アダチ龍光さんのこと年表wiki編 移転のお知らせ

懸案でした、アダチ龍光さんの人生を時系列で追う「アダチ龍光さんのこと年表wiki編」をSeesaa Wikiに移転し、公開開始いたしました。
またコマメに更新して参ります。
今後ともドゾヨロシク。

 

雑感:「Eight Days A Week」を堪能

うーん。大満足!
ビートルズの演奏とファンの熱狂にどっぷり浸かっての2時間数十分。

ビートルズのコンサート活動期を追ったドキュメンタリー「Eight Days A Week」を堪能いたしました。

(以下、ネタバレあるかも)

ビートルズのパフォーマンスが良い画質で良い音で大音量で提示されるだけで、こんなに圧倒されるとは。
21世紀に提示されるビートルズは今回もすごかった。

先だってリリースされた「Live at The Hollywood Bowl」よろしくビートルズのロックバンドとしての迫力。特にリンゴのドラムがパンキッシュなこと。鋭利なジョンのリズムギターの気持ち良さ。ポールの弾きまくりうねりまくりのベース。的確なジョージのリードギター。
誰がなにをやってどんな役割だったかかよーくわかります。

でまた、ステージ上で演奏しながらも実に4人が仲良さそうで、楽しそうで思わずニヤニヤ。

初渡米時のワシントン公演のドラムセットがグルグル回るやつが、カラーで登場。ここでも音がガレージロックかってくらいの迫力でグイグイ。これにはびっくりした。

「Twist And Shout」「Dizzy Miss Lizzy」「Help」などのジョンのシャウトに痺れ、「Baby’s In Black」や「Ticket To Ride」で1本のマイクでジョンのリードにポールがコーラスを重ねる様にメロメロに。

本編終了後、定番のシェイスタジアム公演が最新リストアでライブを疑似体験。
終始ニヤニヤが止まらない。

ラストの「I’m Down」のジョンがキーボード弾きながらふざけて、それにポールもうれしそうに反応する様は何度見てもたまらない。

ミーちゃんハーちゃんで2時間たっぷり。

今から西新宿行ってシェイスタジアムの映像買ってこよ。

・・・数時間後。
あれ?

シェイスタジアムの映像だけ買いに来たのに、なんでハリウッドボウル3公演入2CD+1964年映像DVDも持ってるんだ?

#beatles #eightdaysaweek

 

遁レコサイト成人式

今月入ったら何か特集でもやろうと思っていたのですが、気がつけば9月も20日過ぎになってしまいました。

えーー、遁レコサイトはこの9月23日で開設から20周年を迎えます。

「世にはインターネットというものがあって、世界中に情報発信が出来るらしい」

と衝動的にローンを組んでパソコンを購入したのが1996年の9月。
「HTML入門」ってな本を買って数日後にホームページを開設。それが9月23日でした。

今となってはピンと来ないかもしれませんが、まずは表紙代わりのトップページがあって、それをクリックしてもらってから目次代わりのコンテンツ一覧を見せるという流れが一般的だった気がします。

開設当時のファイルが残っていないので、2000年頃のものかと思うのですが、要はこんな感じです。
http://www.tonreco.com/indextest.htm

中身の開設当時のファイルが残っていました。
http://www.tonreco.com/intro.htm
アングラ臭ぷんぷん。

当時はインフラが28.8Kbpsのモデムで、インターネットの接続は電話回線。つまり、インターネットに繋いでる間はどんどん電話代が掛かるのです。もちろんすぐにテレホーダイに加入しました。

画像をアップするのもちと大変だったし、画像が多いサイトは読み込みに時間が掛かるので敬遠されるところもあったように思います。

開設から数日後9月27日には日記のようなことを始めています。
http://www.tonreco.com/words/words96.htm

青臭くて思わず笑ってしまいますが、奇しくも最初のテーマが藤子F不二雄の死に関して。氏が亡くなったのは9月23日だったのですね。

何故私が「藤子不二雄Fこと藤本弘」と記しているのかは不明。
単なる私の凡ミスか、はたまた当時はFの位置の認識が定まっていなかったのか。

あとこの時期は、まだまだ企業がウェブサイトを持つことも始まったばかりで、サイトを公開してるだけで、取材を受けたり雑誌に取り上げられたりすることがありました。
例えば「あちゃら」(リクルート)1997年4月号。
http://www.tonreco.com/achra.htm
無記名原稿でしたが、取材をメールで受けたのは「ロッキング・オン」を離脱した直後だった(と記憶している)川崎和哉氏からで感激したのを覚えています。

アングラ誌テイストがワクワクした「インターネット・マニア」(大滝詠一のインタビューが6ポくらいのサイズでびっしり載ってたのをむさぼるように読んだのを覚えています)にも取り上げられたともあります。
(覚えてないのですが・・・)
http://www.tonreco.com/words/words97-1.htm#518

また当時、インプレスだったか(検索したらソフトバンクからでした)「インターネット・イエローページ」といウェブサイトの電話帳が出版されていて、当たり前のようにウチのサイトが載っていました。
本でウェブサイトを網羅できてしまえるようなそんな時代だったわけです。

(つづく・・・かも・・・このネタ面白いかな?)

 

アダチ龍光さんのこと:郡山とアダチの血

アダチ龍光さんの弟で、私のばあちゃんの腹違いの兄に当たる、後のお寺の住職となる天真和尚の長女の娘さんが郡山でスナックを経営されているということを、以前からおうかがいしていました。

お店の名前は「びいどろ」。
場所も以前から調べて、前回郡山に昼間来た時に確認済みだったので、この日この場所に夜いるのも何かの縁かお導きか、ということで、飲みにおうかがいしてきました。

木のドアを引き、薄暗い店内へ。
客はまだ誰もおらず、ソファにアンニュイな雰囲気でもたれ掛かり、スマホをいじっているママ。

「はじめてなんですが・・・。ひとりでいいですか?」

「いらっしゃいませ。どうぞ。」

「実は私、阿達勝則と申しまして・・・云々」

「えーー!?」

なんて具合に、あっという間に打ち解けることが出来ました。

長い間会津に住まれていて、後に実家のお寺のある鹿瀬に戻ったり、神奈川に住まわれたり、いろいろなご苦労があったようです。
でも、持ち前の明るい性格なんでしょう。
会津の阿達にはあまりないカラッとした明るさが気持ちいい方でした。

龍光さんの思い出をおうかがいしたところ、

「お寺に鐘を寄贈して、鹿瀬の小学校に手品をしに来たことがあって、その時に鹿瀬のお寺で会ったことははっきり覚えてます。」

とのこと。
おそらく、1975年(龍光79歳)5月の鹿瀬小学校の100周年記念で手品を披露した日のことでしょう。

鐘の寄贈と鹿瀬小学校の100周年記念奇術が同じタイミングだっとは知りませんでした。
この件はここに書きました。

ヒットした手品グッズはこれ。

あと、余談ですが、妙にウチの父親のことを詳しく覚えていらっしゃるのでなんだろうと思ったら

「だって、あの人とお見合いの話があったんだから」

ですって。ひっくり返ってしまいました。

なになに、運命が違ってたら、ママが私のお母さんになってたってこと?
(いやいや、私自体存在しないですね)

