出版年の前年、もしくはぎりぎり間に合ったとして発行年とすると、昭和36〜37年(1961〜62年)にはトルコ「大木戸」が営業をしていないとおかしいということになります。

では、今度は逆算していきましょう。


3.昭和36〜37年(1961〜62年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

↑(4年後)

2.昭和32〜3年(1957〜1958年)頃
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↑(2〜3年後)

1.昭和29〜31年(1954〜56年)頃
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。

これで、辻褄が合うはずです。

しかし、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたという「昭和32年(1957年)頃」という発言ももちろん信憑性が高いはず。

昭和世代の日本人は、西暦ではなく年号で記憶することが多いでしょう。
もし「自慢荘」に勤め始めたのが、きりの良い昭和30年からであったなら、「昭和32年(1957年)頃」という曖昧な表現は用いないのではないでしょうか?

ここで、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めた年は「昭和31年(1956年)」であったと確定します。


1.昭和31年(1956年)
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の仲居さんが勤め始める。

↓(2〜3年後)

2.昭和33〜4年(1958〜1959年)
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↓(4年後)

3.昭和37〜38年(1962〜1963年)


↓トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、
↓住宅地図の記載から昭和36〜37年(1961〜62年)と推定。


4.昭和37年(1962年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

これで確定じゃないでしょうか?

さぁ、今度こそ大きな声で叫びましょう。

 トルコ「大木戸」は、昭和37年(1962年)にオープンした!

——– ◆ ——–

そんな4年の大工事を経てリニューアルした「自慢荘」と、ついに開業したトルコ「大木戸」を上から眺めた想像図を書いてみました。

完成から15年後、1977年の空撮写真と比較してみましょう。

なるほど。
振り返りますと、本シリーズ初回で紹介した「goo地図>古地図」の昭和33年(1958年)の航空写真で見る「自慢荘」後ろの棟が、1977年のものと大きく異なっているのは、建て直し前であるからだということも理解できます。


昭和33年の航空写真(goo地図>古地図より)
(画像クリックで拡大地図にリンクします)

——– ◆ ——–

そして最後に「地下」か「半地下」か問題を。

これまで、柳谷様に2回説明を受けたのですが、私自身、地形に関してや、建築に関して全く疎いので、正直おそらく完全には理解が出来ていないと思います。

でも、結果的にある人が「地下にあった」と、ある人は「半地下にあった」と語る理由が感覚的にはわかった気がします。

図示すると、きっとこういうことなのです。(勘違いがありましたらご指摘願います。)

まず下記が現在のビルを横から見た画です。

道路から斜めに地下の駐車場(と思われる)場所へと坂となっています。

そして、道路からビルの駐車場側に向かってまっすぐ水平を見ようとすると不思議なことに気づきます。
ビルの1階部分が自分が見ている水平より一段高いところを底辺にしていることがわかります。

[柳谷様] (地形の影響で)建物自体を水平に保つためには自ずとこうなるんです。

この地形の影響により、トルコ「大木戸」は自ずとこういう造りになったものを想像されます。

上の2つのイラストは、かなり極端に書いちゃってますが、確かに「地下」であって「半地下」とも感じる構造となります。

いかがでしょうか? ガッテンしていただけましたでしょうか?

——– ◆ ——–

さて。
私たちはついにトルコ「大木戸」誕生の経緯を知り、外観を描けるようになり、開業時期までを共有することが出来たのであります!

次はいよいよ、たくさんの証言のあった黒い煙突を眺め、あの階段を下り、トルコ「大木戸」の中へと入って行きたいと思います。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

三島由紀夫と四谷四丁目

「裏ビートルズ来日学」にともないます、「多満川」ご主人柳谷様とのやり取りの中で

「四谷四丁目にあった三島由紀夫の生家を探している人がいる」

というお話が浮上。

「え!? そんな話が!」
と、ウェブで検索すると、確かに三島は東京四谷区永住町(現・新宿区四谷四丁目22番地)で生まれたとの記述が。

しかし。
四谷四丁目恐るべし。奥が深すぎ。面白すぎ。

現在の三島の生家の該当位置を特定している記載もたくさん見られて、現在のおおよその場所は認識できたのですが、是非とも三島が生まれた1925年(大正14年)〜昭和初期の住宅地図などでウラ取りをしたいものです。

今のところ私の手元にある最古の地図が、1937年(昭和12年)作製、1937年(昭和15年)修正「四谷区 火災保険特殊地図 旧35区」。


現在の四谷4-22を見ると・・・・え? 「三島」という文字が!!

三島由紀夫の本名は平岡ですので、「まさか!?」とも思うのですが、「火災保険特殊地図」の作製の目的は、住宅地図と違って、火災保険会社のために「保険が売れると見込まれた市街地」を記録する、ある種営業目的のものと思われますので、居住者名等は必ずしも正確ではない可能性が高いのではとも察します。

事実かどうかは知りませんよ。
でもワクワクすることこの上なし。

日本中がスマホ片手に仮想世界のモンスターを追いかけている中、一方でかつて実在した文豪の生家や、昭和の料亭とトルコ風呂の幻影を目の前に具現化させようとしている・・・これまたロマンじゃあ、ありませんでしょうか。

改めて・・・。

四谷四丁目恐るべし。奥が深すぎ。面白すぎ。

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その14


(title design/S.Takei)

続きです。

最終章第2回。

もちろん引き続き、料理屋「多満川」のご主人柳谷治様からお話をおうかがいします。

どんどんトルコ「大木戸」が、その具体的な姿を見せて来ます。

——- 建物の構造に関して少しずつおうかがいして行きたいのですが、四谷四丁目町会様からご提供いただいた1977年の空撮写真(シリーズ「その7」で検証しました。)を見ると、割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」の2つの建物が渡り廊下のようなもので繋がっているように見えるのですが・・・。
   


[柳谷様] そうです。繋がっていたんです。僕が描いた絵のここ(下記イラストに図示。以下同。)が渡り廊下のつもりなんです。表玄関がこっちで、前の建物が座敷だった。で、ここに木戸があって、丁度渡り廊下の辺りに位置していました。その奥に勝手口があったんです。
そして、後ろの建物に居宅と調理場がありました。
調理場から料理をこの渡り廊下をを渡って座敷へ運ぶわけです。
どうです? 疑問は解決しましたか?

