会津若松の馬肉生食文化は本当に力道山によって生まれたのか? 完結編
さて。
まず、ここで一度『馬肉を食べること』について理解してみたいと思います。
牛、豚、鶏など…古代から肉食の文化があったことは確認できますが、宗教観や倫理観から表立って日本で普及するのは、牛肉の『すき焼き』に象徴される文明開化以降とされます。
そして、庶民にはまだまだ高価だった牛肉の代替品として、下に位置付けられていたのが馬肉だったようです。
馬肉は、俗に「サクラ肉」または「蹴とばし」といわれる。
もともと日本では、食用のために馬を飼ったことはなく、廃馬を屠殺して食べたので、日蔭者扱いとなり、自然に、隠話で呼ばれることになったのであろう。したがって、値段も、つねに牛肉より安い。また、一種特別の臭いがする。臭い消しのため「しょうが」のしぼり汁を加えるのが常識になっている。
脂肪分は少ないが蛋白質に富み、体が温まるので、冷え症の人によいといわれる。
一般にはあまり知られていないが、加工した肉製品には、馬肉が混用されていることが多い。
(「由来たべもの事典 日本たべもの総覧」著・圓谷真護(評論家)/「歴史読本」1974年10月号・角川書店)
また、馬肉は庶民の食べ物やおやつにも使われました。
民俗学者、柳田国男もお好み焼きの材料として、牛肉の替わりに馬肉が使われていたとを記しています。
もともとお好み焼は屋台で子ども相手に売られたものだった。このお好み焼について、柳田国男は興味ある指摘をしている。
「・・・全体に無雑作なる料理がもてはやされることになって居る。子供を相手の担い商いの方でも餅や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などという一品料理の真似事が、現に東京だけで数十人の専門家を生活させて居る。勿論衛生には非常に注意するというが、彼等の言によれば材料は馬肉だそうである。小路か路道で馬を食う時代になったのである」
【スポンサードリンク】無造作な料理が一般に重宝されるようになり、その小児版の流行が屋台でのお好み焼となったのだろう。お好み焼の材料の一つとして馬肉が出てくるが、お好み焼の一種に「牛てん」というのがあった。本来、牛天というのは牛肉のコマ切れを入れたものだったが、馬肉を使うお好み屋が多かった。とくに屋台ではそうだった。馬肉は牛肉よりもかなり下等なものとされていたが、それだけに値段も安かった。そのうえに、昭和一ケタ時代は不景気でもあったので、牛肉ほどではないにしても、馬肉もかなりの人気があった。(中略)屋台のお好み焼では牛肉と偽りながらも抵抗なく馬肉は使われたようだ。
(「特別企画 スナックフーズ ”間食文化”の移り変わり−近代おやつ発達小史−」著・小柳輝一(食物史家)/「食の科学」1989年10月号・光琳)
ここでの引用されている柳田国男の文章は「明治大正史世相編」から。
兵庫県出身の関西人である柳田が、東京でのおやつ文化にお好み焼きが『無雑作なる料理』扱いで流行っていること、そこに馬肉を牛肉と偽って「牛てん」で使われ、『小路か路道で馬を食う時代になった』ことに複雑な思いを寄せているのです。
なるほど。
牛肉より下、牛肉の安価な替わりというのが、馬肉を食べるということだったのですね。
●生馬肉を食べて育った強豪レスラーと力道山の対決
さて。力道山と馬肉と生食の接点は、「肉の庄治郎」発信の情報ばかりでウラ取りが難航しました。そんな中、
『これは?!』
という記述に当たりました。
「少年」1955年9月号(光文社)掲載の「リングの嵐『国際プロレスリング大試合熱戦記』」(作・清閑寺健/絵・霜野二一彦)。
「アメリカの強豪レスラーをむかえうつ、力道山、東富士の手に汗にぎる大決戦!」の見出しで、1955年(昭和30年)7月15日に両国国技館で行われた国際プロレスの試合の模様をレポートしています。
(「少年」1955年9月号(光文社)掲載「リングの嵐」(作・清閑寺健/絵・霜野二一彦))
冒頭は力道山・東富士 対 カルネラ・クリスカンプ戦。
カルネラとは、「動くアルプス」と呼ばれたレスラー、プリモ・カルネラのこと。
(「少年」1955年9月号(光文社)掲載「リングの嵐」(作・清閑寺健/絵・霜野二一彦))
「ベースボールマガジン増刊『プロレス』」1955年8月15日号には、カルネラの生い立ちが次のように記されています。