親父の戦慄の事実が判明。
その後親父に確認したら事実だった。

なーにが、酔って涙流しながらの口癖

「オレは死んだ女房一筋だったんだ。」

だよ(笑)。

いやぁ、楽しかった。

またおうかがいします。

初めてのひとりスナック、よろしゅうございました。

 

50年目のビートルズ来日公演映像を観る

ほぼ1ヶ月半遅れでありまずが、ビートルズ来日公演の映像を腰を落ち着いて堪能。

本日西新宿で所用ありで、最新リリースの日本公演盤「THE BEATLES TOKYO1966 TMOQ SPECIAL COLLECTOR’S EDITION」を入手。ブートレーベルの老舗中の老舗、ブタさんマークの「Trade Mark Of Quality」からのリリースとなっておりますが、そんなばなな。

さて。
7月1日昼公演が定評有りとされているようですが、「ポールのマイクゆれゆれ」の初回6月30日夜公演もなかなかの気合で、ジョンとリンゴはこの日の方が荒くて好き。

安心して楽しめるのは7月1日昼かな。ともに甲乙付け難し。
来日当時は7月1日昼公演が放送されたわけですが、個人的には、「ポールのマイクゆれゆれ」の初回6月30日夜公演の方が馴染み深くて、何故かなと調べてみたら、1988年にマイケル・ジャクソとプレスリーのライブとともに再放送されたのが、6月30日昼公演だったからだと思います。
録画したこの番組を何度も何度も観たのです。

でもビートルズ来日の衣装は、6月30日夜の黒のジャケットより、7月1日昼公演のベージュのジャケの印象が強いのは果たして。どこで記憶が錯綜混乱したのでしょうか?

このDVDに収録されている前座映像も初見づくしで面白かった。

1.ウェルカム・ビートルズ(ブルーコメッツ&ブルージーンズ、尾藤イサオ、内田裕也)
2.のっぽのサリー/ザ・ドリフターズ
3.ダイナマイト/尾藤イサオ
4.朝日のない街/内田裕也
5.恋にしびれて/望月 浩
6.キャラバン/ブルーコメッツ

音声は、個人的にビートルズ来日ブートで一番気に入っている「THE BEATLES JAPAN 1966」(MASTERDISC MDCD 010/011)と同一で、7月1日昼公演のものかと。

ドリフの演奏はYoutubeなんかでも結構手軽に観れるのですが、これは加藤茶が日テレの『いつみても波瀾万丈』に出演した際に放送された映像がソースになっているようで、6月30日夜公演の模様。

サビの

「Havin’ me some fun tonight.」

でドラムの加藤がふざけたフィルインを入れてメンバー一同ずっこけるのが正面から捉えられています。

最後の締めは加藤の「ばっかみたい」といかりやの「退散!」。

しかし一方、このDVDではサビは前半ほとんど加藤のアップ。
メンバーのズッコケは映像的にあまり活きていません。

最後の締めは加藤の「ばっかみたい」といかりやの「にげろ!」。

加藤がドラムセットからステージ中央に駆けつける間に、すでに次の「ダイナマイト」を歌う尾藤イサオがステージに上がっています。

これは面白かった。

前座の6月30日夜と7月1日昼公演の放送履歴を勉強したいと思いました。

つまるところ前座映像も両方残ってるってことなんでしょうね・・・。
ビートルズ来日映像は奥が深い。

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)


(title design/S.Takei)

続きです。

誰も区切ってなどいないのですが、そろそろこの楽しいタイムスリップの旅も、時間切れが迫っている気がいたします。

実に、実に名残惜しいのですが、このラストスパート。
ご一緒にトルコ「大木戸」に向かってみましょう。

新宿を背に新宿通りの四谷大木戸交差点の手前を左に曲がれば正面にその姿が見えてきます。

お忍び気分なら四谷大木戸交差点を、右手に「大木戸」の看板を見て心躍らせながら環状4号線(外苑西通り)靖国通り方面に曲がり、ふたつ目の通り、左の坂をひょいっと上がり、「自慢荘」の手前を右に曲がる。四谷大木戸交差点を曲がった頃には、「大木戸」の袖看板も見えているかもしれません。


撮影:1964年(昭和39年)9月25日


撮影:1964年(昭和39年)9月25日


撮影:1977年(昭和52年)

1966年6月30日、ビートルズのローディのマル・エヴァンスは、協同企画の中村実氏に連れられてここにやってきたわけです。
「自慢荘」前に車を付けて降り、向かえの新宿駐車場に車を停めたのでしょうか。

トルコ「大木戸」に到着。

黒い煙突は、木戸とトルコ「大木戸」の入り口の間の、ちょっと見上げるところにあったと言います。

[柳谷様] よくこの入口のところに石油屋さんの車が停まってたのを覚えています。お風呂のボイラー(石油給湯器)のため。

でも、昭和40年くらいから「自慢荘」に出入りしていた酒屋さんに聞いたら「煙突は地中からダクトのようなものが出ていて、調理棟の外壁を伝って屋根にいたる煙突のようになっていたという記憶がある。」と言っていました。

後にそういう風に変えたのか、このイラストは僕が子供の時の記憶なので、酒屋さんの話が正しくて、別のトイレの排気みたいなものを間違えて覚えていたのかもしれません。

そうすると何人かの人が「煙突があった」というのは「ああ、そうなのかな」と納得が行く気がします。

酒屋さん曰く「色は多分黒かった。」と。
そこに「トルコ」という文字が書いてあったかというと「覚えてないなぁ。」ということでした。

料理屋「多満川」ご主人柳谷治様のイラストに、誠に失礼ながら手を入れさせていただき、酒屋さんの証言を絵にするとこんな感じになるのでしょうか?

複数の方から「大きな黒い煙突があった。」という証言があったことと結びつけるなら、確かに煙突は、このくらいの高さがあると自然な印象になるかもしれません。

ただ、「煙突に『トルコ』という文字があった。」という証言は、すぐ横にあった袖看板の存在の記憶と混ざっているのではという気がしてなりません。

また一方で、

[柳谷様] でも「自慢荘」で働いていた仲居さんは、「煙突に覚えはない。」って言ってました。

ということで、「大きな煙突」問題は完全にはクリアにはなりませんでした。

次に、トルコ「大木戸」の入り口付近はどんな雰囲気だったのでしょうか?

[柳谷様] 入り口横の看板も、袖看板も光らないものでした。光るものをいえば、入り口が明るかったぐらいじゃないかな。知ってる人しか来ないという感じだったから。

けばけばしいネオンがあったわけではなく、入り口辺りの雰囲気は、シンプルで落ち着いたものであったのかもしれません。

では、階段を降りてトルコ「大木戸」の店内へ向かってみましょう。

[柳谷様] 子供の頃、遊んでるとボールがみんなここ(トルコ「大木戸」)に入っちゃったりするんですよ。で、ボールが階段の下の方に落っこちてしまって。で、お店の人が「いいよ、入って取っておいで。」なんて声を掛けてくれたのを覚えています。

ということは、階段のところには扉がなかったということではないでしょうか?