——- え!? 後ろの建物は全てトルコ「大木戸」ではなかったんですか? 後ろの建物に居宅と調理場があったというのには驚きました。

[柳谷様] 僕も、はじめはあなたの文章を読んでいて、「そういえば何でだろう?」と思ったんです。
・・・それで、あの辺りを散歩して眺めたら「そういうことだったか!」としっかり記憶が蘇って来たんです。

[柳谷様] そして、ここに僕の目には写っているように見えるんだけれど、この、ぼやっと色が変わっているところが(上の写真に図示)トルコ「大木戸」の入り口ですね。

(2棟の前の方の建物には)大きな座敷なんかもあったんだと思います。でもこっちには僕は入ったことがないんです。

ただ「自慢荘」さんと同じ組合だったので、1990年代かな・・・僕が衛生組合長をやってまして、その時に知らせを持って行ったり、集金に行ったりとよくこの木戸からおうかがいしました。

——- 座敷側と渡り廊下を渡って、トルコ「大木戸」にも繋がっていて、お客さんが建物の中からトルコ「大木戸」に行けたりなんてことは・・?

[柳谷様] それはないと思うんですけどね。ただこの距離なので、入り口が別にあったとして不思議ではないですよね。後ろの建物から地下に入れたりとか・・・。正確なことはちょっとわからないですけれども・・・。

——- 「お忍びで使われた」というは、その辺のことがあった可能性も感じるのですが。

[柳谷様] お忍びね・・・ちょっと聞いただけでも東京、京都の芸能関係の方がたくさん来てたみたいですね。結構大御所どころの俳優さんや、有名な作曲家などたくさん話を聞きました。

[柳谷様の弟様] 小沢昭一はトルコ「大木戸」にかなりはまってたんだよ。それで「トルコ行進曲」って歌まで出した(※1)。
あの人はトルコ巡りをやってたもんね。

[柳谷様] あとねぇ、当時のある人気相撲取りが来た時は、さすがに目立っちゃって、あの辺りが大騒ぎになったことがありました。

そう考えると、みんなトルコ「大木戸」の入り口で目撃されているわけだから、料理屋と繋がっていたとか、別な入り口があったとかは、ないように思いますね。

※1:小沢昭一がトルコ「大木戸」にどれほど頻繁に通っていたのか、また「トルコ行進曲」とトルコ「大木戸」の関連性は不明です。
「土耳古行進曲」は作詞・作曲 加藤登紀子、編曲 佐々永治。
   

——– ◆ ——–

しかし、ずっと2棟はそれぞれ割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」と分かれているとばかり思っていたのに、後ろ側の建物が、割烹「自慢荘」の調理場兼居宅だったとは・・・。

いやぁ、びっくりいたしました。

では一体地下にあったというトルコ「大木戸」はどんな構造になっていたのでしょうか?

最終章、もう少し続きます。

ご厚意に甘えまして、柳谷さんの追加取材もさせていただけることになりました。

とことんやりますよ。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その15


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その13


(title design/S.Takei)

続きです。

正直、出来ればずっとこの古き良き四谷四丁目を追う旅に浸っていたい気持ちもあるのですが・・・・いやいや、そもそもこれは「【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史」であります。

50年前、1966年のビートルズの唯一の来日時、「ポールが行こうとしたがかなわなかったトルコ風呂」を追うお話です。

あまり、ズルズルやるとビートルズ側からも、ポール側からも、「もうウチらは関係ないじゃないか!」と怒られちゃいそうですね。

ではでは締めに向かって筆を進めてみます。
最終章のスタートです!

(「四谷四丁目風俗史」または「四谷大木戸風俗史」は別枠で続けて行きたいです。)

——– ◆ ——–

「うわっ!? こ、これは!?」

「はい。私の記憶と色々な方からお話を聞いて『大体こんな感じだったよなぁ』というのを描いてみました。」

いきなり私の目に飛び込んできたのは、このイラストでした。

「大木戸トルコ」という大きな袖看板。

入り口には地下に続く階段があると思われる手すり。

横に木戸があり、おそらく割烹「自慢荘」と思われる建物が・・・・。

四谷四丁目町会の小林様からも、「詳しく話を聞くならこの方」とご推薦をいただいていたのが、老舗料理屋「多満川」のご主人である柳谷治様。

「多満川」は、我々がその姿を追う今はなきトルコ「大木戸」の数軒先の距離で、現在まで長年料理屋を営んでいらっしゃいます。

位置関係を、「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)で確認します。

(調査実施がおそらく1966年であっただろうと想定し、今回メインで使用する過去の地図は1967年のものとします。)

「多満川」のはっきりとした創業時期はわからないとのことですが、1936年の226事件の時には、四谷四丁目でお店を始めていて、戦後に今の場所に移って来たとのことです。

創業者であるお祖母様のお姉さんの代から、現在のご主人で4代目に当たり、今年57歳。
そのオープンなお人柄、饒舌な語り口、そして明らかにされるお話の内容にすっかり引き込まれてしまいました。

映画関係者とのゆかりも多く、「地獄の黙示録」製作中のコッポラが身を寄せ(作曲家の冨田勲氏に音楽担当の依頼をするのが目的だったそう。実現はしなかったそうですが。)、市川崑はなんと柳谷様の義理の父親とのこと。お店のロゴにもなっているイラストも市川崑の作です。

四谷四丁目町会ウェブサイトにある柳谷様のインタビューも実に面白いです。

実は・・・・。
6月末だったか7月初めだったか、お店に向かったことがありました。
外苑西通り(環状4号線)歩道から上り坂になっている階段からお店の中の様子をうかがったりとウロウロ・・・。

その日は、カウンターに女性客2人がいらっしゃって、さすがに一見の私が、カウンターに座っていきなり

「そこに昔あったトルコのこと教えて欲しい。」

とは聞けないよなぁ・・・と退散いたしました。

まずはきちんと本意を伝えてお時間を頂戴しよう。
柳谷様にお店のFBページを通じてメッセージを、そして同じ内容で封書の手紙を送らせていただきました。

今、見返したらA4で7枚の手紙・・・知らない人からこんな手紙が突然来たら普通不気味で引いちゃいますよね・・・。

しかし、しばらくして柳谷様からご連絡をいただき、快くお時間を取っていただけるとのお話をいただきました。

あの時の興奮と言ったらありませんでした。

それから数日、質問項目とその流れを組み立てた、ヒアリングシートを作っては書き直し、作っては書き直し、を何度か繰り返したことを覚えています。

ではでは。
柳谷様からおうかがいしたお話を整理して参ります。

この3週間取り組んできた試験問題の答え合わせをするかのような心境です。

まずは、トルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」のあった場所の確認と、当時の辺りの雰囲気に関して。

——- 諸説あったのですが、かつてトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」があったのは、現在ガラス張りのビルのある場所で間違いないでしょうか?