(「ベースボールマガジン増刊『プロレス』」1955年8月15日号)
苦難の人生開拓
カルネラは一九〇六年十月二十六日イタリアの北部アルプス山麓のカルサスという村で石工を業としている家に生れたのであるから当年四十八才になる。生れたとき二賀六百もあった途方もない赤ん坊に両親はビックリしたという。
相談して付けたのが初ッ子だからプリモ(イタリア語で最初という意味)そして八才のときには普通の大人ぐらいになった。貧しい家なので働くのだが親ゆずり石細工が性に合わず家具屋へ小僧に出された。一九一八年第一次大職が携まると一家の貧は一層ひどくなり父はエジプトに、カルネラはフラシスに出かせぎに出た。労働者として働くうち十七才になったカルネラの身体は六尺五寸、三十質を越えるという逞しい見事なものになり、その巨体はフランス、ボクシング界のレオン・リーに目をつけられコーチを受け、一九二八年二十一才で、ボクシング界にデビューした。レオン・セビリオを相手に軽くKOしたカルネラは、一年半ばかりのあいだに、十七勝一反則敗で、そのうちKO勝十一という、素晴しいものであった。
”らつ腕”のマネジャーは”働くアルプス”をぐんぐんと宣伝し世界へピイ級タイトルを狙って”米したが、一九三一年十月には、J・シヤーキーの強打を食って倒れ一度欧州に戻った。その後、出直してついに、野望を達したのだがボクサーとしてのカルネラは歴代チャンピオンと比べて決して優秀なボクサーとはいえないようだ。
それが却ってプロレスラーになってから幸いして今日の名声を博しているのだが、ボクサー時代が二千回レスラーになって千回を越えるマット生活二十数年は長い。しかしカルネラはまだまだ元気一ばい。”引退興業のための来日”というのを「全くのデマだ、あと何年出来るか、身体と相談してから決める」といっている。(奥村忠雄)
(「ベースボールマガジン増刊『プロレス』」1955年8月15日号)
(「ベースボールマガジン増刊『プロレス』」1955年8月15日号)
全日本プロレスの渕正信は、ブログ「酔々ブルース」の 2020年2月8日の投稿で、カルネラに関して詳細に述べています。
1967年に死去しているプロレスラーなので今や余程のプロレスファンじゃないとたぶん知らないだろうなぁ。プロレスラーになる前はなんとプロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンだった。1930年代のことなんだから遠い昔の話。身長は2メートルで体重は130キロのかなり大型のイタリア人。日本には力道山時代の1955年にレスラーとして1度来日したきり。
カルネラの強さに関しては、『力道山長男の故百田義浩さんとの焼鳥屋での会話』として、次のように語っています。
力道山が戦ってみて心底強さを感じたのはルーターレンジとプリモカルネラだったと云う。「あの2人は本当タフで強かったと親父も認めていたよ」と言っていた。
ジャイアント馬場から聞いたエピソードも、カルネラの強さを物語ります。
馬場さんやデストロイヤーも言っていた。本当にゴツくて強かったと。馬場さんは1963年春、凱旋帰国前、ロスアンゼルスで力道山共々カルネラと夕食を共にした。日本での遠征のこと懐かしそうに話してたと聞いた。馬場さんは実はデストロイヤーとの世界戦前にカルネラと試合をやり、カウントアウト勝ちした。当時すでにカルネラは50代半ば、だけどまだまだパワーがあり、145キロの馬場さんを何度も投げ飛ばしたようだ。「強かったけど、いいおじさんでなぁ。アンドレ見るとカルネラ思い出すよ…」。
では…。本題に入ります。
前述した「少年」の「リングの嵐『国際プロレスリング大試合熱戦記』」には、プリモ・カルネラに関して次のような記載があります。
「すごいねぇ、カルネラの大きさは・・・『動くアルプス』っていうんだってね。」
「一メートル九八、百三十一キロだって。生まれたときに七・五キロもあって、こども時分、なまの馬肉をうんとたべて、あんなに大きくなったんだってさ。」
「イタリアのまずしい石屋のこどもで、もとは重量の拳闘選手だったんだ。(略)」
『こども時分、なまの馬肉をうんとたべて、あんなに大きくなったんだってさ』
まずしい環境で生まれた子供が、安い馬の肉を、なんと生で食べて強く大きくなったという。
なんて野蛮で恐ろしい選手なんだろう!!