[柳谷様] 覚えているのは、入り口からすぐ階段だったんです。そこを降りて行くと、木戸みたいな・・・赤いガラスの扉があった気がします。

そして中に入ると、すぐに左手に小さい受付のようなカウンターがあって後ろの壁にカレンダーかなんかが貼ってあった。

右手にはピンクのモザイクタイルのようなものを埋め込んだ浴槽のようなオブジェ・・・水が張ってあって・・・花を活けようとでもしていたのかな・・・そんなものがありました。

その上の方に青とピンクの電飾が施されていたように思います。

その奥に4つか5つピンク色の扉があったと記憶しています。そこが個室だったんでしょう。

とにかく一面ピンク、ピンクという感じでしたね。

そして、柳谷様におうかがいしていただいた、当時の従業員だった方の証言で、さらに具現化されました。

[C様] 入って向かって左手の一番前が受付で、その裏が待合室だった。待合室の後ろに個室が1〜2部屋。

向かって右手の変なオブジェのようなものの後ろはすべて個室で、3~4部屋あったような気がする。

奥の方は事務所やボイラー室だったような気がする。

[柳谷様] あと、さっきの酒屋さんの話では、「個室の扉には船の舷窓のような丸窓が付いていて、出前に来た近所のお店の旦那さんがそこから必ず中を覗こうとしてたんだよねぇ・・・。」って言ってました。

かつて「その8」で取り上げた、匿名掲示板で語られていたトルコ「大木戸」の記憶

5 :名無しさん@入浴中:02/03/13 12:31
大木戸・・・・。
懐かしい・・・。
ホテル本陣の側だよね。
着物姿が懐かしい・・・。

10 :special love:02/03/13 20:57
個室サウナ 大木戸…今はもう無いんだ
夕方行くとタイムサービスで安かった。
個室に入ると赤い壁に赤い絨毯。ベットがあって岩風呂風のお風呂があった…

36 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:39
懐かしい店名だな。
そう半地下のお店で小さな部屋が向かい合ってて、
女郎屋を思わせるような淫靡な造りだったね。

37 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:42
遊郭の香りのする所だったね。

と合わせて想像をふくらませると、トルコ「大木戸」の姿が活き活きと目の前に現れて来るようです。

お話をおうかがいしながら、柳谷様に目の前でさささっと描いていただいたトルコ「大木戸」入った正面からのイラストを掲載します。

そして稚拙ですが、大木戸の見取り図を描いてみました。

つ、ついに私たちは、ポール・マッカトニーですら訪れることの叶わなかった、あの、トルコ「大木戸」の店内の様子までも共有したのです!

——– ◆ ——–

次に、トルコ「大木戸」の雑誌での取り上げられ方も見てみます。

「その手のお店の情報誌を当たれば写真の1枚2枚なんて、ぱぱっと出てくるもんだろう。」

と、どこかで考えておったのですが、それは完っっ全に甘かったです。予想以上の苦戦でした。

「1960年代後半から1990年代半ばに掛けての風俗ガイド本、情報誌を当たるべし!」

と、古書店を当たれば、

「そういうのは、時々出てくるんだけれど、売れないだろうと捨てちゃうことが多いんだよね。」

という回答を数店から。

オークションサイトで片っ端から落札しても、空振り続きでした。

並行して、大宅壮一文庫に数回通い、1960年年代前半から1996年の範囲で

 「『新宿』or『トルコ』『ソープ』『サウナ』」

のキーワードで、雑誌掲載記事が約100件、その他データベース化されていない目録から、上記のキーワードや「プレイスポット」などの分野からピックアップした記事が掲載された百数十冊にトルコ「大木戸」の掲載記事を探しました。

私の探し方の力不足もあるのでしょうが、見つけることができたのは、かろうじて2つの記事だけでした。

掲載はともに「週刊現代」。

まずは、1979年(昭和54年)4月12日号 P194〜196掲載記事「トルコロジー細密描写!! 若者の街 東京・新宿トルコただいま30軒『遊びの不毛地帯でした』」掲載の「新宿・トルコ風呂ガイド」。


記事の内容をざっくり書くと

「新宿という、時代の最先端を行く街にしては、サービスが古くさい。」

という否定的なトーンが基本なのですが、一方で

「この古典的サービスにこそ味わいがある。」

といった一体何が言いたいのかと少々論旨がブレブレ。

「大木戸」の紹介には

新宿御苑前の裏通り。料亭風の造り。伝統的なプレイと好評。

とあります。
「料亭風の造り」なんじゃなくて、料亭にトルコ風呂を造ったんですよ。

続いて、1979年(昭和54年)9月6日号 P161〜163掲載記事「残暑ピンク・リサーチ!!『トルコの古典的プレイWS(ダブスペ)サービスをいまもやっています』」掲載の「古典的トルコ20 (丸中数字)1」。


ここでは、先ほどの記事とうって変わって、

「指と掌で名器より素晴らしい味を!」

「現在トルコといえばフルコースがお決まりだが、捜せば昔からのスペシャル、ダブルスペシャルをちゃんとやってくれる店がある。」

「本番オンリーの店が多い中で50分間一万円で味わう”戦後風俗史”の原点のスタイルを発見」

と古典トルコ礼賛。

「大木戸」の紹介には

新宿の中心から離れているだけに、お忍びの遊びに最適。トルコ嬢の質も良好。

とあります。

また、松沢呉一さんからは、Facebookを通じて下記の雑誌掲載の情報をお寄せいただきました。

数日前に、ダンボール箱ふたつ分、古いエロ雑誌を入手したのですが、90年代の風俗雑誌のリストにも出ておらず。おそらく広告を出すようなことはしていなかったのだと思われます。それ以前のガイド記事にも出ていないのですが、ひとつだけ発見しました。「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号に、「芸者にトルコ、スターの遊び場は」という記事があり、「京浜地区の歌磨呂、都内の大木戸なんて有名だったなあ」というコメントが出ています。横の写真は大木戸ではないと思いますが、そこには「ご存知『歌磨呂』『大木戸』」の文字があります。(2016年7月31日 2:40)


(画像提供:松沢呉一氏/「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号)

おっ!この写真はついに「大木戸」を捉えたものか!?

おうかがいすると

この雑誌は、成人映画のスチールなどを適当に使っていて、わざわざ写真を撮りに行っているわけではないでしょううから、トルコっぽい写真を出しているだけだと思います。右ページと左ページは別の写真で、右はネオン、左はビルの入口っぽい。(2016年7月31日 8:11)

うーん。残念。

しかしこれら雑誌記事での取り上げられ方を見るに、キーワードが「古典的」だったり「お忍び」だったり「知る人ぞ知る」だったりと、「大木戸」がどのようなお店だと記者たちに認識されていたかがよくわかります。

あと、もう少しあとの時期の雑誌ですと、ソープランド専門情報誌「月刊ミューザー」(おおとり出版)1988年(昭和63年)10月号の巻末リスト「日本全国色めぐり」に店名を見つけることが出来ました。

なんとか最後までに、トルコ「大木戸」の外観写真でも、内装写真でも、姫の紹介写真でも1枚雑誌から見つけたかったのですが、力及ばず時間切れ。

これは宿題に残させて下さい。

松沢呉一さんのコメントにもあったように、あまり積極的に広告を出していたお店ではないと思われ、「知る人ぞ知るお忍びの店」で充分に商売になっていたのか、そもそもあまり商売っ気がなかったのか・・・。