[柳谷様] 間違いないです。

——- 1995年に両店が取り壊しになり、現在のビルが作られたと・・・。

[柳谷様] はい、間違いないです。

以前この回で、ウェブの匿名掲示板にあったトルコ「大木戸」に関する書き込みを見ながら、ゼンリン住宅地図の1995年〜1998年を検証し、

1996年版(1995年11月発刊)の地図で、すでに現在のビルの建設が始まっていることが確認出来るということは、

 「確か95年か96年の2月いっぱいで閉店」

の書き込みに関しては、1995年2月末で「大木戸」は閉店した。
と考えるのが自然ではないでしょうか?

と結論付けましたが、その裏付けが取れたということになります。

改めて、ゼンリン住宅地図の1995年版(1994年11月発行:おそらく調査時期は1993年〜1994年)と1996年版(1995年11月発行:おそらく調査時期は1994年〜1995年)を見てみましょう。


以下、ここからは「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)を見ながら是非。

——- 1960年代半ばのこの辺りの雰囲気に関しておうかがいしたいのですが。この辺りは料亭や旅館が非常に多かったようですが・・・。

[柳谷様] そうですね。ご存知の通りこの辺りはかつて三業地(※1)と呼ばれていたところです。江戸時代は全部墓場だったんです(※2)。だからその後、三業地の許可がすぐ出たんじゃないかな。
その名残りもあって、(1960年代の地図を見ながら)多分この当時よりも、昔はもっと料亭や旅館が多かったはずです。

※1:三業地:料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業している地域の俗称。その営業には公安委員会(第2次大戦までは警察署)の許可が必要であることと,3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していることにより,三業地とよんで特殊地帯であることを表した。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理のため,検番を置くことが多い。三業から待合の抜けた所では二業組合となり,そこを二業地という。花柳街とほぼ同義に用い,20世紀前半における市街地の主要な遊興地帯であった。(「世界大百科事典」第2版・平凡社より)

※2:「新宿文化絵図 重ね地図付き 新宿まち歩きガイド」(著・東京都新宿区 /出版社・新宿区地域文化部文化国際課/2007年刊)収録の明治時代の地図参照。長年この一帯には理性寺というお寺があり、かなりの広い敷地をお墓が占めていたことがわかる。

地図でご覧いただけるように、環状四号線(外苑西通り)を挟んでトルコ「大木戸」や多満川さん側には料亭が、反対側には旅館の多いこと多いこと。

また、地図だけでは、民家なのかお店なのかわからないところもあって、

[柳谷様] ここに(地図の多満川の斜め向かい側。地図上で赤丸で示す。)「弥生荘」というのがあって、やっぱり料亭をやっていたんです。後に旅館に商売を変えたんじゃなかったかな。

というお話なので、この辺りの料亭、旅館の数は1960年代半ばでも相当なものであったことが想像されます。

[柳谷様] この辺りは(多満川のあるブロックの環状四号線に沿ったところ。地図上で紫色の枠で示す。)、駄菓子屋さんがあって、ここに仕立屋さんがあって(仕立屋の位置を紫色の枠内、青丸で示す。)・・・でも実際のところ、この辺はあまり建物がなくて、人もあまり住んでいなかったですね。

そして、ここに廃棄物を集めてきて販売する、大きなバッタ屋さんがありました(紫色の枠内、緑枠で示す。地図がずれているため緑線で結ぶ。環状四号線からトルコ「大木戸」、料理屋「多満川」の間の路地までに至る大きな敷地だった。)。

あと「自慢荘」の向かい側は大きな駐車場だったんです(新宿駐車場・現IDCフロンティア)。

あと、お話を聞きに行かれた(旅館)「長良川」さんとか、(環状四号線の反対側の)あの辺りは有名な連れ込み街でした。

地図ではそうなってないけど、「新御苑」(現・ホテル新御苑)も60年代半ばには、もうここ(地図上のトルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」の通りを挟んだ向かいに赤丸で示す。四谷4-48)に来ていたかも。
「新御苑」さんは、もともと環状四号線(外苑西通り)の向こうの連れ込み街側と、(場所は変わったのかもしれないけれど)こちら側の2軒同時に開業したそうです。

「長良川」さんも初めは2軒やってたそうです。
両旅館とも、ある同じ場所からここにいらしたそうです。

——- (なるほど。だから今も両店連名で看板を出しているのか・・・。)

[柳谷様] というのも、これははっきり覚えてるんですが、東京オリンピック(1964年)の時に都内のホテルが足りなくなっちゃって、「新御苑」にもいっぱいの外国人客が来て、(この辺りが)ちょっとしたブームになったんです。
新しいビルの「新御苑」には屋上にプールがあったんです。同級生の家がやっていたので、よく遊びに行きました。

——- (そんなアクシデント的な賑わいはあったけれど)基本は建物も人も少ない、静かな場所だったということですね。トルコ「大木戸」は「お忍びで行く感じだった」というお話を聞いたのですが・・・。

[柳谷様] 「新御苑」もそうだけど、当然見られちゃ困る人が来るわけだから、お互い見て見ぬふりをして・・・という感じはありましたよね。
(トルコ「大木戸」は)「(行ったことが)ばれないから。」「他のところに行くとばれるから。」っていうのがあったみたいですね。

そして、お忍びでトルコ「大木戸」に来てた芸能人、有名人の名前が次から次へと・・・これは、どこまで書いて大丈夫なんだろう。
後半に保留。

ただ、トルコ「大木戸」が、芸能人、文化人、芸能関係者にとって「ばれないから」「他のところに行くとばれるから」お忍びで出掛ける「知る人ぞ知る」場所であった様子は、よくわかりました。

