12月30日(月)
早いもので今年ももうすぐ終わり。そういえば随分寒くなったし、そろそろそんな感じですか。
9月の上旬に開設した当ホームページ、おかげさまでなんとかがんばらさせていただいております。こうしてのぞきにやってきて下さる皆さんのおかげであります。感謝、感謝。
決して多くの人にアピール出来るサイトでないことはわかっておりますが、色々な方々からメールをいただくことが励みとなっております。
お世話になっております。来年も何卒よろしくお願いいたします。
12月22日(日)
なにか自分のためになって、かつ皆さんに参加してもらえるコーナーを、などと都合のいいようなことを考え、「澁澤龍彦美術評論」コーナーを新設。
これは彼の作品の中から美術に関して扱っているものをアーティスト名別に一覧としたものです。
これをもとに他サイトへリンクを張ったり、私のみならず皆さんの評論を載せていきたいと考えております。
正直、不備だらけの表ですが皆さん、色々教えて下さい。
「書評」コーナーは私の大好きな本に関しての文章です。随分前に書いたものがほとんどで、なんか青臭い。
でも、この辺のものがお好きな方はきっと当レーベルの音楽を気に入っていただけるのではないでしょうか。カセット無料でお送りいたしますのでメール下さいね。
12月12日(木)
歩きに歩きまわって神宮外苑でひと休み。
タバコを吸いながら、神宮球場そばのベンチに腰掛ける。
目の前のドームをもった石造りの大きな建物は一体、何なのだろう。すごくいい感じだ。どしんとした構えが見ていて気持ちがいい。
ふと目を横にやると7,8羽の雀が一生懸命、地面の何かをついばんでいる。
こんなに近くで雀を見るのは久しぶりな気がする。小さくて実に可愛らしい。
かつて、というか私のまだ幼なかった頃、雀は人間にとって最も身近な鳥だった気がする。逆に鳩や烏が以前これほどまでに自分の生活のそばに居ただろうかと考えてしまった。
雀の人に媚びず、かつ人間と一定の距離を持って生活する態度が良い。
鳩や烏の図々しさがないのが良い。
12月10日(火)
誠に勝手ながら、先週、当ホームページの大引越を敢行いたしました。
理由は、個人的なインターネット環境の改善のため。申し訳ありません。ブックマークの変更をお願いします。
いやぁ、それにしても快適、快適。リダイヤルなど皆無に等しい。でも皆さんはこれが当たり前なのでしょうか。私は夜の9時を過ぎたら、なかなかつながらないのが当たり前だと思っていました。
今後もさらに積極的に更新していくつもりですので是非おつきあい下さい。
現在JAVA-SCRIPTを勉強中。左の目次に使ってみました。
12月4日(木)
千葉県の佐倉市立美術館で現在開催されている「ポール・デルヴォー展」。彼のファンの方は既にご存知だったのかもしれないが、昨日偶然にも駅貼りのポスターで知った私は、うれしさでとてもわくわくしている。
裸婦と夜と静寂を好んで描いたデルヴォーの作品は、一見冷たい印象を受けるが、同時に、大きな安らぎに包まれた夢の中にいるような心地よさを覚える自分にも気づく。
夢には必ず終わりが来る。どんなに楽しい夢も、心地よさと共に結末という不安を内包しているのである。
デルヴォーの作品は夢の一場面が切り取られ、夢がそこに永遠化されているかのように私には思える。しかしデルヴォーは、夢の心地よさと同時に結末の不安までも切り取ってしまった。
それが私たちにとって、デルヴォーの作品の不思議な魅力となっているのであろう。
私にとって、彼の作品をまとめて鑑賞するのは初めての機会となる。とても楽しみである。
PAUL・DELVAUX展 | 1月12日まで |
佐倉市立美術館 | 電話043-485-7851 |
11月24日(日)
「随筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあった。美容術の秘訣、けだしここにきはまる。三日も本を読まなければ、なるほど士大夫失格だらう。人相もまた変わらざることをえない」(石川淳)
こんな文章で別に私は随筆家を気取ろうというつもりはないが、日常得た感動が過去に書物などで得た知識を喚起し、より感動が広がったらなあと考えている。そしてそれを文章に出来たら、なんてすばらしいことだろう。
つまらぬ日常の中で書物はしばし私をこことは違う所へと導いてくれる。私の未だ見ぬ世界を目の前に表し、筆者とある意味同等の感動を得ることが出来る。
感動を我が脳髄に蓄え、現実世界のささやかな喜びにそれを呼び起こし、濃密となった感動を私がまた他者へと伝えるのだ。
もし人がそれに感動する事が出来たなら、それを文章にするがよい。先人のふとした感情の動きが幾倍となって伝わっていくだろう。
何だか急に寒くなった。そろそろこたつを出そうかと思っている。
こんな日はこたつに入って熱燗をやるのが一番である。今年の冬はパソコンがある。一度入ったら抜けられないこたつの中で、酒を飲みながらキーボードを叩くものなかなかよさそうだ。
ビートルズ、音源版「アンソロジー」完結。
勝手な妄想なのかもしれないが、ビートルズは、他人に好きだと面と向かって語りずらいバンドである。
「私はビートルズが好きです。」
