松村雄策、小林信彦「ビートルズ論争」の本質とは一体なんだったのか(2025年2月28日追記)
松村雄策の訃報からしばらく経ち、「映画論叢 59」で森卓也が小林信彦に関して書いた「或る作家の横顔 尾張の幇間」を読みました。

なんとも読みづらい不思議な文章なのですが、要は長年自分をマウントを取るような形で慕ってきていた小林信彦がいかに嫌な変人であったかが記されています。
直接的な松村雄策に関する言及はないのですが、あの時
「ボクは一人の<ビートルズおたく>のいやがらせを受けた」
(中日新聞 1991年7月20日夕刊「小林信彦のコラム48『〈おたく〉の病理学』」)
とまで書いたのも、なるほど・・・さもありなんという気がしました。
特に「レツゴー三匹」の表記に関する、自分の誤りを頑として認めない下記のエピソードは滑稽にすら思えました。
小林氏のエッセイ集の文庫版解説をいくつか書いた中で、こんなことがあった。大阪のトリオ漫才の呼称を、彼は”レッツゴー三匹”と記すのだが、芸名は”レツゴー三匹”が正しい。で、解説はレツゴーにしたのだが、担当編集者に一応念を押した。編集者も当惑の様子だったが、著者に電話したところ次第に不機嫌になり、「今迄レッツゴーと書いてきて何も言われたことはない」ーーーで、その文庫版は、本文と解説で、芸名の表記が違ったままである。
(「映画論叢 59」P7 森卓也「或る作家の横顔 尾張の幇間」)
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私の保有する「日本の喜劇人」(新潮文庫・1982年11月発行)では「レッツゴー三匹」表記、2021年に出た「決定版 日本の喜劇人」(新潮社)では「レツゴー三匹」にちゃんと直ってました。
あらま・・・。

「日本の喜劇人」(新潮文庫・1982年11月発行)

「決定版 日本の喜劇人」(新潮社・2021年5月20日発行)
松村雄策と小林信彦。
どちらも大好きな作家なので少々複雑な気持ちになりました。
そして、どんどん疑問がわき上がってきました。
「そういえば、あの松村雄策と小林信彦の『ビートルズ論争』ってホントのところは一体なんだったんだろう」
1991年春。
小林信彦が発表した小説「ミート・ザ・ビートルズ」に端を発した松村雄策とのケンカ。
当時学生だった私は、松村が執筆していた音楽誌「ロッキング・オン」の熱心な読者で、小林信彦の著書には触れたことがありませんでした。
明確なつかみどころを理解できないまま、しかし当然松村側に立ってこの論争を眺めていました。
そしてその後。
年を重ねる中で、数々の芸人論で小林信彦の著作にお世話になってきました。
ふたりとも大好きな作家なのです。
だから今こそ、あの時の「ビートルズ論争」の本質を確認してみようと思ったのです。
もしかしたら松村さんの追悼になるかもしれない、そんな風にも思いました。
さて。
いきなりショートカットをしますが、「ビートルズ論争」の概要はウィキペディアにまとまってますのでご覧ください。
私はまず、小林信彦の「ミート・ザ・ビートルズ」(新潮社)はもちろん、単行本化の際に修正がなされていないか「小説新潮」1991年4月号・5月号も読んでみました。
5月号には小林と萩原健太氏の対談「ビートルズ元年の東京」も載っていました。
1991年当時毎号買っていた「ロッキング・オン」掲載の松村雄策の原稿は全部読んでいるのだけれど、当然詳細な記憶はなし。そこで改めて読み返すため大宅壮一文庫から取り寄せました。
大宅壮一文庫には『ミート・ザ・ビートルズ論争』というカテゴリが有るらしく、あちらこちらで小林が書いた反論記事やこの騒ぎを取り上げた雑誌記事もすぐ手に入れることが出来ました。
これらを読み進めると・・・。
これまで、この対立の構造は、小林信彦の小説「ミート・ザ・ビートルズ」の中で、1966年の来日時の頃のビートルズが正確で詳細に描かれているかに疑問を抱き、小林に訂正を求める松村雄策と、時代考証は詳細に行なっていると絶対の自信を持ち、「ビートルズマニアに絡まれた」と間違いを認めず怒り散らす小林信彦・・・と認識していましたか、どうやら、それだけの話ではないような気がしてきました。
そこで、まずは松村雄策による小説「ミート・ザ・ビートルズ」に対する誤りの指摘をひとつひとつ検証していこうかとも思ったのだけれど、それは前述のウィキペディアにすでにまとまっているので、もう一度わざわざやらなくてもいいのかなと・・・。
あ、いや。・・・でも、ひとつやってみましょう。
小説内で登場する雑誌「ヤング・ミュージック」に関して。
主人公がタイムスリップした1966年6月27日のシーン。
(ビートルズが羽田空港に到着するのは6月29日未明です。)
第4章 1966・台風
僕は薄クリーム色の電話機をひき寄せ、受話器を外した。
伯母のアパートの電話番号はまだ記憶している。局番は三桁だった。
十回ほどコールしたが、伯母は出なかった。どこへ行ったのだろう。
(そうだ!)