そして質問は、ずっと気になっていたトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」、そして途中から登場した料亭「自慢本店」の関係へ。

[柳谷様] そこを随分知りたかったみたいですね。
実はですね、全部縁戚関係なんです。Aさんという、この辺りで相当すごい権力を持った方がいらっしゃって。

Aさんの3人のお子さんが、それぞれ「自慢本店」、「自慢荘」、そして近くにあった焼き鳥屋さんを経営していたんです。

あと、小さい待屋がたくさんあって、そこはほとんどAさんのお妾さんだった(正確には、お妾さんが経営していた?)んです。

Aさん、その息子さんと代々で、お妾さんがどんどん増えていって、彼女たちに小さい店を持たせる、小料理屋を持たせるというような感じで・・・そこにウチがぽつんとよそから来ちゃったんですよ。
この辺りのお店は、ほとんどAさんの親戚や関係のある人がやっていると思ってまず間違いないというような状態になっていました。

でも今は、ウチだけが残っているのかな。あとは全部なくなっちゃいましたから。

トルコ「大木戸」は「自慢荘」を任されたAさんの息子さんの、その息子がやっていましたね。

「自慢荘」の隣りのIさんも、やはりAさんの家系の親戚なのは間違いないそうです。「自慢荘」で仲居さんをやっていた人に電話で聞いてみたんで、多分間違いないと思います。

——- だから地図を見るとIさん宅と「自慢荘」が線で結ばれているんですね(*3)。

*3:株式会社ゼンリンにこの2つの建物を結ぶ線の意味を問合せてみたところ、一般に知られている「土地の所有者」のみを表すわけではないことがわかりました。以下同社カスタマーサポートセンターからの回答メールから。
「『所有者』と限定しているのではなく、敷地内の同一の建物を表現している『接続線』とご理解頂ければ幸いです。」
この回答が表していたことは、後ほど明らかにします。

一気に点が線に繋がってしまいました。
トルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」、料亭「自慢本店」は、全てAさんというこの町の有力者の縁戚関係の方による経営だったのです。
そしてこの3店のみならず、この辺り一帯が、何らかAさんとの関わりを持った方によるお店であったとは。

次に、前回取り上げた「三都花街めぐり」(著・松川二郎/誠文堂文庫/1932年刊)の「四谷大木戸」に関しての記述部分を見ていただきました。


今一度引用します(P56)。

 ここに花街のできたのは大正十一年、当市街内では一番新しい花街であるが、そこへ丁度彼の震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したしたもので、世の中は何が幸ひになるかわかったものではない。
  現在藝妓屋 三十軒。藝妓 九十名。待合 三六軒。
  料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)

——- 戦前、1932年(昭和7年)に出た花街に関するガイド本に「四谷大木戸」に関してページが割かれています。この土地を代表する料理屋として「自慢本店」が挙げられているのです。しかも「同支店」との記載もあります。

[柳谷様] 「同支店」は「自慢荘」でしょうね。「自慢荘」は、ウチがここに来る(戦後)よりずっと前からあるわけだから、はっきりはわからないけれど、ひょっとしたら大正時代からあるんじゃないかと思います。

ふぅ・・・。
ひとまず、最終章第1回はここまでとさせて下さい。

続いて、

・トルコ「大木戸」と「自慢荘」の構造に関して
・トルコ「大木戸」の建物の造りに関して
・トルコ「大木戸」の中の様子に関して
・看板と煙突に関して
・トルコ「大木戸」は地下だったのか?半地下だったのか?

おうかがいしたお話をまとめて参ります。

最後に「多満川」ご主人、柳谷さんの素敵なお写真を。

貴重なお話、本当にありがとうございました。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その14


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【後日談】裏ビートルズ来日学:「太陽にほえろ!」ロケ写真検証

先日アップした「太陽にほえろ!」ロケ写真検証。

本文中、「もしや!?」と記させていただいた「四谷大木戸 藪蕎麦」前のシーンで壁に張り付いて撮影をじっと見ている白いシャツに半ズボンの少年が、写真提供者である若き日の四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人 小林氏であることが判明!

これまた35年越しの大発掘でありました。
写真差し替えと文末に追記をいたしました。

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その11

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その12


(title design/S.Takei)

続きです。

「四谷大木戸」の花街時代、三業地帯の頃のことを知りたいと調べていたら、1929年に誠文堂から発刊された「全国花街めぐり」(著・松川二郎)という本の復刻版がカストリ出版から復刻されていることを知りました。

案内文には、

昭和戦前期の花街ガイドブック!

■800ページ超180ヶ所の大著 全国の花街・遊廓・私娼窟を紹介
タイトルは「花街めぐり」としながらも、約120ヶ所の花街の他に、花街に近在する遊廓や私娼窟まで紹介。

とあり、目次を見ると「四谷大木戸」の地名の記載もあります。
取り急ぎ、国会図書館で原書の所蔵を確認し、四谷大木戸の掲載該当ページの複写申請を行いました。

他に、この松川二郎という人の著作の所蔵がないかと検索してみると、
国立国会図書館デジタルコレクションに、同じく誠文堂から1932年に「誠文堂文庫」のシリーズとして発刊された類似書または抜粋版と思われる「三都花街めぐり」という書籍を発見。

誠文堂は、現在も誠文堂新光社として、雑誌「天文ガイド」「子供の科学」といった科学誌や、ペット、園芸等趣味・実用書を得意とする老舗出版社。

この本の冒頭、誠文堂創始者小川菊松による「誠文堂文庫発刊の辞」にて

出版界に一エポックを◯した「誠文堂10銭文庫」全百冊の中には、売値は十銭でも、内容は一円二円のものに比して、些かも謙遜の名著作が多かった。

から、始まるこのシリーズの主旨が述べられています。

要は1冊10銭での出版はキツイので、「誠文堂10銭文庫」で好評だったものを増補したり、「野球入門」と「野球の見方」といった好評な類似本を合本して、新シリーズを立ち上げるという話(しかし、野球を「やる」ための本と「見る」方法を説いた本を合わせるのは、ちと乱暴すぎないか・・・)。
この本の初版時の定価は25銭とあります。