カルネラってやつは、ボクシングのチャンピオンにまでのぼり詰め、今度はレスラーになって来日し、いよいよ力道山と対決するという。
…力道山率いる国際プロレスと相対するプリモ・カルネラ戦への期待が、熱く熱く盛り上がるではないですか。
この『馬肉を生で食べて強くなったカルネラ』のエピソードは、当時大きなインパクトを持って広く知られたようです。
さくら鍋の老舗料理屋として現在も江東区深川で営業を続ける「みの家」に関する1958年の紹介記事「うまいもの探訪 親しまれてきたさくら鍋 『みの家』」(「食生活」1958年4月号・カザン)にこんな記述がありました。
(「食生活」1958年4月号・カザン)
去る日外国から来たプロレスラーが、おい立ちに馬の生肉を食べたという話をきき、最近、場所前に馬肉(刺身)を食べる力士がふえたとか。
実際にカルネラの名が出る記述もありました。
「実業往来」1966年1月号『味の探訪記 下町の味・さくら肉・みの家』から引用します。
(「実業往来」1966年1月号『下町の味・さくら肉・みの家』)
かつて世界軍量拳闘選手権を獲得したイタリーの巨人、ブリモ・カルネラ(現在は、イタリー映画に時々顔をだす)は、来日した際”私は小さい時から生の馬肉が大好きだった”と言った。むべなる哉である。馬肉は四つ足のうちでもっともビタミンDが多い。
前述したとおり、馬肉の生をこよなく愛したカルネラの来日第一声により、世のおのこ、めのこは馬肉に食指を動かし、さくら肉の刺身が現出するようになった。
この「カルネラの来日第一声」というのがとても気になります。
そこで、カルネラが来日した1955年7月11日前後のスポーツ紙3紙(スポーツニッポン、報知新聞、日刊スポーツ)を追ってみました。しかし、ひとつだけ記者のコラム内に『馬肉を食べて大きくなったでおなじみの』的記述を見つけましたが、カルネラ自身の発言には出会えませんでした。
嗚呼、なんとか出所を知りたい…。
さてさて。
力道山とカルネラの国技館での対決が1955年(昭和30年)7月15日で、くだんの会津若松での興行が行われたのは、たった約1ヶ月半後の9月1日です。
つまり、会津の七日町に複数の馬肉店を見かけ、『馬肉を生で食べて強くなったカルネラ』のエピソードを思い出し、それが『おやじさん、そこにつるされている馬肉を生でくれ』につながったとは考えられないでしょうか。
●持参した辛子味噌とは?
では、「持参した辛子みそを付けて馬肉を生で食べ始めた」というこの辛子味噌とはいったいなんだったのでしょうか?