ただ、トルコ風呂が辿った時代の変遷をみると、なんとなく見えてくるものがあります。

以前もご紹介した「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)の中の1章、木谷恭介著「トルコの世界」から少し長めに引用します。

 トルコ風呂の変遷を考える上で、重要な日が二つある。
 一つは昭和四十一年七月、風俗営業法の一部改正で、トルコ風呂の新築営業の認められる地域が指定されることになった。
 (中略)これが、後にトルコ風呂密集地域を生むことになったのだが、もう一つは昭和四十六年四月、千葉県が県条例を改正し、個室廃止を打ち出した。
 一室の床面積を二十平方メートル以上とし、三人以上の相部屋とした。
 この条例は画期的なものだったが、実際には三人用の部屋を個室として使用する結果となり、それまで千五百円程度だった入浴料が一気に五千円とアップ。サービスもエスカレートし、豪華大名トルコが全国に普及した。
 地域指定は新しい赤線を誕生させる結果となったし、個室撤廃は料金の高騰と、それに見合う密度の濃いサービスを招いただけでしかなかった。
 (中略)昭和四十六年以降と以前では、トルコ風呂の質的な変貌が著しすぎ、同じ遊興施設として論じることに無理がある。
 そこで、便宜的に四十六年以降を近代トルコ、以前を古典的トルコと区別して考えることにしたい。
(中略)
 一般週刊誌がトルコ風呂のレポートや紹介記事を掲載するようになったのも、四十六年十二月以降のことで、それまでは風俗ものの記事としては、全く扱われなかった。
 現在、私たちが何気なく話しているトルコ風呂とは、近代トルコのことであり、古典的トルコは歴史の彼方へ埋没していこうとしている。(P178〜180)

1960年代前半から約十年間とされるトルコ風呂の第1次黄金時代のはじめに、経営を思いたったものの、建築に4年もの歳月が掛かってしまい、ブームには後乗りになってしまった。

雑誌などメディアがトルコ風呂を取り上げ始めた頃には、その存在が「古典的トルコ」の分類となってしまい、なかなか取り上げられることがなかった。

経営者を変えながら、営業を続けてきたが、1995年というインターネット普及前夜に閉店してしまった。

もちろん「知る人ぞ知るお忍びの店」というスタンスを長年貫いたというところもあったのかもしれません。

しかし、トルコ「大木戸」が、メディアに記録をほとんど残さなかった理由はこんなところにあったようにも思えます。

そんなミステリアスな姿もまた、トルコ「大木戸」が、私たちを惹きつける魅力なのかもしれません。

——– ◆ ——–

そんなわけで。

ビートルズ来日から50年。

1966年7月1日の午前中。
ポール・マッカートニーがホテルを脱出して、訪れようとしたけれど叶わなかった「四谷の外国人が喜ぶおフロ」を探す旅は、トルコ「大木戸」の発見と存在証明という充分な成果を上げることが出来たのではと自負しています。

正直、書きづらいこと、ホントはもう少し粘りたかったところも残しているのですが、どこかで続報としてお伝えできればと思います。

途中、脱線やテーマの拡散が激しくなったことをお詫びいたします。でも脱線と拡散の中に、小さな本質が見つかることもよくわかりました。ただ「全部書く必要はない」ってことですね。

また、一部のポール・マッカートニーのファンの方や、ビートルズマニアの方におかれましては、不快感やお叱りの声もきっとあったことと思います。

そもそもポールはトルコ「大木戸」には行ってないわけですから、そこをわざわざ掘り返すなんて・・・と、ホントごもっともなことだと思います。

しかし、私も長年のビートルズ好きの端くれとして、来日50年の節目に遊ばせていただいたと、何とか大目に見ていただけましたら幸いです。

——– ◆ ——–

いやぁ。
まさかこんな濃密な歴史の旅になるとは思いませんでした。

休みの日にめちゃめちゃ歩きまわった日々を振り返り、ほうぼうから手に入れ部屋に山になった資料をみながら、ホントにこれがたった1ヶ月間ほどの出来事だったという事実が不思議でなりません。

こんなに自分が夢中に突き動かされたのは久しぶりです。
途中なんどかしんどくなったけれど、ホント面白かった。

最後にこの写真を。

新宿を背中に新宿通りの四谷四丁目交差点の手前を左に曲がり、まっすぐ立ちます。

今となってはこれまで何度も何度も見た大好きな景色。

左右に高い建物が建ってしまっているけれど、私にはまずちょっと先の右に連れ込み宿の「新御苑」、左手に「自慢荘」が。

正面突き当りに「自慢本店」の黒い塀が、手前に「多満川」さんが。

そしてそして「多満川」から手前に「自慢荘」に戻る中途に、トルコ「大木戸」の袖看板とほのかに光る入り口の灯りがはっきり見えます。

こういう場所にふらっと粋に遊びに行く、そんな大人になりたいです。

そんなわけで。
力尽きました。ご清聴誠にありがとうございました。
(了)


【あとがき】
このシリーズ・・・シリーズになるとは思ってなかったのですが・・・ホントたくさんの方のお世話になりました。

振り返れば・・・写真提供いただいた新宿歴史博物館様、四谷図書館のE司書さん、初期段階の貴重な証言をいただいた旅館「長良川」ご主人様、貴重な証言とお写真をご提供いただいた四谷四丁目町会のみなさま、そして町会の窓口となっていただいた大木戸藪蕎麦店主小林様、密なあまりに密な四谷四丁目のタイムトラベルにいざなっていただいた「多満川」ご主人柳谷様・・・などなど。
みなさまには感謝の気持ちでいっぱいです。

そして、Facebook上で要所要所でヒントをいただいた、敬愛するノンフィクション・ライターの松沢呉一さん。

「知りたいことがあるのなら、知ってそうな人のところに行って聞いちゃえばいいじゃない。」

と言外のコメントで背中を押していただかなければ、このシリーズは存在しませんでした。長期化してしまって、後半はいい加減関わりたくなかったかと思いますが・・・ありがとうございました。
ものを知る、調べるってことの良い勉強になりました。

あともちろん、今回の気付きを私に与えて下さった本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんへの感謝ももちろん忘れてはおりません。

今回の取り組みは、宮永さんの長年の緻密で執拗で詳細なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みであったことを重ねて申し上げます。

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その15


(title design/S.Takei)

続きです。

最終章第3回。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様からおうかがいしたお話を振り返りながら、割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」の建物の構造を、パズルのピースをひとつひとつはめていくように明らかにしていくと、どうしてもどうしても引っ掛かる箇所に遭遇してしまうのです。

当初からの疑問でした
  「トルコ『大木戸』は地下か? 半地下か? 問題」
がもう一度目の前に立ちはだかって来るのです。

いやいや「地下」だってことはもうはっきりしたじゃない。

って?

はい。そうなんです。
何度かご紹介しているこの柳谷様のイラストを見ても、トルコ「大木戸」が階段を下った地下にあったということは明らかです。

柳谷様にお話をおうかがいした際も、このイラストから
 「トルコ『大木戸』は地下にあった。」
ということを確認し、中の構造や雰囲気(もちろん後述します)に関しても知ることが出来ました。

でも、待って下さいよ・・・。


・1950年代半ば〜60年代半ば(昭和30年代)の技術で、木造建築の建物に後から地下(ましてそこにトルコ風呂を営業できる施設)を作ることが出来たのでしょうか?