つまりこの本も、安価な実用ガイド本としての位置づけであるものを察せられます。

この著者である松川二郎という人も実にユニークな経歴の持ち主だったようで、著書をみると、

 ・一泊旅行土曜から日曜(東文堂, 1919)  
 ・四五日の旅 : 名所囘遊 (裳文閣, 1922)
 ・珍味を求めて舌が旅をする (日本評論社, 1924)
 ・療養本位温泉案内(三徳社, 1922)

など、旅行ガイド本が多数で、彼の経歴を追った「東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報」(2005年)掲載の「資料・松川二郎」(著・奥須磨子)

によると、旅に限らず執筆のテーマのジャンルは多岐に渡るが、

(略)松川二郎こそ、わが国最初のプロの旅行作家といえようか。そして趣味の旅を普及させた功労者でもある」と評されたり、1980年代初めには「旅行ライターの先駆者」と位置づけられたりしている。 

とあります。

さて。
「三都花街めぐり」の目次を開くと東京、大阪、京都の花街が詳細に紹介されており、ここでも「四谷大木戸」にページが割かれています。

該当ページはP56から

 ここに花街のできたのは大正十一年、当市街内では一番新しい花街であるが、そこへ丁度彼の震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したしたもので、世の中は何が幸ひになるかわかったものではない。
  現在藝妓屋 三十軒。藝妓 九十名。待合 三六軒。
  料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)

え!?

じ、じまんほんてん!?
ど、どうしてん!?

何と1932年(昭和7年)のガイド本の「四谷大木戸」を代表する料理屋として「自慢本店」が挙げられているのです。しかも「同支店」もあるとの記載も。

他に、国会図書館デジタルコレクションを掘っていくと、日本の農民運動家で農林大臣も務めた政治家、平野力三の活動を追った「大原社会問題研究所雑誌・2009年(11月)(613)」(法政大学大原社会問題研究所)掲載の「平野力三の戦中・戦後(上) : 農民運動「右派」指導者の軌跡」(著・横関至)

に、1942年(昭和17年)の東条英機内閣による翼賛選挙で、平野は当選したが、同じく農民運動家で落選した須永好という人物と会合する話が載っていて、「須永好日記」から、

1942年6月25日には,「今日は平野力三君が大木戸の自慢屋本店に招待してくれたので上京。(以下略)」

という引用の記述があるのです(ノンブル P55)。

「自慢本店」は、戦前の花街「四谷大木戸」を代表する料理屋にして、政治家が歓談する場でもあった老舗だったということか!!

完っ全に「トルコ大木戸」と「割烹自慢荘」の関係ばかりに目が行ってしまって、大きな見落としがあったかもしれません。

「三都花街めぐり」記載の「自慢本店、同支店」の「同支店」こそ、「割烹自慢荘」だったのではないでしょうか?

でもでもしかし、支店にしてはあまりにも両店の距離が近すぎはしませんでしょうか?

そこで下記の推察をしてみました。

三業地帯だった四谷大木戸にて「自慢本店」は戦前からの老舗料理屋で、支店の「割烹自慢荘」は待合だった。

戦後、銀座に1951年(昭和26年)オープンし、トルコ風呂という存在を広く世に知らしめ、その後のトルコ風呂発展の礎となった「東京温泉」が活況を制したことで、トルコ風呂は、まず上野浅草に、そして新宿、五反田、渋谷、池袋などへと続々オープンした。

一方、1957年(昭和32年)の売春防止法の施行(この年は客引きなど一部の施行で、全面施行は翌年)で、青線赤線業者は業態変化を余儀なくされ、トルコ風呂の経営に乗り出す。

新宿2丁目の御苑寄りに「御苑トルコ」がオープンしたのが1959年(昭和34年)。元は新宿青線の「初夢」という店だったとされる。

「割烹自慢荘」もこの業態変化の波に押され、同じ敷地に「トルコ大木戸」を開業。
時代に乗ったトルコ風呂の繁盛で、「割烹自慢荘」は営業を停止する。


※参考資料〜「東京温泉」オープンから「御苑トルコ」オープンのくだり:別冊週刊サンケイ 1960年5月1日号「女千人に浴室八百 −トルコ風呂繁昌記−」、「東京温泉」に関して:「エロスの原風景」松沢呉一(ポット出版)

これは、あまりに乱暴すぎますでしょうか?

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その13



[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その11


(title design/S.Takei)

続きです。

少し前にご紹介した、四谷四丁目町会 ホームページ委員会 小林辰充様(四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人)からご提供いただいた、「トルコ大木戸」と並んで建っていた「割烹 自慢荘」の入り口がはっきりと写る、1981年の「太陽にほえろ!」ロケ写真の検証報告です。

あれからすぐに「太陽にほえろ!」研究サイトを当たったり、管理人の方に問合せをしたりして、はじめは

「結構スムースに放送回を特定出来るのでは?」

という感触を持っておったのですが、しかしこれが実に難航。

ロッキーとドックの出演がかぶると思われるのは、第415話〜第519話。
1981年の放送は第439話〜第519話の内の全80話に絞られるだろうというところまでは行けたのですが、どうしてもその先が進まない。

「80話くらいなら見てやろうじゃないか。」

と思ったものの、「太陽にほえろ!」のDVDはレンタルに出ていないし、各種映像オンデマンド配信サービスにも乗ってない。

事実上、VAPから出ているDVDボックスで観るしか、「観たい時に観る」手段がないことがわかりました。

本DVDボックスの国会図書館での所蔵が確認出来たものの、1日に閲覧できるDVDの本数は3本。DVD1本に4話収録されているので、80タイトル見るためには・・・80÷4÷3=6あまり2・・・つまり7回も永田町に通わなければならない計算になります。

「だったらDVDボックス買っちまおうか。」
という衝動にも駆られたのですが、1981年放送分は2つの箱に分かれていて、全部買うと6万円超えです。
さすがにこれでは道楽の度が過ぎます。

「この検証に深入りするのはやめようか・・・。」

そんな思いにもなっていた中、「『太陽にほえろ!』当直室 仮設日誌」というサイトにぶつかりました。「ロケ地検索&メモ」というシリーズで、1話1話の感想とロケ地のメモが記載されているのです。