「肉の庄治郎」の店主が、力道山の辛子味噌ダレを再現し現在に至るこの調味料。
農林水産省のサイト「うちの郷土料理:福島県馬刺し」には「馬刺しの旨辛味噌のレシピ 4人分」として、次の記載があります。
材料(馬刺しの旨辛味噌のレシピ 4人分)
米味噌 大3
酒 大3
みりん 大3
水あめ 大3
しょうゆ 少々
塩 少々
唐辛子 大2
コチュジャン 大2
会津(オタネ)人参粉末 大1
にんにく 2片作り方
1 にんにくをできるだけ細かくみじん切りにする。
2 鍋に酒・みりんを入れ沸騰させアルコールを飛ばす。
3 2に米味噌・水あめ・しょうゆ・唐辛子・コチュジャン・にんにくを入れ中火でお好みのかたさになるまで練る。
4 塩で味を調える。
5 火を止め会津(オタネ)人参の粉末を加え練り合わせる。好みの馬刺しと和えて食す。
また、「朝日新聞」長野東北信版での連載「馬のめぐみ(5)味わう」(2018年1月6日朝刊)では、長野県外での馬肉の食べ方として『辛子みそを溶かしたしょうゆで、馬刺しを食べる』(本文より)会津の馬肉食文化に触れ、「肉の庄治郎」の店主鈴木浩二氏を取材しています。
ここで辛子味噌に関して次のように語られています。
そのみそをもらい、店でつくって、馬刺しとセットで売り出した。先代が他の店にもつくり方を教えたため、地域に広まったという。ニンニクや唐辛子などを混ぜ合わせるみそは濃いめのトウバンジャンのような味。辛子みそによって肉の甘みが増す。
ふむ…。
こうなれば、まずは体験である。
家にある、コチュジャンと豆板醤を味見してみました。
コチュジャンは唐辛子の刺すような辛味のあとにふわっと甘みがわいてくる印象。
豆板醤の方が味噌感は高めで少しだけニンニクの風味もある。
いずれも会津の馬刺しの辛子味噌の特徴に、含まれる要素だけれど、しかしそのものズバリではなく、特定はできませんでした。会津味噌をベースに独自のレシピとして今に至るようで、力道山が持参した辛子味噌は、コチュジャンだったのか、豆板醤だったのか、それとも別な調味料だったのか…宿題とします。
●おわりに
今回のお題「会津若松の馬肉生食文化は本当に力道山によって生まれたのか?」。
結論は、1955年当時に来日した強豪レスラー、プリモ・カルネラの馬肉生食の野蛮で豪快なエピソードを、会津でたくさんの馬肉店を目にした力道山がなぞり、そこから会津に馬肉生食文化が根付いたというのが真相のようです。
それにしても、力道山は、そもそも生食ではお店で提供していない馬肉をいきなり口にして、食中毒にでもならないかと考えやしなかったのでしょうか。
ここで重なったのが、「プロレススーパースター列伝」『なつかしのB・I砲!G馬場とA猪木編(7)』(原作・ 梶原 一騎/画・原田 久仁信) で読んだ力道山の死のエピソード。
暴力団員とトラブルになり、ナイフで刺された力道山が、快方に向かっていたに関わらず、その豪傑さと自分の肉体への過信で無茶をして、急死してしまうのです(諸説あり)。
(「プロレススーパースター列伝」『なつかしのB・I砲!G馬場とA猪木編(7)』(原作・ 梶原 一騎/画・原田 久仁信))
(「プロレススーパースター列伝」『なつかしのB・I砲!G馬場とA猪木編(7)』(原作・ 梶原 一騎/画・原田 久仁信))
このエピソードが強烈に記憶にあるので、
「なにがカルネラだ、『動くアルプス』だ。俺の方が強いんだよ。馬肉くらい生で食べてやらぁ。」
そんな風景が浮かぶのです。
近年、肉の生食が法律で制限されるなか、馬肉は厳格な基準のもと、現在も生で食べることが認められています。
1955年9月1日。
もし、力道山が馬肉で食中毒など起こしていたとしたら…。
「肉の庄治郎」が生食にたえられる質の良い馬肉を扱っていたからこそ、会津に馬刺し文化が定着して広がり、現在に至ったということになります。
「肉の庄治郎」万歳。力道山万歳。
さて…。
こんな調べごとをしながら、導かれるようにある日池上本門寺にある力道山の墓参りへ出掛けました。
お寺へは、西『馬』込駅から歩いたのは何かのご縁でしょうか。
池上本門寺の境内にはいくつも『力道山の墓所はあちらです』と記された案内板が立ち、迷わずたどり着けます。
墓の前の力道山のブロンズ像と児玉誉士夫の書による石碑の迫力よ。
今回は、わが故郷とあなたとの、不思議なご縁のなぞなぞをいただきありがとうございました。
とてもとても面白かったです。
嗚呼、馬刺し食いたい。(終)
今でも会津若松市内のスーパーのヨークベニマルで馬刺しを売ってますよ、私はお酒を止めたので、食べなくなりましたがね。