・それとも前後2棟の「自慢荘」全体が、建築された当初から「地下」または「半地下」を持つ構造だったのでしょうか?

・上記の柳谷様ののイラストを見ると、「自慢荘」2棟の後ろの棟(調理場と住居とされる)のみの地下に「大木戸」があったように見えます。後ろの棟だけに後から地下を作ったのか、それとも建築当初から地下をもつ構造だったのでしょうか?

ここはどうしても白黒はっきりさせなきゃいけないところではないでしょうか?

「地下のトルコ風呂がどうやって出来たか考えると、夜も眠れなくなっちゃう!」

・・・ということで、誠に恐縮の極み。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様に再度お時間を頂戴してしまいました。

そして、いきなり柳谷さん口から語られた真実に、思わず絶句してしまいました。

[柳谷様] 昭和32年(1957年)頃に「自慢荘」に勤め始めた仲居さんから話を聞いてきました。

その方が入って2〜3年後に、「自慢荘」のお客さんだったとある新宿の呉服屋さんが、当時の「自慢荘」の経営者にこんな話を持ちかけたそうです。

「なんか、今『トルコ風呂』っていうのが流行ってるみたいで、オレも是非やってみたいんだけれど、お前さん造らない? オレが経営するから。」

その話に「自慢荘」の経営者が乗って、調理場と住居側の後ろの棟を全部建て替えたんですって。

全部建物を一度壊して、地下を掘って掘って・・・。
ものすごいお金を掛けて、贅を尽くして造ったそうです。
しかも重機も大したものがない時代ですから、かなりの難工事で、結果、建て替えに4年も掛かっちゃたそうです。

えーー!?
トルコ「大木戸」誕生のきっかけは、何とも壮大な金持ち同士の道楽だったのです。

さて。
ではここで、事実と時代背景等を合わせて見て行きましょう。

柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたのが昭和32年(1957年)頃。

お客さんだった呉服屋さんが、「自慢荘」の経営者に「トルコ風呂ってのが流行ってるからやってみたい」と話を持ちかけたのが2〜3年後・・・つまり昭和34〜6年(1959〜1961年)頃。


本シリーズ「その12」
で書いたトルコ風呂発展の経緯を振り返ってみます。

戦後、銀座に1951年(昭和26年)オープンし、トルコ風呂という存在を広く世に知らしめ、その後のトルコ風呂発展の礎となった「東京温泉」が活況を制したことで、トルコ風呂は、まず上野浅草に、そして新宿、五反田、渋谷、池袋などへと続々オープンした。

一方、1957年(昭和32年)の売春防止法の施行(この年は客引きなど一部の施行で、全面施行は翌年)で、青線赤線業者は業態変化を余儀なくされ、トルコ風呂の経営に乗り出す。

新宿2丁目の御苑寄りに「御苑トルコ」がオープンしたのが1959年(昭和34年)。元は新宿青線の「初夢」という店だったとされる。

※参考資料〜別冊週刊サンケイ 1960年5月1日号「女千人に浴室八百 −トルコ風呂繁昌記−」

もうひとつ。今度は引用を。

 「(トルコ風呂好きで)『大木戸』にもはまっていた。」(柳谷様の弟様・談)

とされる小沢昭一が編集に携わり、白水社から出たシリーズ「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)という本があります。

この本では、過去は遊郭から現代のホステスまで、広義の意(かなり乱暴ですが・・)での「水商売」の接客の作法を「芸」という視点から、複数の著者が原稿を寄せています。

その1つの章に、木谷恭介著「トルコの世界」というものがあって、トルコ風呂の名を一躍世に広めた銀座「東京温泉」から始まり、トルコ風呂における「芸」なるものを見出しながら、その発展とサービスの変遷を解説していて、これが実に明解でわかりやすいのです。

この木谷恭介という人も実に興味深い方で、そこにも触れたいのですが、脱線をガマンして、先に進みます。

では、「トルコの世界」から引用します。

 昭和35年ごろから40年代前半に掛けての十年間は、トルコ風呂がもっともトルコ風呂的な時代だったと言える。
 トルコ嬢が客に行うサービス・テクニックを芸だと考えるなら、この時代がもっとも花開いた時期であり、5本の指に職業的生命とプライドを賭けるトルコ嬢が輩出し、ゴールデン・フィンガーの名を高めた。
 (中略)
 赤線が消滅してからの十年あまりは、トルコ風呂の第1次黄金時代であった。
 待合室だけでは客を収容しきれず、店の前に床几([アダチ注]しょうぎ・折り畳み式の木枠と座る部分は布を張った肘掛けのない椅子)を置いて客を待たせたというほどの盛況で、(以下、略。P177〜178)

新宿の呉服屋さんが「自慢荘」経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかけたとされる、昭和34〜6年(1959〜1961年)頃は、まさにトルコ風呂第1次黄金時代と合致します。
そしてその波は新宿にも、とても大きく押し寄せていたと察せられます。

そして「自慢荘」は、トルコ風呂建設のため、調理場と住居側の後ろの棟の全部建て替えの大規模工事を4年を掛けて行います。

計算では、トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、昭和38〜40年(1963〜1965年)頃ということになります。

ビートルズの来日の年、1966年が迫ってきました。

しかし、もう少し時期を絞れないでしょうか・・・。

ここで、過去ご紹介した新宿区歴史博物館所蔵の写真から、四谷四丁目大木戸交差点にその存在を確認したトルコ「大木戸」の看板のことを振り返ってみます。


(画像クリックで高解像度版画像にリンクします)

撮影日は
 「1964年(昭和39年)9月25日」
とあります。

つまり遅くとも1964年(昭和39年)にはトルコ「大木戸」は営業をすでにスタートさせていたということになります。

ということは・・・。

1.昭和32年(1957年)頃
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。

↓(2〜3年後)

2.昭和34〜5年(1959〜1960年)頃
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↓(4年後)

3.昭和38〜39年(1963〜1964年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

と、特定することで辻褄が合うのではないでしょうか?

さぁ、大きな声で叫びましょう。
 トルコ「大木戸」は、昭和38〜39年(1963〜1964年)頃オープンした!

・・・と、すごくきれいにまとまったかと思ったのですが・・・本シリーズを改めて初めから読み返して、はたと気付きました。

国会図書館で所蔵している住宅地図で、最初にトルコ「大木戸」の名前を見つけることが出来るのは「全住宅案内地図帳」1962年(昭和37年版)でした(本シリーズその2)。


調査時期は出版年の前年、もしくはぎりぎり間に合ったとして発行年とすると、昭和36〜37年(1961〜62年)にはトルコ「大木戸」が営業をしていないとおかしいということになります。

では、今度は逆算していきましょう。


3.昭和36〜37年(1961〜62年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

↑(4年後)

2.昭和32〜3年(1957〜1958年)頃
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↑(2〜3年後)

1.昭和29〜31年(1954〜56年)頃
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。

これで、辻褄が合うはずです。

しかし、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたという「昭和32年(1957年)頃」という発言ももちろん信憑性が高いはず。

昭和世代の日本人は、西暦ではなく年号で記憶することが多いでしょう。
もし「自慢荘」に勤め始めたのが、きりの良い昭和30年からであったなら、「昭和32年(1957年)頃」という曖昧な表現は用いないのではないでしょうか?