「これだ!!」
と、四谷四丁目が関係する回を検索し、おおよそ2〜3話を「確認優先順位の高い回」として当たりをつけました。

これなら1日に閲覧できるDVDの本数が3本の国会図書館に検証に行く価値ありです。

そして、少し相談に乗っていただいたFacebookページ「太陽にほえろ!」の管理人様(心より感謝申し上げます)より、

「当時、太陽にほえろは撮影自体4話掛け持ち撮影だったので衣装が同じという事で絞り込める。・・・という事が言えます。」

というアドバイスを頂戴しておりました。

つまり、最大3話の優先順位で、DVD1枚4話収録なので、前後の回も要確認で3本で12話見ることでより当たる確率が、高まるということですね。

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そんな訳で、いざ国会図書館へ。
DVD閲覧ブースで、ひたすら作品のストーリーはまったく追わず、「ここか!?」と思うところ以外は、早送りで画面を凝視します。

気になるシーンは何度もコマ送りや一時停止、巻き戻しを繰り返して、お店の名前や地名に関係する記載を探します。

当たり前の話ですが、ドラマの映像は人物を中心に追うので、背景に見たいものがあっても、なかなかピントを合わせてくれないし、寄って行ってくれない。

いやぁ、もどかしいこともどかしいこと。

3タイトル観るのに恐ろしく時間が掛かりました。

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さて・・・。そんなわけで、見つけました。

まずは、「太陽にほえろ! 1981 DVD-BOX II」収録の

第465話「裏の裏」(1981年7月10日放送)。

まず、ひとつ前の回、第464話収録の次週予告を見て、「ぴーーん!」と来ました。

ロケ写真と、ドック、ロッキーの衣装が完全に一致しているのです。

出てきたのはこんなシーンです。
(ホントは画面キャプチャでも載せたいところですが、さすがにそれは気が引けますし、そもそも国会図書館でキャプチャ撮るのは無理。・・・ということで、苦肉の策。法廷画風に(?)トレースしたイラストと文章での解説でご勘弁を。)

・・・少し遠目の位置からのカメラ。
小さな坂道を登って来るようにロッキーとドックが上半身から少しずつ姿を現す。

捜査に行き詰まる中、語りながら考えを巡らすドック。

左側の電柱の上部に看板がある。

筆文字で「◯◯本店」と読める。

そして「パーティー、◯◯(割烹?土鍋?)料理」の文字、電話番号は下4桁「(多分)3831」が確認出来る。
そして、お店の位置を示す赤い矢印は右側を示している。

「◯◯本店」の「本」の上のもう一文字を確認したい。
偏(へん)と旁(つくり)に分かれている漢字であることは確認出来る。
「自慢」の「慢」の「曼」に見えなくもないが、断定できず。

続いてドックは立ち止まり、語り続ける。

右手後方にガソリンスタンドの看板が。
いちじくを横にしたような青の太いライン、いちじくのお腹の部分に大きな赤丸のロゴ。

このロゴだ。


JX日鉱日石エネルギー 新しいENEOS誕生までのあゆみより

 

見覚えがあるロゴ・・・共同石油(現・JX日鉱日石エネルギー株式会社、石油事業ブランドは「ENEOS」)だ。

次にカメラは左側からドックのアップ。

背後は瓦屋根の日本家屋は2軒? 間に低い木の緑が見える。
瓦屋根越し後ろに白い高い建物が。縦長の窓に特徴がある。

続いてドックは、今カメラがいた左側の方向へ、腕組みをしながら移動をする。

左側の道の端には駐車禁止の標識が。

その辺りがゴミ集積場なのだろう。その標識にオレンジ色の板が括りつけられていて、手書きで

「指定日以外 ゴミを捨て(おそらく→)禁止」

の文字と下に白い矢印のようなものが貼られているのが、確認出来る。

そこからまっすぐ歩みを進めるドック。

「大木戸産業株式会社」と社名が書かれた少々汚れたブロック塀が。
そこから先は下り坂となっていて、車通りの多い大通りへとぶつかる。

「そうかわかったぞ!」と、捜査のひらめきを得るドック。
そして、大通りへ向かって坂を走って降りていく。

右手に「朝日屋」というお店の入り口の看板と、その先の電柱に大きく「大和通信建設」の文字が確認できる。

反対側から少々呆れ気味のロッキーの姿。背後には先程のゴミ集積場近くの道路標識と、2人が登場した時に見えた電柱が遠くに見える。

つまり、このシーンは一本のまっすぐの道で収録されたということがわかります。

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さぁ。ではでは答え合わせです!
では、1982年のゼンリン住宅地図を見てます。

そして、四谷四丁目町会 ホームページ委員会 小林辰充様(四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人)からご提供いただいたロケ写真を見てみましょう。

じゃじゃーーん!!

地図と写真から

・共同石油

・民家と割烹自慢荘、間の緑の木、後ろの特徴的な窓のある高い建物

・自慢荘の向かい側のゴミ集積場にある駐車禁止の標識と「指定日以外 ゴミを捨て(おそらく→)禁止」のオレンジ色の板

・外苑西通りに出る坂道の「大木戸産業株式会社」「朝日屋」「大木戸産業株式会社」

が一致することがわかります。

そして自慢本店の看板の真偽こそ判断できないけれど、矢印の方角は当たっています。

また、写真で見られるゴミ入れの缶に「朝日」と書かれてるのは何故!?
という疑問も「朝日屋」のものだったということで繋がりました。

完全ビンゴです。間違いないでしょう。

現在の風景はこちら。


※googleストリートビューで確認

後ろを振り返ると、右に「ENEOS」のガソリンスタンド、左に電柱・・・基本変わってないのにびっくり。


※googleストリートビューで確認

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さて。
続いて、四谷四丁目町会 ホームページ委員会 小林辰充様(四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人)の証言

確か、ウチの建物の上から旧サンミュージック前の人物に向かって犯人が狙撃するようなシーンも撮ったと思います。 
道端に撮影に使うための血糊の入った瓶が何本も並べてあったのを覚えています。

の検証です。

それは、続く

第466話「ひとりぼっちの死」(1981年7月17日放送)

