会津若松の馬肉生食文化は本当に力道山によって生まれたのか? その2
まず、1955年(昭和30年)9月1日に会津でプロレス興行をしたという力道山の動きを整理します。
地元紙「福島民報」「福島民友」を確認すると、『プロレス国際大試合』興行は福島県内では会津若松市、福島市、平市の3か所で行われことがわかります。
【会津開催】
開催日:1955年9月1日(木)
会場:会津若松市営球場
開場:午後1時
試合開始:午後4時:
会津若松市消防団資金造成興行
(会津若松消防団・日本プロレス協会・日本プロレス興行・長谷川興行社)
(福島民友 1955年8月20日朝刊)
(福島民報 1955年8月28日朝刊)
【福島開催】
開催日:1955年9月2日(金)
会場:福島県営体育館(福島市三河北町)
試合開始:午後6時
主催:福島民報社・毎日新聞社
後援:日本プロレス協会
(福島民報 1955年8月16日夕刊1面)
(福島民報 1955年8月21日朝刊4面)
【平開催】
開催日:1955年9月3日(土)
会場:平競輪場(雨天の際は平市公会堂)
試合開始:午後4時
主催:日本プロレス協会
後援:平市役所・毎日新聞社・福島民報社(主催表記の広告もあり)
(福島民報 1955年8月27日朝刊中通版)
(福島民報 1955年9月1日朝刊)
いずれも
日本勢
力道山(日本チャンピオン)
東富士(ハワイタッグチャンピオン)
遠藤幸吉(太平洋タッグチャンピオン)
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海外勢
セザス・オルテガ(メキシコ・チャンピオン)
バット・カーチス(中米タッグチャンピオン)
バブ・オートン(全米テレビチャンピオン)
を看板レスラーに、総勢約40名が福島県入りする興行でありました。
会津、福島、平で、それぞれ興行主を変えているのもミソで、「福島民報」は、自社が主催である9月2日の福島開催のみを開催半月前の8月中旬から広告はもちろん「レスラーのプロフィール」(全6回)をはじめ、特集記事を頻繁に掲載し、煽るように盛り上げているのが面白いです。
(福島民報 1955年8月24日夕刊)
次に。
では、1955年9月1日(木)開催の会津興行の内容とは一体どのようなものだったのでしょうか。
「福島民友」1955年9月2日朝刊によると…。
力道の奮闘に熱狂 会津若松で国際プロレス
会津若松市消防団資金募集国際プロ・レス試合は一日午後四時から、市営若松球場特設リングで行われ六千余の観衆を熱狂させた。はじめに芳野里、比嘉、藤田山らによる前座四試合が行われた後、豊登対遠藤の三十分一本勝負、カーチス対駿河海の四十五分三本勝負が行われ、オルテガ、オートン対力道山、東富士のタッグ・レスは首投げ、胴じめなどリング上一ぱいに激闘がくりひろげられ、本場プロレラーの威力をひ露「力道、力道」の声援に力道、東よく奮闘して見事強豪をフォール、ファンを熱狂させた。
(福島民友 1955年9月2日朝刊)
「福島民報」1955年9月2日朝刊では…。
日本側勝つ 会津若松で大盛況
プロレス界の人気の絶頂にある日本チャンピオン力道山や東富士、メキシコチャンピオン、オルテガ、中米タッグ・チャンピオンカーチス、全米テレビチャンピオン、オルトンなどを迎えての国際試合は一日午後四時から会津若松市営球場で開かれ、折からの雨にもめげず集まった一万数千の観衆をわかせた。
試合はまず金子の戦い始まり、渡辺対藤田山、羅生門対田中といずれも引き分けとなった。続いて芳の里が比嘉を体固めで破り豊登は遠藤を体固めで破った。次に駿河海とカーチスの一戦はカーチス体固めで勝抜いた。
最後に力道山、東富士対オルテガ、オルトンのタッグ・チームマッチはまず第一フォールは日本側の反則勝、第二フォールでは東富士がロープを利用してオルテガを体当たりでのばせばやんやのかっさい。やがて力ど道が飛び出し得意の空手チョップを爆発させ、最後にオルトンを体固めで破り日本側の勝利を収めて七時過ぎ大会の幕を閉じた。
(福島民報 1955年9月2日朝刊)
さすがは、当日に主催興行を地元で控える「福島民報」側の詳細なレポート。
また動員数を「福島民友」が『六千余の観衆を熱狂させた』としているのに対し、「福島民報」は『一万数千の観衆をわかせた』と倍付け。果たしてどちらが正しいのか(笑)。
さて。
1点気になったのが「福島民報」の記事の締め『七時過ぎ大会の幕を閉じた』の部分です。
ここで「肉の庄治郎」のチラシの文章を改めて振り返ります。
『興行終了後、カ道山が大勢の弟子を引き連れ当時まだ砂利道だった私の店に裸足で歩いてきたそうです。』
興行を夜7時過ぎに終えてお店に向かったということですが、その当時のお肉屋さんが、本当にそんな遅い時間に店を開けていたのでしょうか?
この点は、少し不思議に感じた部分です。
また、翌日の力道山一行の会津から福島への動きも記しておきます。
今夕火花散る肉弾戦 プロレス福島会場大人気
一日夜会津若松市で一万数千の大観衆を集め圧倒的な人気のうちに肉弾相うつ白熱○(戦?)を繰り広げたプロレス国際大試合はいよいよきょう二日午後六時半から福島市三河町県営体育館で行われる。レスラー一行は二日会津若松市からハイヤーで正午過ぎ県都入りし飯坂温泉花水館で少憩、午後六時半からリング狭しと打つ、なぐる、けるの壮烈な試合を展開することになった。
(福島民報 1955年9月2日朝刊)
以上。
これで、1955年(昭和30年)9月1日に、確かに力道山が会津にいたということが確認できました。
残っている疑問点は下記のあたりです。
・力道山一行が「肉の庄治郎」を訪れたのは、本当に試合後の夜7時過ぎだったのか?
・なぜ馬肉を生で食べさせるよう求めたのか?
・力道山一行が持参したタレとは一体何だったのか?
・なぜ会津にこのエピソードが残っているのか?