1960年代、四谷大木戸にあったジャズクラブ その4
ヤフオク出品物の古いチラシから明らかになった、四谷大木戸に存在したというジャズクラブ「Club 48」。
『1960年代、トルコ「大木戸」のすぐそばにジャズクラブがあった!』
このなんとも刺激的な事実に大興奮をおぼえてから、もう早3年が経ちました。
・・・あ。
「トルコ『大木戸』ってなんの話?」
という方は下記の記事からどうぞ。
→[関連記事]【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史
さて。
「Club 48」のお話に戻ります。
このお店の場所や出演スケジュールが記載されたチラシは、これまでの経緯で1963年(昭和38年)10月のものであることがわかりました。
「Club 48」の存在は、住宅地図「東京都全住宅案内図帳 1964年版」(人文社)でも確かに確認ができました。
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また、ピアニストの菅野邦彦氏のウェブサイトには「Club 48」のことが詳細に語られていました。菅野氏の名は今回のチラシに『専属バンド 管野邦彦クインテット』と、(誤植ありですが)記載があります。
以下、引用です。
数年後の東京オリンピックのとき東京の街は夜間遊興禁止であった。そんな環境下、新宿と四谷の間に48(ヨンパチ)というもぐりのクラブがあった。利にさとい東大卒の男が地元のヤ印組織を使って運営していたらしい。粗末な施設(巨大な天井の上に雨水がたまっていて、穴をあけて水を落とそうと相談していた)をチャチな映画のセットのようにベニヤ板で何重にも迷路のようにとりかこみ、方々ののぞき穴からアベックにばけて入ろうとする警官をチェックしていた。そのクラブで、プロになっていた菅野は連夜のように、三橋兄弟(ベースの兄とテナーの弟)、加藤氏(ドラムス)、福地氏(ギター)、笠井ケメコ氏(ヴォーカル)達とバンドを組んで演奏した。
ある夜、副司令官から菅野は「48」での副司令官の誕生パーティの演奏を頼まれる。着飾った米軍のオフィサー、その婦人連が百数十名参加してパーティは盛会裡にすすんだ。が、しかし、まさに、「ハッピーバースデイトゥユー」を弾きはじめた瞬間天井が抜け落ち大音響とともに巨大な水柱に全員が水浸しとなった。しかし、戦勝国のおおらかな?米人達は笑い転げていたそうだ。クラブは洗濯代等の弁償を申し出たが副司令官は受けつけなかった。
当時夜の「遊び場」がなかった東京で「48」には多くの有名人、芸能人が出入りしていた。(草笛光子氏、ピアノの山崎正氏、久里千春氏、北原謙治氏、宍戸錠氏、夏木陽介氏、式場壮吉氏、ミッキーカーチス氏、浅岡氏等々)山崎氏は、後年ナベプロ社長となる渡辺晋とシックスジョーズの一員であり、「48」で知り合った久里氏と結婚する。また、「48」にはカーレーサーはじめ多くの人が高級スポーツカーで乗り付けていて、菅野もそれに影響をうけたのか後に「サンダーバード」を手に入れる。今から思えば、ジャズとカーレース隆盛の夜明けのような時代であった。(ミッキーカーチスは英国車のモーガン、宍戸錠は黒塗りのTR4,夏木陽介は黒塗りのサンダーバード55に乗っていた。菅野は後に坂本九から薄いピンク色のサンダーバード57年を手にいれる。ちなみに(「48」ではないが)山下敬二郎は丸窓のあいたツートンカラーでうしろにタイヤを積んだサンダーバード56、平尾正晃はオースティンヒーレー、式場壮吉はACコブラ、)
しかし、もぐりの「48」にも手が入り菅野は逮捕される。所轄署で「48」での演奏中の写真をみせられ、3日3晩拘留されることになる。菅野は前科一犯だと自嘲しているが、次のオリンピックの際には、ばかげた夜間遊興禁止の措置がなされないことを願っている。
(Kunihiko Sugano ピアニスト菅野邦彦の公式サイト「Behind the scene」より)
そして、四谷大木戸の証人「多満川」の店主柳谷様を通じ、大木戸在住の3名様からは、下記の証言を得ることができました。
・白い壁に囲まれていて、その外側に竹が植えてあった。
・結構広かった。
・いつもやくざ風の男たちが周りに立っていたので、中に何があるのかは子供(当時中学生くらい)にはわからなかった。
続いて、当サイトには、当時小学生だったという『四谷産まれ!』様から、それを裏付ける「Club 48」の在りし日の姿のスケッチをお寄せいただきました。
その姿を現した「Club 48」でしたが、当時の調査はそこで行き止まりとなりました。
それから約2年半・・・。
2022年12月21日に 「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルが発表されました。
なんと検索できる資料が50倍になったといいます。
自宅から触ってみただけでもこりゃすごい。
国会図書館の館内閲覧のみの資料も膨大に増えており、年末に私はたまらずNDLへ向かいました。
この大リニューアルにはホント驚きました。
検索可能な資料が50倍になると見える景色がこんなに変わるのか。
かつて何時間も、何日も、ヘタすれば何年も掛けて行き着くところまで行ってしまったと思ってた調べたものが一瞬で更新されてしまった。
・・・幸せすぎる。
ん。
でも、その喜びを享受する最優先キーワードのひとつが「Club 48」でよいのか?!
・・・いやいや、そんなことに疑問を抱いている場合ではないのです。
検索でいきなり、あまりのインパクトにめまいをおぼえたのが、雑誌「二人自身」1963年10月号(光文社)のコーナー『エブリガイド』の記事「このコース 二人専用です 東京・新宿ー四ツ谷』(P158)。
「二人自身」は、光文社が「女性自身」(1958年12月創刊)の姉妹誌として1961年12月に発刊した「マイホーム」を引き継ぎ改題し、1963年5月から1966年3月まで出された雑誌。内容から察するに、「女性自身」がお昼のママさんの顔なら、「二人自身」は夜の女性の顔といった棲み分けだったのでしょうか。
[参考]光文社 会社案内 沿革/国会図書館『マイホーム : 女性自身姉妹誌』『二人自身』
新宿〜四ツ谷の夜のデートコースを紹介するこの記事に「クラブ48」(以降、表記は記事に則ります)が写真付きで登場します。写真には『外人バンドが出演する「クラブ48」』のキャプションがあります。
「クラブ48」に関するくだりを引きます。
ーーー12時、サックスの音に背骨をくすぐられて外へ。<夜を知らない街>のよる、はなやかなさざめきの中を新宿一丁目方面へドウゾ! 文化会館前をターンして「クラブ48」へ。
8月7日開店のこのクラブ、客はまばらだが、テレビでおなじみの新劇人の顔が意外に多い。
キャンドルの下のさし出されるメニュー 。彼はスカッチ、私はバイオレント・フィズ<各450円>。テーブル・チャージ<一人500円>を含めても、飲んで踊って二千円ちょっとでOK.
青く、あまいライトの中で深海魚になった、彼とわたし。寄りそって踊る・・・。
1時半。踊り疲れて、お腹がグー。
お店の開店が、1963年8月7日であることもわかりました。
あまりにも、急に「クラブ48」が生々しくその姿を現したことに、もう興奮しかありません。
しかし・・・。
「クラブ48」の営業は、その後約半年で幕を閉じるのです。
(読売新聞 1964年2月25日夕刊6面)
それは、東京オリンピックの開催を8ヶ月後に控えた突然の出来事でありました。(続きます)