ですぐに見つけることができました。

こんなシーンです。

四谷四丁目の交差点。
小林ビルの全景が映されます。

合わせて現在見えるこの景色を見てみましょう。



※googleストリートビューで確認

交差点角に長年あったガソリンスタンドから小林ビルまで、まったく高い建物がなかったのですね。

シェル石油の隣に、大きく3文字の筆文字の看板がある低い建物が見えます。
小林ビルは、ほぼほぼ、現在から姿を変えていないようですが、1階〜3階の外観は当時は白色だったのですね。
縦に通るエレベータ? 階段? 部分も白色で、現在の全体が黒い印象とは異なっています。

隣りの写真館のある4〜5階建ての建物は何ひとつ変わっていないことがわかります。

その写真館のある建物に付いているのか、その隣りなのかわかりませんが、塗料メーカー「ロック・ペイント」の看板が確認できます。

次にシーンは、小林ビルの屋上から。
交差点のサンミュージックのあった大木戸ビル方面を狙うライフルの先。
うん、そういえば、今は白っぽい建物だけれど、昔は確かにれんが色っぽかった。

大木戸ビルの新宿方面に向かった隣り、今宇宙村や、喫茶店、お蕎麦さんが並ぶ第1シンコウビルは、まだ建築前なのか廃墟のように見える。

そして、大木戸ビルの反対側の隣り、吉岡ビルの入り口がアップに。
この辺は、隣の文房具店といい、まったく変わってない。

吉岡ビルから出てきた男がライフルで狙撃される。

交差点の歩道は大混乱。

現在の風景はこちら。


※googleストリートビューで確認

ゴリさんは、ライフルを撃った場所を探しに動き始める。
横断歩道を四谷三丁目側へ渡る。

この辺も歩道に車が数台停まってたり、まだ全然栄えていない様子。

現在の風景はこちら。


※googleストリートビューで確認

そして、さらに横断歩道を渡り、ゴリさんは小林ビルへ。

1階の蕎麦屋の(四谷大木戸 藪蕎麦)の扉に手を掛けた時、怪しい男が四谷三丁目方面から歩いてくるのに気づく。

ゴリさん越しに画面いっぱいに映る「四谷大木戸 藪蕎麦」

怪しい男は新宿方面へ歩いて行く。

追いかけて声を掛けるゴリさん。
その後ろにずっと「四谷大木戸 藪蕎麦」の入り口が。

(この辺りは、撮影協力へのサービス・ショットだったのでしょうか?このシーンは「このお蕎麦やさんどこだろう?」と、実に気になる映し方をしているように感じました。)

そしてこのシーンで、隣の写真館のある白い建物の1階で、壁に張り付いて撮影をじっと見ている白いシャツに半ズボンの少年が確認出来ます。

これは、ひょっとして、あのロケ写真を撮った、のちの「四谷大木戸 藪蕎麦」主人、小林少年の姿でしょうか!? だとしたらすごい。

下の写真は現在の風景。

そして、ゴリさんは小林ビルの屋上へ。
交差点が外苑西通り側、靖国通り寄りに映しだされます。

「おっ!これは!」
と期待しましたが、「トルコ 大木戸」までは通り1本分届かず。

しかし、あの一帯は、古い建物、住居が密集しているように見えます。

四谷四丁目ロケはここまで。

ただその後、唐突に女性2人がお蕎麦やさんで食事をするシーンが入ります。これは、ひょっとして「四谷大木戸 藪蕎麦」の店内なのでしょうか?
壁に掛かった丸い額に入った海老が描かれた色紙が、印象に残ります。

ではでは、今回のロケエリアを1982年の地図で確認してみます。


(画像クリックで拡大地図にリンクします)

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そんなわけで・・・。
1981年の「太陽にほえろ!」ロケ写真の検証でした。

さすがに、金曜夜8時放送のドラマで「トルコ大木戸」を映像で捉えることはないだろうとは思っていましたが、35年前のあの辺りの雰囲気を目で見て感じることができてとてもわくわくしました。

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四谷四丁目をロケ地にした回はその他にもあって、あと今回確認できたのは、第529話「山さんの危険な賭け」(1981年7月17日放送)。

犯人グループ、響組のビル「響興産」として、建物の名前は架空のものになってるけど、住所がはっきり「四谷4丁目24番地」と書いてある。

調べてみたら、一時期毎日ランチで通ってた魚の美味しい料理屋さん「旬香」の入ってるとこじゃない。建物はなんにも変わってないのでは??


※googleストリートビューで確認

最後は、余談でした。
ではでは。

【追記・後日談】
本文中、「もしや!?」と記させていただいた「四谷大木戸 藪蕎麦」前のシーンで、隣の写真館のある白い建物1階で、壁に張り付いて撮影をじっと見ている白いシャツに半ズボンの少年に関して。
後日、四谷四丁目町会 ホームページ委員会 小林辰充様(四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人)にお問い合わせさせていただいたところ

写りこんでる子供、それはまさしく私ですね(汗) その直後にゴリさんと並んで写真を撮ってもらったんです。 
私が写ってるとは、本当にビックリしました。

とのお返事! これまた35年経っての大発掘でありました。(2016.7.19.追記)

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その12



[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その10


(title design/S.Takei)

続きます。

前回、四谷四丁目ホームページ委員会 小林辰充様(四谷大木戸 藪蕎麦 ご主人)からご提供いただいた1981年撮影のドラマ「太陽にほえろ!」のロケ写真をご紹介させていただきました。

ここに「トルコ 大木戸」と、手前と奥の並びで建っていたとされる「割烹 自慢荘」の看板と入り口がはっきりと確認出来ることに、衝撃と感動をおぼえ、それを私たちは共有しました。

さて。
この写真に関する小林様のコメントに

この時には自慢荘は経営はしていなかったと思います。

というものがあり、この点がどうにも引っ掛かっておりました。


今一度、住宅地図を確認して参ります。

これが1982年版。

そして1995年版(1994年11月発刊)。

1996年版(1995年11月発刊)で「割烹 自慢荘」「大木戸ソープランド」は建て壊され、新ビル建設に向けて動き始めます。

つまり地図上では、「大木戸」とともに建て壊される1995年ごろまで「割烹 自慢荘」は存在していることになっているのです。

過去ご紹介した、ホテル長良川のご主人の証言でも、

「ある時期からは料亭はやらなくなって、お風呂だけになったんだよ。」

というものがありました。

単に私が見ている地図が正確ではないということなのでしょうか?