ぼくは思わず、苦笑を浮かべる。
(伯母はまだ勤めているのだ……)
頭が混乱しているので、出版社が頭に浮かばなかった。
だが、雑誌名は覚えている。「ヤング・ミュージック」とかいうのだった。」
(中略)
——はい、「ヤング・ミュージック。
無愛想な男の声がきこえる。
(「ミート・ザ・ビートルズ」「小説新潮」1991年4月号P37/単行本初版P58)
これに対して松村雄策は次のように指摘しました。
おそらく、この「ヤング・ミュージック」という名称は架空のものであって、あなたが考えたものだと思われます。しかし、「ヤング・ミュージック」という名前の音楽雑誌は、実際にあったのです。ビートルズ来日数ヶ月後の一九六六年後半か一九六七年前半に、たしか集英社から創刊されたのだったと記憶をしています。そちらのほうと混同をされるのを避けるためにも、他の名称にしたほうがいいのではないでしょうか。
(「ロッキング・オン」1991年9月号「小林信彦氏に答える 『ミート・ザ・ビートルズ』の疑問点」 P82)
一方、小林信彦の回答は下記のものでありました。
こういう名前の雑誌は当時、じっさいに出ていたから、他の名称にしたらいかが?
というのがMの助言。
これに対しては、時代性がよく出ている誌名だから、このままでかまわない、というのがぼくの考えである。
(「本の雑誌」1991年12月号「小説探検32 事実と小説のあいだ」P66)
雑誌「ヤングミュージック」は、集英社から1967年1月1日発行の1967年1月号が創刊号となります。以後1969年4月号で休刊となるまで発行されました。(現物は国会図書館所蔵)

時代考証やリサーチにこだわる小林が、わざわざここで1966年には存在しない「ヤング・ミュージック」という誌名を(細かいことを言えば、実際に発刊された雑誌には中黒点がないにせよ)、松村の指摘を受けてもなお、そのまま単行本でも使うというのは、物書きとして正直「??」と感じました。こんな明らかに後から突っ込まれそうなこと普通やらないよなぁ・・・。
しかし、奇しくも雑誌「ヤングミュージック」創刊号の表紙や特集は、ビートルズであるというのが面白い。
これは、小林の先見の明なのでしょうか・・・と持ち上げてみたり。
あと、もうひとつ。
萩原健太との対談記事で7月1日の昼公演を見に行ったという小林が次のような発言をしている点にも触れてみます。
司会のエリック・H・エリックが曲の紹介をしようとして、『次は……』っていうと、あとはワアーという叫び声だけ。僕はかなりいい席だったと思うんだけど、ワアーッとなったら、もうあとは何もきこえない。何を歌っているのかわからないんですから。夜テレビを見て、やっとわかったわけです(笑)。
(「ビートルズ元年の東京」「小説新潮」1991年5月号P78-79)
これも基本的知識のおさらいでありますが、ビートルズの来日公演は6月30日夜公演と、小林が見たという7月1日の昼公演が放送のため収録され、後者が7月1日の午後9時から放送されました。
余談ですが、その後、何度か再放送やビデオ発売がなされましたが、これらはすべて6月30日夜公演の映像というミステリー。この話はここに書きました。
[参考]ビートルズ来日公演公式映像の罠
現在では、収録された6月30日夜公演、7月1日昼公演ともに、少しの努力をすれば綺麗な画質で見ることができます。
2回の公演ともライブの進行や演奏曲に変わりはありません。
前座の演奏が終了後、司会のエリック・H・エリックが挨拶をし、ビートルズを紹介して招き入れ、メンバーとすれ違うように舞台をさがります。
以降、最終曲の「I’m Down」が終わってビートルズがステージを去り、エリックが再び登場して締めの挨拶をします。
ここまでエリックが再登場することはありません。
小林は以下のようにも発言しています。
しかし、Mもそうとうにおかしい。文章の最後で、
<レコード店やビデオ店に行けばすぐに入手が出来る「ビートルズ武道館コンサート」のビデオさえもチェックがされていないことは明白です。>
と断言しているが、あいにく、そのビデオは「小説新潮」編集部経由で、ぼくの手元にきたものである。つまり、第三者の証言があるのだ。
(「『ミート・ザ・ビートルズ』迷惑日誌」「小説新潮」1991年10月号P223)
ビデオを入手していることを殊更に強調しているのですが、前述した通り、そもそも内容をちゃんと観ていないことは明らかなのです。ライブ中に、エリックが『次は……』と曲紹介することなどなかったのです。
また、「演奏中は叫び声だらけで何も聴こえなかった」という話も、大昔の一時期までは定説だったように思うのですが、松村さんの文章や発言をはじめ、宮永正隆氏の「ビートルズ来日学」などで『ビートルズの演奏はファンの耳に届いていた』ことが、近年史実として明らかになっています。
でもね・・・。
この辺の違和感って肌ですごくわかるのです。
私自身、ビートルズ解散後の1980年台半ばごろに彼らの音楽と出会い、音だけではなく、その活動の記録やメンバーの考えや当時の文化も知りたいと思い、たくさんの本を読んだくちでした。
それらには、どうもピンとこない文章も少なくありませんでした。
どこか、高いところからの視点で、ビートルズを「1960年代の現象」として捉えたようなお話が少なくなかった気がします。
『ビートルズの演奏が聴こえなかった』のは、そもそもビートルズに関心のない、または理解できない、またはビートルズが話題だから武道館に来た大人だけだったように思います。
(三島由紀夫の「ビートルズ見物記」とか面白いですよ。)
少し横道にそれましたが、一連の両者の発言を読んでいると、まさにビートルズに対する距離感の大きな違いが浮き彫りとなってくるのです。
松村は以下のように記しています。
基本的に、この小説は、「ビートルズ来日事件」の取材はしてあっても、「ビートルズ」の取材はしていないと思いました。」
(「ロッキング・オン」1991年9月号「小林信彦氏に答える 『ミート・ザ・ビートルズ』の疑問点」 P83)
そう。ここなのです!