ここで、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めた年は「昭和31年(1956年)」であったと確定します。


1.昭和31年(1956年)
 柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の仲居さんが勤め始める。

↓(2〜3年後)

2.昭和33〜4年(1958〜1959年)
 呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。

↓(4年後)

3.昭和37〜38年(1962〜1963年)


↓トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、
↓住宅地図の記載から昭和36〜37年(1961〜62年)と推定。


4.昭和37年(1962年)
 トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成

これで確定じゃないでしょうか?

さぁ、今度こそ大きな声で叫びましょう。

 トルコ「大木戸」は、昭和37年(1962年)にオープンした!

——– ◆ ——–

そんな4年の大工事を経てリニューアルした「自慢荘」と、ついに開業したトルコ「大木戸」を上から眺めた想像図を書いてみました。

完成から15年後、1977年の空撮写真と比較してみましょう。

なるほど。
振り返りますと、本シリーズ初回で紹介した「goo地図>古地図」の昭和33年(1958年)の航空写真で見る「自慢荘」後ろの棟が、1977年のものと大きく異なっているのは、建て直し前であるからだということも理解できます。


昭和33年の航空写真(goo地図>古地図より)
(画像クリックで拡大地図にリンクします)

——– ◆ ——–

そして最後に「地下」か「半地下」か問題を。

これまで、柳谷様に2回説明を受けたのですが、私自身、地形に関してや、建築に関して全く疎いので、正直おそらく完全には理解が出来ていないと思います。

でも、結果的にある人が「地下にあった」と、ある人は「半地下にあった」と語る理由が感覚的にはわかった気がします。

図示すると、きっとこういうことなのです。(勘違いがありましたらご指摘願います。)

まず下記が現在のビルを横から見た画です。

道路から斜めに地下の駐車場(と思われる)場所へと坂となっています。

そして、道路からビルの駐車場側に向かってまっすぐ水平を見ようとすると不思議なことに気づきます。
ビルの1階部分が自分が見ている水平より一段高いところを底辺にしていることがわかります。

[柳谷様] (地形の影響で)建物自体を水平に保つためには自ずとこうなるんです。

この地形の影響により、トルコ「大木戸」は自ずとこういう造りになったものを想像されます。

上の2つのイラストは、かなり極端に書いちゃってますが、確かに「地下」であって「半地下」とも感じる構造となります。

いかがでしょうか? ガッテンしていただけましたでしょうか?

——– ◆ ——–

さて。
私たちはついにトルコ「大木戸」誕生の経緯を知り、外観を描けるようになり、開業時期までを共有することが出来たのであります!

次はいよいよ、たくさんの証言のあった黒い煙突を眺め、あの階段を下り、トルコ「大木戸」の中へと入って行きたいと思います。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

三島由紀夫と四谷四丁目

「裏ビートルズ来日学」にともないます、「多満川」ご主人柳谷様とのやり取りの中で

「四谷四丁目にあった三島由紀夫の生家を探している人がいる」

というお話が浮上。

「え!? そんな話が!」
と、ウェブで検索すると、確かに三島は東京四谷区永住町(現・新宿区四谷四丁目22番地)で生まれたとの記述が。

しかし。
四谷四丁目恐るべし。奥が深すぎ。面白すぎ。

現在の三島の生家の該当位置を特定している記載もたくさん見られて、現在のおおよその場所は認識できたのですが、是非とも三島が生まれた1925年(大正14年)〜昭和初期の住宅地図などでウラ取りをしたいものです。

今のところ私の手元にある最古の地図が、1937年(昭和12年)作製、1937年(昭和15年)修正「四谷区 火災保険特殊地図 旧35区」。


現在の四谷4-22を見ると・・・・え? 「三島」という文字が!!

三島由紀夫の本名は平岡ですので、「まさか!?」とも思うのですが、「火災保険特殊地図」の作製の目的は、住宅地図と違って、火災保険会社のために「保険が売れると見込まれた市街地」を記録する、ある種営業目的のものと思われますので、居住者名等は必ずしも正確ではない可能性が高いのではとも察します。

事実かどうかは知りませんよ。
でもワクワクすることこの上なし。

日本中がスマホ片手に仮想世界のモンスターを追いかけている中、一方でかつて実在した文豪の生家や、昭和の料亭とトルコ風呂の幻影を目の前に具現化させようとしている・・・これまたロマンじゃあ、ありませんでしょうか。

改めて・・・。

四谷四丁目恐るべし。奥が深すぎ。面白すぎ。

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その14


(title design/S.Takei)

続きです。

最終章第2回。

もちろん引き続き、料理屋「多満川」のご主人柳谷治様からお話をおうかがいします。

どんどんトルコ「大木戸」が、その具体的な姿を見せて来ます。

——- 建物の構造に関して少しずつおうかがいして行きたいのですが、四谷四丁目町会様からご提供いただいた1977年の空撮写真(シリーズ「その7」で検証しました。)を見ると、割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」の2つの建物が渡り廊下のようなもので繋がっているように見えるのですが・・・。
   


[柳谷様] そうです。繋がっていたんです。僕が描いた絵のここ(下記イラストに図示。以下同。)が渡り廊下のつもりなんです。表玄関がこっちで、前の建物が座敷だった。で、ここに木戸があって、丁度渡り廊下の辺りに位置していました。その奥に勝手口があったんです。
そして、後ろの建物に居宅と調理場がありました。
調理場から料理をこの渡り廊下をを渡って座敷へ運ぶわけです。
どうです? 疑問は解決しましたか?

——- え!? 後ろの建物は全てトルコ「大木戸」ではなかったんですか? 後ろの建物に居宅と調理場があったというのには驚きました。

[柳谷様] 僕も、はじめはあなたの文章を読んでいて、「そういえば何でだろう?」と思ったんです。
・・・それで、あの辺りを散歩して眺めたら「そういうことだったか!」としっかり記憶が蘇って来たんです。

[柳谷様] そして、ここに僕の目には写っているように見えるんだけれど、この、ぼやっと色が変わっているところが(上の写真に図示)トルコ「大木戸」の入り口ですね。

(2棟の前の方の建物には)大きな座敷なんかもあったんだと思います。でもこっちには僕は入ったことがないんです。

ただ「自慢荘」さんと同じ組合だったので、1990年代かな・・・僕が衛生組合長をやってまして、その時に知らせを持って行ったり、集金に行ったりとよくこの木戸からおうかがいしました。

——- 座敷側と渡り廊下を渡って、トルコ「大木戸」にも繋がっていて、お客さんが建物の中からトルコ「大木戸」に行けたりなんてことは・・?