ではでは。
ここで少し話を変えます。
新宿区歴史博物館様からお借りした写真の中からもう1枚ご紹介します。

新宿区歴史博物館の例のピンク色のファイルには

「S40〜45? 四谷4-25 大木戸会館前」

という説明書きがありました。

御覧ください。
右の方の電柱に「割烹 自慢本店」と書かれた看板が見えます。

「お、おっ!これは? 『割烹 自慢荘』の看板なのでは!?」

新宿区歴史博物館の閲覧室で思わず声を出してしまったことを覚えています。

この写真を四谷四丁目町会のみなさまにご覧になっていただいたところ、

恐らくそれは大木戸坂下の交差点を花園小学校東の信号側から撮ったものと思われます。
正面の高い建物は関口貨物があった関口ビルですね。
その先には靖国通りの富久町の歩道橋が見えます。

との証言をいただきました。
現在の地図を見てみます。

右下の赤丸が「トルコ 大木戸」「割烹 自慢荘」がかつてあった場所と「ほぼ」確定しているエリア。

赤い矢印が、今回の写真が撮られた場所と思われるところです。
現在の写真を掲載します。


(2016年6月30日撮影)

すっかり風景は、変わってしまっていて、かろうじて富久町の歩道橋が共通の景色として残っています。

では、「割烹 自慢本店」と書かれた看板に関しての四谷四丁目町会のみなさまの証言をご紹介します。

看板についてですが、「自慢本店」ですよね。
実はこれはまた別の小料理屋さんがあったのです。 
閉店したのは比較的最近(7、8年くらいか・・)なので、ネットにも情報はあると思いますよ。ここは「Uさん」という方がやっておられました。
自慢荘との関係は私共も分からないのです。
  [注:人名等一部修正しています。]

「割烹 自慢荘」とは別の店!?

「割烹 自慢荘」は「1980年代前半には営業していなかった。」という証言と合わせ、これは一体なんなんだろうかと早速、ウェブで「自慢本店」を検索してみました。

確かに「食べログ」に「このお店は現在閉店しております。」として情報が載っています。

ジャンルは「懐石・会席料理」。住所は「新宿区四谷4-25」とあります。評価や口コミは、(すでに消されてしまったのかもしれませんが・・)ともに0件。


1996年にBrewster Kahle氏によって設立された非営利法人インターネットアーカイブによる、過去のウェブサイトのデータを保存しているサービスWayback Machineで検索を掛けてみましたが、情報はゼロ。

やはり、足を使うしかなさそうです。

「食べログ」にあった住所「四谷4-25」に向かうと、煉瓦色といえばよいのでしょうか正方形のタイル貼りの外観が特徴のマンションがありました(上記地図の青丸の場所)。

入り口なのか裏口なのか、黒い鉄柵があります。

そして灰色の塀には、今は使われていないようですが、木で出来た独特の長方形の枠がある、埋め込み型の壁面照明が一定の感覚で付けられています。

ここにオレンジ色のあかりが灯されたなら、とても趣ある雰囲気になりそうです。

受ける印象としては「割烹 自慢本店」があったのはこの辺りと感じました。

早速隣りのビルの1階の中華料理店のご主人に話を聞きました。

「この隣に『自慢本店』という店があったと聞いたのですが・・・。」

「あー、はいはい。ありましたよ。10年くらい前にやめちゃったんじゃないかなぁ・・・。」

「その頃から建物は変わってますか?」

「いや、このまんまですよ。」

「その角を曲がったちょっと先に『割烹 自慢荘』というお店があったと思うのですが・・・。」

「ああ、『多満川』さんでしょ?」
(「多満川」さんも古くから営業されている老舗の小料理屋さんです。)

「いえ、もう少し先です。」

「うーん。あったような気もするけど・・・。私もここはそんな長いわけじゃないから・・・。」

「食べログ」は株式会社カカクコムが、2005年にサービスを開始したグルメサイトであります。(株式会社カカクコムウェブサイト「カカクコムの歩み」より)

「自慢本店」の情報が、「食べログ」に掲載されているということは、少なくとも2005年・・・サイト立ち上げまでの準備期間中を鑑みても2003〜4年くらいまでは営業されていたと考えるのが自然ではないでしょうか?

今一度、新宿区歴史博物館所蔵の看板の写真に話題を戻しますと、撮影時期は「S40〜45?」とありました。

1960年代はじめから半ばには「自慢本店」は「割烹 自慢荘」の数十メートル離れたすぐ近くで営業していたことが想定されるのです。

ここまでの疑問点を整理します。


・「1980年代はじめには営業していなかった」とされる「割烹 自慢荘」は、何故最後まで地図上に名前を残していたのでしょうか?

・「自慢本店」と「割烹 自慢荘」の関係は?

 -「割烹 自慢荘」を閉めて「自慢本店」を新たに営業したのでしょうか?

 -系列店として2店舗並行して営業されていた時期があるのでしょうか?

 -もしくは同じ屋号を巡ってシノギを削ったライバル店だったのでしょうか?「元祖◯◯◯」「本家◯◯◯」いった感じで。かつての「ほっかほっか亭」と「ほっかほか亭」の争いのように。

嗚呼、今すぐお墓の前に行って、マル・エヴァンスに聞きたい!
共同企画の中村実さんに聞きたい!

あなた達が「トルコ 大木戸」に行った時、「割烹 自慢荘」は営業していたのですか?

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その11



[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【生ブラン開催報告】新宿 ロックンロール以外は全部嘘 初出演


ご来場、ご声援心より感謝申し上げます。
2016年7月9日(土)、常々噂をおうかがいしておりました新宿のロック・バー「ロックンロール以外は全部嘘」に初出演させていただきました。

暗めの赤を貴重にした、居心地よい空間。

是非また出演させていただきたいです。

ブランのセットリストは

 1.憧れと幻想
 2.ないがしろ
 3.ムード
 4.アレとソレの関係
 5.自戒ロック
 6.コントロール操作

でした。

会場:ロックンロール以外は全部嘘

出演:
 ブラン
 Syd38
 仇花




(フライヤーデザイン:ブラン竹井メンバー)



※過去のライブ実績はこちらにて。