
第8回/アダチ龍光さんのこと(その1)
→独立コーナー化いたしました。こちらでお読み下さい。
※引用文中「龍光」「竜光」と表記が統一されておりません。原文ママです。
■アダチ龍光って誰だ?
私の身内で、芸事で大成したと云われるのが唯一この方、手品師のアダチ龍光氏です。私の父親の伯父、祖母の兄に当たる方です。と云っても「そんな人知らん」という人がほとんどだろうし、私自身もリアルタイムで氏の芸を見たことは無いのです。
「お笑い人名辞典」に以下のようなプロフィールが掲載されていました。
奇術師。上品な語り口でマジックを披露し人気をとった。まれにウグイスのモノマネや漫談などをやっていたようだが、本職の奇術は評価が高く、昭和46年には、昭和天皇古希の祝いに皇居内でパンと時計の奇術を演じたこともある。
龍光のことは小さい頃から父親の口から何度か耳にしていて「引田天功より偉かった」「笑点によく出ていた」「天皇の前で手品をしたこともある」などと云った話を得意げにしていた記憶があります。でも「今テレビに出てない人のことはわからんよなぁ」と幼心に思っていたのも覚えてます。
ちょうどその頃、私は日テレの「木曜スペシャル」などを舞台に大掛かりな脱出もので一世を風靡してた引田天功(もちろん初代)に夢中になっていました。そんな私を見て父親がそういう話をするようになったのか、それとも父親からの話を聞いて手品・奇術に夢中になったのかは定かではありません。とにかくその頃、小学館の入門シリーズや学研漫画などで、手品、奇術、マジックと名の付くモノは貪るように読んでいた記憶があります。簡単なマジックは家族や学校で友人の前で披露したりしたもの。
そうそう。私の幼い頃書いた作文や卒業アルバムの類を見ると、「将来なりたい職業」ってやつが、幼稚園時代は一貫して「警察官」であるのに、小学校1年生から3年生に掛けていきなり「手品師」が登場します。その後はしばらく「漫画家」が1位を独占していくのですが、とにもかくにも一時期の私の手品・奇術への執着が伺えることかと思います。
でも脱出ものの引田天功とテーブルマジックはあまりにかけ離れた世界であって、この両者を一体何が繋いでいたのかを考えると、やはり「身内にアダチ龍光がいた」ということが影響していたのかもしれないと今となっては思えてきます。
■龍光のことは故意に隠されていた?
今にして思うととても不思議なのだけれど、「引田天功より偉かった」「笑点によく出ていた」「天皇の前で手品をしたこともある」ほどの人が父親の伯父、つまり祖母の兄弟に当たるというのに、生前祖母からはもとより、父親以外の身内の口から龍光のことをほとんど耳にした記憶がありません。私自身、リアルタイムで活躍を見ていないだけに深い関心を持っていなかったことも事実なのだけれど、引田天功より偉かったんでしょ?笑点によく出てたんでしょ?天皇の前で演ったことがあるんでしょ?しかも我々が住んでいたのは東北の片田舎、そりゃあもう自慢の叔父さんで、ことある毎に話題に上がって「もういいよ、その話、百万回聞いたよ」ってことになってもおかしくないような気がいたします。
先日、何故そんなキーワードが思いついたのかよく分からないのだけれど、ふと検索エンジンに龍光の名を入力しました。簡単なプロフィールや出演した番組、龍光に触れた書籍、芸人が語る思い出話など数十件のヒットがありました。
何とはなしに始めた暇つぶし行為に気が付いたら夢中になっていたというのはよくある話。父親から耳にしていた話の周辺だとか、決して耳にすることがなかった当時の活躍が、それぞれは点の情報に過ぎないのだけれどちらりちらりと見えて来て、面白いったらありゃしない。
立川談志が龍光のことを異常にビビっているという話。それでいて自身のCDボックス「席亭
立川談志のゆめの寄席」(竹書房)に「立川談志の「アダチ龍光」解説」「アダチ龍光/僕の人生」、そして対談を収録しています(これ是非聴いてみたいのだけれど、20,000円もする10枚組ボックスです)。とにかく両者に深い交流があったというのは間違いないでしょう。
また桂平治という落語家が幼い頃の寄席通いの思い出を語った「桂平治後援会会報2号」では、
(略)
勿論、その頃は噺の内容が判るはずは有りません。奇術や紙切り面白く見ていた程度のものでしょう。小学校へ上がるか上がらないかという年端もゆかぬ頃の話です。今でも記憶にありますのは、奇術のアダチ竜光さんです。随分お爺さんに見えましたけれど、今思い返してみるとそうでも無かったのでしょう。ポツリポツリと話しながら見せる奇術は、とても
楽しいものでした。奇術は、うまく騙される所が身上で拍手は多いけれども、笑いは其れ程とれるものではありません。
でも竜光センセイの芸は、爆笑が必ず有りました。身体は横を向いていて奇術の道具を手に携え、顔だけは舞台の方にあって説明している姿が今でも脳裏にに焼き付いています。
(以下略)
とあります。もひとつ笑福亭鶴瓶と上岡龍太郎の人気番組「パペポTV」のトークを集めた「パペポ傑作トーク集」では、
龍「この頃、奇術とか大流行りでしょ。マリックさんを筆頭に。でも昔のアダチ竜光さんの奇術は凄かったよ。けどあの人の場合奇術がどうとかテクニックが上手いとかじゃなくて、そこに滲み出てくる喋りによる人間性ね。あの昭和天皇の前で奇術をやったことがあるんですって。」
鶴「緊張するやろなあ〜。」
龍「ところがあの人のこっちゃからあんまり緊張せえへんねん。ほぼ同年代やったから。で、みんなの前で奇術していって、右と左のどっちに入ってるかあってやつね。」
鶴「天皇陛下にどっちに入ってるかって聞くの?」
龍「ところが我々一般人が天皇陛下と直接口を利くのは本来違反なんや。」
鶴「違反や、んなもん!」
龍「ところがアダチさん、そんなこと知らんがな。”はい、どっちですか、陛下?”そしたら”右、右、右!”って。」
鶴「わー、嬉しいなあ。天皇も〜!」
龍「さあ、そこでや!ここは一つ”その通り!”と言って開けるべきか?アダチさん、一
瞬迷ったんや。けど、えーいと思って、”残念でした〜”って。」
とあります。あと山口県宇部市のサイトの地元の彫刻紹介コーナーなのに唐突に龍光のことが語られるここや、龍光の弟子アサダ二世氏のプロフィールに
「故アダチ龍光師の弟子。それを受け継ぎ、おしゃべりマジックを得意とする」
とあるように、派手な手品を見せるタイプではなくて、天皇にお呼ばれされる位だからもちろん技術そのものは優れていたのだろうけれど、どちらかというとオーソドックスなネタを、(祖母の兄弟ということは)新潟訛りで朴訥なしゃべりで笑わせながら魅せるというタイプだったみたいです。
こちらも大好きだったマギー史郎の姿とだんだんだぶって来て、龍光への親しみがどんどん沸いてきました。
これは父親から聞いていた、日本奇術協会(平成5年に社団法人化)の会長を務めていたという話もTV@niftyが提供する「有名人辞典」で事実だとわかりました。昭和41年から務め昭和48年から永久会長となったそうです(出典)。
後に引田天功が同協会会長を務めたということで「龍光さんは引田天功より偉い」の論拠はここから来ているものと思われます。(その2へつづく)
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