[柳谷様] それはないと思うんですけどね。ただこの距離なので、入り口が別にあったとして不思議ではないですよね。後ろの建物から地下に入れたりとか・・・。正確なことはちょっとわからないですけれども・・・。

——- 「お忍びで使われた」というは、その辺のことがあった可能性も感じるのですが。

[柳谷様] お忍びね・・・ちょっと聞いただけでも東京、京都の芸能関係の方がたくさん来てたみたいですね。結構大御所どころの俳優さんや、有名な作曲家などたくさん話を聞きました。

[柳谷様の弟様] 小沢昭一はトルコ「大木戸」にかなりはまってたんだよ。それで「トルコ行進曲」って歌まで出した(※1)。
あの人はトルコ巡りをやってたもんね。

[柳谷様] あとねぇ、当時のある人気相撲取りが来た時は、さすがに目立っちゃって、あの辺りが大騒ぎになったことがありました。

そう考えると、みんなトルコ「大木戸」の入り口で目撃されているわけだから、料理屋と繋がっていたとか、別な入り口があったとかは、ないように思いますね。

※1:小沢昭一がトルコ「大木戸」にどれほど頻繁に通っていたのか、また「トルコ行進曲」とトルコ「大木戸」の関連性は不明です。
「土耳古行進曲」は作詞・作曲 加藤登紀子、編曲 佐々永治。
   

——– ◆ ——–

しかし、ずっと2棟はそれぞれ割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」と分かれているとばかり思っていたのに、後ろ側の建物が、割烹「自慢荘」の調理場兼居宅だったとは・・・。

いやぁ、びっくりいたしました。

では一体地下にあったというトルコ「大木戸」はどんな構造になっていたのでしょうか?

最終章、もう少し続きます。

ご厚意に甘えまして、柳谷さんの追加取材もさせていただけることになりました。

とことんやりますよ。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その15


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)

 

【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その13


(title design/S.Takei)

続きです。

正直、出来ればずっとこの古き良き四谷四丁目を追う旅に浸っていたい気持ちもあるのですが・・・・いやいや、そもそもこれは「【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史」であります。

50年前、1966年のビートルズの唯一の来日時、「ポールが行こうとしたがかなわなかったトルコ風呂」を追うお話です。

あまり、ズルズルやるとビートルズ側からも、ポール側からも、「もうウチらは関係ないじゃないか!」と怒られちゃいそうですね。

ではでは締めに向かって筆を進めてみます。
最終章のスタートです!

(「四谷四丁目風俗史」または「四谷大木戸風俗史」は別枠で続けて行きたいです。)

——– ◆ ——–

「うわっ!? こ、これは!?」

「はい。私の記憶と色々な方からお話を聞いて『大体こんな感じだったよなぁ』というのを描いてみました。」

いきなり私の目に飛び込んできたのは、このイラストでした。

「大木戸トルコ」という大きな袖看板。

入り口には地下に続く階段があると思われる手すり。

横に木戸があり、おそらく割烹「自慢荘」と思われる建物が・・・・。

四谷四丁目町会の小林様からも、「詳しく話を聞くならこの方」とご推薦をいただいていたのが、老舗料理屋「多満川」のご主人である柳谷治様。

「多満川」は、我々がその姿を追う今はなきトルコ「大木戸」の数軒先の距離で、現在まで長年料理屋を営んでいらっしゃいます。

位置関係を、「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)で確認します。

(調査実施がおそらく1966年であっただろうと想定し、今回メインで使用する過去の地図は1967年のものとします。)

「多満川」のはっきりとした創業時期はわからないとのことですが、1936年の226事件の時には、四谷四丁目でお店を始めていて、戦後に今の場所に移って来たとのことです。

創業者であるお祖母様のお姉さんの代から、現在のご主人で4代目に当たり、今年57歳。
そのオープンなお人柄、饒舌な語り口、そして明らかにされるお話の内容にすっかり引き込まれてしまいました。

映画関係者とのゆかりも多く、「地獄の黙示録」製作中のコッポラが身を寄せ(作曲家の冨田勲氏に音楽担当の依頼をするのが目的だったそう。実現はしなかったそうですが。)、市川崑はなんと柳谷様の義理の父親とのこと。お店のロゴにもなっているイラストも市川崑の作です。

四谷四丁目町会ウェブサイトにある柳谷様のインタビューも実に面白いです。

実は・・・・。
6月末だったか7月初めだったか、お店に向かったことがありました。
外苑西通り(環状4号線)歩道から上り坂になっている階段からお店の中の様子をうかがったりとウロウロ・・・。

その日は、カウンターに女性客2人がいらっしゃって、さすがに一見の私が、カウンターに座っていきなり

「そこに昔あったトルコのこと教えて欲しい。」

とは聞けないよなぁ・・・と退散いたしました。

まずはきちんと本意を伝えてお時間を頂戴しよう。
柳谷様にお店のFBページを通じてメッセージを、そして同じ内容で封書の手紙を送らせていただきました。

今、見返したらA4で7枚の手紙・・・知らない人からこんな手紙が突然来たら普通不気味で引いちゃいますよね・・・。

しかし、しばらくして柳谷様からご連絡をいただき、快くお時間を取っていただけるとのお話をいただきました。

あの時の興奮と言ったらありませんでした。

それから数日、質問項目とその流れを組み立てた、ヒアリングシートを作っては書き直し、作っては書き直し、を何度か繰り返したことを覚えています。

ではでは。
柳谷様からおうかがいしたお話を整理して参ります。

この3週間取り組んできた試験問題の答え合わせをするかのような心境です。

まずは、トルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」のあった場所の確認と、当時の辺りの雰囲気に関して。

——- 諸説あったのですが、かつてトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」があったのは、現在ガラス張りのビルのある場所で間違いないでしょうか?

[柳谷様] 間違いないです。

——- 1995年に両店が取り壊しになり、現在のビルが作られたと・・・。

[柳谷様] はい、間違いないです。

以前この回で、ウェブの匿名掲示板にあったトルコ「大木戸」に関する書き込みを見ながら、ゼンリン住宅地図の1995年〜1998年を検証し、

1996年版(1995年11月発刊)の地図で、すでに現在のビルの建設が始まっていることが確認出来るということは、

 「確か95年か96年の2月いっぱいで閉店」

の書き込みに関しては、1995年2月末で「大木戸」は閉店した。
と考えるのが自然ではないでしょうか?

と結論付けましたが、その裏付けが取れたということになります。

改めて、ゼンリン住宅地図の1995年版(1994年11月発行:おそらく調査時期は1993年〜1994年)と1996年版(1995年11月発行:おそらく調査時期は1994年〜1995年)を見てみましょう。


以下、ここからは「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)を見ながら是非。

——- 1960年代半ばのこの辺りの雰囲気に関しておうかがいしたいのですが。この辺りは料亭や旅館が非常に多かったようですが・・・。

[柳谷様] そうですね。ご存知の通りこの辺りはかつて三業地(※1)と呼ばれていたところです。江戸時代は全部墓場だったんです(※2)。だからその後、三業地の許可がすぐ出たんじゃないかな。
その名残りもあって、(1960年代の地図を見ながら)多分この当時よりも、昔はもっと料亭や旅館が多かったはずです。

※1:三業地:料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業している地域の俗称。その営業には公安委員会(第2次大戦までは警察署)の許可が必要であることと,3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していることにより,三業地とよんで特殊地帯であることを表した。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理のため,検番を置くことが多い。三業から待合の抜けた所では二業組合となり,そこを二業地という。花柳街とほぼ同義に用い,20世紀前半における市街地の主要な遊興地帯であった。(「世界大百科事典」第2版・平凡社より)