「あ、私も好きです。イェスタディ、レット・イット・ビーとか、やっぱ、いいよね。ジョン・レノンはイマジンとかいいよね。」
「(いいよ、確かに良いよ。でもね、それだけじゃなくて。)‥‥‥‥‥‥。」
このなんともやるせない気分、伝わるだろうか。何度この感覚を味わったことだろう。だから正直、あまりにメジャーすぎる故にかビートルズを人に語るときはついつい慎重になる。相手の音楽の趣味を把握してから切り札として話題にする。‥‥‥なんか嫌な文章だな。
自分が音楽的にも人間的にも多くの影響を受けたものを、表面的に語ってもらいたくない、という気持ちのあらわれなのだろうか。自分の大好きな彼女のことを他人に「あの娘は○○だよね。」なんて云われたら腹が立つでしょ?そういうことだと思う。
デモ・バージョンやら未発表曲を集めた「アンソロジー」、要するにビートルズの舞台裏を世にさらしたものですな、これを楽しめる人には私は胸を張って「私はビートルズが好きです。」と云いたい。「イェスタディ」、「レット・イット・ビー」の人にはこれが面白いはずはない。だってビートルズの残りカスですぜ。
「ホワイル・マイ・ジェントリー・ウィープス」のデモ・バージョンを聴いて、「ホワイト・アルバム」に自分の曲が取り上げられそうにないジョージのあせりの気持ち、このひとりぼっちでレコーディングしている気持ちがわかるかい。なんかオタクの戯言だな。
10月 28日(月)
噂には聞いていた大瀧詠一氏のホームページを初訪問。実に面白い。
語弊があるかもしれないが、自分のことが大好きな人が自分に関することを語るのは、読んでいて実に面白い。
江戸川乱歩も云っているではないか、
「歴史家や好事家は過去の他人に関する資料を血眼になって蒐集するが、自分に関するものは蒐集しない。これは主客転倒ではないか。史上の人物の方が自分より偉いから蒐集の価値があると考えるのかもしれないが、そんな他人よりも自分自身への執着なり興味なりの方が強いはずではなかろうか。人々はなぜ他人のものばかり集めて自分のものは顧みないのであろう。自分が一番可愛いのだから、自己蒐集こそ最も意味があるのではないか。自分のものを集めるのには、自分こそが最適の立場にあり、最も正確を期することもできるわけである。自分のものはほうっておいて、他人の作った、学問的にも大して意味のないないマッチのペーパーや料理屋の引札なんか集めている人の気がしれない。」(蒐集癖)
大瀧氏の萩原健太氏を評した、萩原氏はまず自分の音楽的バックボーンを語ってから、そして他人の音楽を語った初めての評論家である、との言葉も実に彼らしく、的を得ている。語る人が見えずして何が文章だ、何が音楽だ。自己満足、大いに結構。自分で満足も出来ないものを他人に見せるんじゃない。
もっと恥をかけ、もっとさらけ出せ。
10月10日(木)
先日触れた澁澤龍彦「快楽主義者の哲学」(文春文庫)を読み返し、「人生に目的 などない」というくだりではたと立ち止まってしまった。果たしてそうなのか。
ひとつの目的を実現するために、苦しき努力をしそれを達成する時の喜びは何ものにもかえがたい。うん、確かにそうだ。
しかし、欲深き人間の精神はその目的を現実のものとした瞬間、また新たな欲求、つまり目的を抱くことであろう。その目的を達成してもなお‥‥‥。
日々働き、金を手にし、その金をもとに飯を食い、着飾り、その場限りの快楽を蝕む。そしてじきに金は無くなり、人はまた働く。そして食い、着飾り、その場限りの快楽を蝕む。
子孫繁栄のため?‥‥一体、人間が絶滅することにどんな不都合なことがあるというのだ。
目的を完全に達成した人間の完成型が神?‥‥生きることの目的を神に近づくこととする者よ、神などというものは、人間の飽くなき欲望を知った人々が作ったひとつの目標にすぎないのではないかい?
さあ、明日も働こう、そして食い、着飾り、快楽を蝕もう。人生の目的なんて、考えるだけ馬鹿を見そうだ。
10月4日(木)
世はパソコン・ブームというかインターネット・ブームとか。
ふと、私のパソコン購入の動機を振り返ってみる。
自分の手でメディアを作りたい、自分がすばらしいと感じた音楽を広く世の中に伝えたい、こんなところでした。
まだまだ試行錯誤の段階ではあるけれども、日々こうやってホームページを更新し、少しずつではあるけれどもアクセス数が増えていくのは何ともたまらないものです。
がんばるのみ。
9月30日(月)
澁澤龍彦「快楽主義の哲学」ついに文庫化。実にうれしいニュースです。文芸春秋、あっぱれ。
この作品は、いわゆる澁澤作品の中で異質とされるもので、澁澤本人も著作リストから外したがっていたとか。
1965年、光文社カッパ・ブックスで発売。あの新書サイズのワニ・ブックスとかあの手の本の一冊として発売されたものです。絶版後、長いこと忘れられていましたが河出書房の全集で久々に日の目を見ました。
確かにこういう啓蒙的内容のものは他の彼の作品には見られません。というか澁澤はこの手の語り口を嫌っていた人ではないでしょうか。
もし、本人が本当にこの作品をなかったことにしたがっているとして、それをこうして楽しんで読んでいる自分がここにいること、なんとも不思議な感覚であります。
つぎは何かのお酒の付録でついた豆本「ヌードのカクテル」の復刻か、どこかの出版社よ頼む。