まんが道とトキワ荘:寺田ヒロオとは、一体どんな人物だったのか。
(去年書き散らかした文章が放ったらかしだったので、まとめてみます。)
2022年3月某日。
映画「トキワ荘の青春」(1996年製作・市川準監督)の2020年デジタルリマスター版が公開中とのことで、慌てて出掛けてきました。
「まんが道」をはじめ様々な記録から良く知る物語であるはずなのに、まるでかつて自分が過ごした日常とそこが繋がっているような錯覚をおぼえ、ほぼ全編半泣き状態で、すっかりその世界にのめり込んでしまいました。
今や一線級ばかりの俳優さんたちも素晴らしく、本木雅弘演じるテラさんの人柄と、その内に秘めた葛藤、森安なおやの不器用な理想主義者で、多々挫折を味わいながら、悲壮感を表に出さぬ飄々としたキャラを演じた古田新太がたまりませんでした。
この世界にずっとずっと浸っていたくて、映画のあとは思わず椎名町のトキワ荘マンガミュージアムに向かってしまいました。
定期的に観たい作品です。

5月某日。
そして…。
それからしばらく、ずっと
「トキワ荘の兄貴、寺田ヒロオとは、一体どんな人物だったのか。」
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そんなテーマが、ずっとずっと頭の中で引きずっていました。
もちろん私には「まんが道」など様々なトキワ荘伝説からの「絶対的兄貴イメージ」がテラさんにありました。
健全な少年漫画を理想としながら、時代の変化の中で、アクションや暴力描写が好まれる刺激重視に進むマンガの世の流れに絶望して筆を折ったとされ、晩年は自宅はなれの自室にこもり、酒びたりとなって「緩慢な自殺」(談・藤子不二雄A/ヒストリーチャンネル制作「20世紀のファイルから:第29回 マンガがすべてだった『トキワ荘』の頃」」)をとげたと云われる寺田ヒロオ。
しかし1980年代も「『漫画少年』史」(湘南出版社・1981年)の出版、「漫画少年」の復刻版の出版(国書刊行会・1983年)などを機に雑誌の取材に応えています。
また1985〜1986年には「コミックWOO」(週刊サンケイ別冊)に『トキワ荘グループテーマ競作選』として、2ページの正直あまり面白いとは思えない(少なくとも現在の私には…です)作品を描いています。
トキワ荘取り壊しを機とする1981年放送のNHK特集「わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝」
では、茅ヶ崎の自宅での取材に答えるのみで、トキワ荘での仲間との最後の同窓会には出席しませんでした。
この件に関しても当時の雑誌取材に
「行けないですよ。いま僕は何も(仕事を)していないし、なんにもしないでデレーッとしてるのは自慢にならんわけですよ。だから誰にも会いたくないんです」(サンデー毎日・1981年5月31日号)
と答えていますが、しかし一方で、「サンデー毎日」1990年4月29号では「青春残像・少年漫画の世界を築いた『トキワ荘』の夢工房」として取材に受けていたり、1990年6月23日にトキワ荘の仲間(藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう)を自宅に呼んで宴会を催します。
そして、この時を最後に、寺田ヒロオは漫画家仲間と完全に縁を絶ち、1992年9月24日に亡くなります。
「トキワ荘はまだありますよ。行ってみようという気はありませんか。」
「今のところないですね。別に見たいとは思いませんね。」
(1981年放送 NHK特集「わが青春のトキワ荘 現代マンガ家立志伝」より)
テラさんの硬い信念と冷めた表情と視点・・・いやいやこれはあまりに重い。
一体、寺田ヒロオの絶望と、マンガやかつての仲間への未練や思いとはなんだったのでしょうか?
2021年6月8日記。
これまで断片的にしか観ることができていなかった、寺田ヒロオを中心にトキワ荘を追ったヒストリーチャンネル制作の「20世紀のファイルから:第29回 マンガがすべてだった「トキワ荘」の頃」に少し前やっと全編触れることができました。ニコニコ動画に感謝。
この番組、制作年など細かな記録が全く見つからないのですが、「トキワ荘の時代 寺田ヒロオのまんが道」(筑摩書房・1993年7月刊)の著者、梶井純が取材者として中心に置かれていますが、この本をモチーフに市川準が監督した映画「トキワ荘の青春」(1996年製作・公開)に触れられていないので、1993年〜1995年頃の番組だろうかと思います。
また番組中、梶井純が椎名町のトキワ荘跡地を訪れると、そこは更地になっていて、新しい建築の工事が始まっている様子が描かれています。バブル期のトキワ荘地上げ騒動の前後ということも察せられます。
さて、この番組のなにがすごいかって言えば、前述の1990年6月23日、寺田ヒロオが亡くなる2年前に藤子不二雄の2人、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木伸一のトキワ荘仲間を茅ヶ崎の自宅に呼び寄せて行った最後の宴会の様子のホームビデオが公開されたことだと思います。
鈴木伸一の撮影とされ、これがまさか最後のテラさんを囲っての酒宴となろうとは、寺田本人以外誰も思っていなかった、大先生方の無邪気な姿と、常に満面の笑みで仲間を眺めるテラさんがたまらないのです。
電車や車を嬉々として乗り継いで茅ヶ崎に向かう先生方や、家の門の前に出て笑顔で一同を迎えるテラさんの姿も微笑ましいです。
また、寺田に上京を勧め、長年に渡っての親友であった、劇画漫画家、棚下照生の証言がたっぷり聞けるのも大変貴重です。
ここでの晩年に関するこのエピソードはあまりにも重い。
「寺田からよく電話がかかってくるんですよ。『会いたい』っていう。聞いてると電話口で泣いてるんです。『今すぐ行くよ』というと、『いや、来ないでくれ』っていう。『会いたいけど、来ないでくれ』っていう。結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな。寺田は、ゆっくり、ゆっくり死んでいったんじゃないかな。」
寺田は棚下に何を語りたかったのか・・・。
よく引用される藤子不二雄Aの「あれは病死というより、緩慢な自殺」という発言も、この番組のインタビューからのものです。
テラさんとは変わりゆく時代に乗り切れなかった不器用な漫画家だったのか、おのれの漫画に対する理想にこだわってそれがあまり通じなかった信念の人だったのか、思いを馳せれば馳せるほど切なくなります。
間に入る編集者などの力でなんとか時代は変えられたのではないかとも思うのですが。違うのでしょうか。
テラさんの人生の後半に、とても興味がわきます。
少しこだわって追いかけてみたいです。