※2:「新宿文化絵図 重ね地図付き 新宿まち歩きガイド」(著・東京都新宿区 /出版社・新宿区地域文化部文化国際課/2007年刊)収録の明治時代の地図参照。長年この一帯には理性寺というお寺があり、かなりの広い敷地をお墓が占めていたことがわかる。

地図でご覧いただけるように、環状四号線(外苑西通り)を挟んでトルコ「大木戸」や多満川さん側には料亭が、反対側には旅館の多いこと多いこと。

また、地図だけでは、民家なのかお店なのかわからないところもあって、

[柳谷様] ここに(地図の多満川の斜め向かい側。地図上で赤丸で示す。)「弥生荘」というのがあって、やっぱり料亭をやっていたんです。後に旅館に商売を変えたんじゃなかったかな。

というお話なので、この辺りの料亭、旅館の数は1960年代半ばでも相当なものであったことが想像されます。

[柳谷様] この辺りは(多満川のあるブロックの環状四号線に沿ったところ。地図上で紫色の枠で示す。)、駄菓子屋さんがあって、ここに仕立屋さんがあって(仕立屋の位置を紫色の枠内、青丸で示す。)・・・でも実際のところ、この辺はあまり建物がなくて、人もあまり住んでいなかったですね。

そして、ここに廃棄物を集めてきて販売する、大きなバッタ屋さんがありました(紫色の枠内、緑枠で示す。地図がずれているため緑線で結ぶ。環状四号線からトルコ「大木戸」、料理屋「多満川」の間の路地までに至る大きな敷地だった。)。

あと「自慢荘」の向かい側は大きな駐車場だったんです(新宿駐車場・現IDCフロンティア)。

あと、お話を聞きに行かれた(旅館)「長良川」さんとか、(環状四号線の反対側の)あの辺りは有名な連れ込み街でした。

地図ではそうなってないけど、「新御苑」(現・ホテル新御苑)も60年代半ばには、もうここ(地図上のトルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」の通りを挟んだ向かいに赤丸で示す。四谷4-48)に来ていたかも。
「新御苑」さんは、もともと環状四号線(外苑西通り)の向こうの連れ込み街側と、(場所は変わったのかもしれないけれど)こちら側の2軒同時に開業したそうです。

「長良川」さんも初めは2軒やってたそうです。
両旅館とも、ある同じ場所からここにいらしたそうです。

——- (なるほど。だから今も両店連名で看板を出しているのか・・・。)

[柳谷様] というのも、これははっきり覚えてるんですが、東京オリンピック(1964年)の時に都内のホテルが足りなくなっちゃって、「新御苑」にもいっぱいの外国人客が来て、(この辺りが)ちょっとしたブームになったんです。
新しいビルの「新御苑」には屋上にプールがあったんです。同級生の家がやっていたので、よく遊びに行きました。

——- (そんなアクシデント的な賑わいはあったけれど)基本は建物も人も少ない、静かな場所だったということですね。トルコ「大木戸」は「お忍びで行く感じだった」というお話を聞いたのですが・・・。

[柳谷様] 「新御苑」もそうだけど、当然見られちゃ困る人が来るわけだから、お互い見て見ぬふりをして・・・という感じはありましたよね。
(トルコ「大木戸」は)「(行ったことが)ばれないから。」「他のところに行くとばれるから。」っていうのがあったみたいですね。

そして、お忍びでトルコ「大木戸」に来てた芸能人、有名人の名前が次から次へと・・・これは、どこまで書いて大丈夫なんだろう。
後半に保留。

ただ、トルコ「大木戸」が、芸能人、文化人、芸能関係者にとって「ばれないから」「他のところに行くとばれるから」お忍びで出掛ける「知る人ぞ知る」場所であった様子は、よくわかりました。

そして質問は、ずっと気になっていたトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」、そして途中から登場した料亭「自慢本店」の関係へ。

[柳谷様] そこを随分知りたかったみたいですね。
実はですね、全部縁戚関係なんです。Aさんという、この辺りで相当すごい権力を持った方がいらっしゃって。

Aさんの3人のお子さんが、それぞれ「自慢本店」、「自慢荘」、そして近くにあった焼き鳥屋さんを経営していたんです。

あと、小さい待屋がたくさんあって、そこはほとんどAさんのお妾さんだった(正確には、お妾さんが経営していた?)んです。

Aさん、その息子さんと代々で、お妾さんがどんどん増えていって、彼女たちに小さい店を持たせる、小料理屋を持たせるというような感じで・・・そこにウチがぽつんとよそから来ちゃったんですよ。
この辺りのお店は、ほとんどAさんの親戚や関係のある人がやっていると思ってまず間違いないというような状態になっていました。

でも今は、ウチだけが残っているのかな。あとは全部なくなっちゃいましたから。

トルコ「大木戸」は「自慢荘」を任されたAさんの息子さんの、その息子がやっていましたね。

「自慢荘」の隣りのIさんも、やはりAさんの家系の親戚なのは間違いないそうです。「自慢荘」で仲居さんをやっていた人に電話で聞いてみたんで、多分間違いないと思います。

——- だから地図を見るとIさん宅と「自慢荘」が線で結ばれているんですね(*3)。

*3:株式会社ゼンリンにこの2つの建物を結ぶ線の意味を問合せてみたところ、一般に知られている「土地の所有者」のみを表すわけではないことがわかりました。以下同社カスタマーサポートセンターからの回答メールから。
「『所有者』と限定しているのではなく、敷地内の同一の建物を表現している『接続線』とご理解頂ければ幸いです。」
この回答が表していたことは、後ほど明らかにします。

一気に点が線に繋がってしまいました。
トルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」、料亭「自慢本店」は、全てAさんというこの町の有力者の縁戚関係の方による経営だったのです。
そしてこの3店のみならず、この辺り一帯が、何らかAさんとの関わりを持った方によるお店であったとは。

次に、前回取り上げた「三都花街めぐり」(著・松川二郎/誠文堂文庫/1932年刊)の「四谷大木戸」に関しての記述部分を見ていただきました。


今一度引用します(P56)。

 ここに花街のできたのは大正十一年、当市街内では一番新しい花街であるが、そこへ丁度彼の震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したしたもので、世の中は何が幸ひになるかわかったものではない。
  現在藝妓屋 三十軒。藝妓 九十名。待合 三六軒。
  料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)

——- 戦前、1932年(昭和7年)に出た花街に関するガイド本に「四谷大木戸」に関してページが割かれています。この土地を代表する料理屋として「自慢本店」が挙げられているのです。しかも「同支店」との記載もあります。

[柳谷様] 「同支店」は「自慢荘」でしょうね。「自慢荘」は、ウチがここに来る(戦後)よりずっと前からあるわけだから、はっきりはわからないけれど、ひょっとしたら大正時代からあるんじゃないかと思います。

ふぅ・・・。
ひとまず、最終章第1回はここまでとさせて下さい。

続いて、

・トルコ「大木戸」と「自慢荘」の構造に関して
・トルコ「大木戸」の建物の造りに関して
・トルコ「大木戸」の中の様子に関して
・看板と煙突に関して
・トルコ「大木戸」は地下だったのか?半地下だったのか?

おうかがいしたお話をまとめて参ります。

最後に「多満川」ご主人、柳谷さんの素敵なお写真を。

貴重なお話、本当にありがとうございました。

  →続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その14


[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)