この視点は、「週刊SPA」1992年3月25日号掲載「中森文化新聞」の『あのビートルズ論争を総括する』での山崎浩一氏の文章が本質を突いています。
さて、じゃあこの論争で際立った両者の最大の<違い>とは、いったいなんだったのか? それは「ビートルズとの関係」だと思う。つまり小林氏のビートルズは自分の外側にあり、一方、松村氏のビートルズは自分の内側にあるのだ。ぼくは以前この論争を某誌で「時代的体験と個人的体験との軋轢」と決めつけたけれど、意味はまあ同じだ。この論争の随所で小林氏の「当時33歳の業界人的視点」と松村氏の「当時15歳のファン的視点が衝突していたのは象徴的だ。」
(「SPA」1992年3月25日号P117)
小林氏の発言を見ていくと、前述の「ビートルズ元年の東京」(「小説新潮」1991年5月号)で小説のタイトル「ミート・ザ・ビートルズ」が、1964年1月にアメリカで発表されたアルバムのタイトルと同じであることを小林があとから知ったという話や(P86「ビートルズのアルバムに『ミート・ザ・ビートルズ』というのがあるって担当編集者がいうんで、一瞬がっかりしたんだけど(笑)」)、「だいたい、ビートルズがデビューしたときには僕は三十過ぎてましたからね。買ってないんです、ビートルズのレコードって。」(P86)といった発言があります。
そしてこんなやりとりがあります。
萩原——小林さんはコンサートをご覧になってるんですよね?
小林——ええ。見に行けるとは思っていなかったんです。三十過ぎてましたから、無理をしてチケットを手に入れるという感じでもなかったし。
萩原——チケットを手に入れるのは相当大変でしたからね。明治チョコレートの包み紙を何枚か送るとチケットが当たるというのがありました。(中略)
小林——僕の場合は、『九ちゃん!』のディレクターをしていたSさんが、公演の二日ぐらい前に突然「ビートルズを見るなら切符あるけど」ってくれたんです。
(P77)
つまり。小林にとっては、
「30歳を過ぎた大人が、今騒がれてる『ビートルズ』なんてねぇ・・・。一応観には行ってみるけど。」
という認識であったということがよくわかります。
そして。
よくもまぁ、自分自身が大した関心を持っていない対象を小説の題材としたものです。
「SPA」1991年11月6日号で、この論争にコメントを求められた大滝詠一さんが、当時おそらく関係性としては小林信彦寄りであったであろうに「小林さんほど勉強家で貪欲に小説に取り組む作家はいないんじゃない?」としながら「ひと言では語れませんよ。もしこの論争にコメントをするとしたら、ちゃんと書かせてもらう時間が欲しいですね。」と態度保留としたのはさすがでありました。
結論が見えてきました。
つまり・・・。
お偉い作家さんが音楽ネタの小説を書いたら、弱小音楽雑誌(当時)で文句を書かれた。
編集長の渋谷陽一は、知らない相手ではないが、自分に売ってきたケンカをよく知らない大して売れてない音楽雑誌に掲載する原稿で反論してくるとは・・・。
で、松村某というビートルズおたくの戯言で雑誌を売らんかなの売名行為をするとはなにごとか。
お偉い作家さんは、腹が立って自身が連載を持つあちらこちらで反論をした。
この私に指摘するとはどういうつもりか、と。
そんな話だったのではないでしょうか。
で。
それをするのは、あの「レツゴー三匹」のエピソードの方・・・。
そして。
そもそもなのですが・・・。
当時は、結局のところ平行線の論争みたいな形になったけれど、いやいや本質は、松村さんが初めから最後まで何度も書いているこれらの言葉への注目が抜けていたように思いました。
非常に簡単にいってしまうと、現在の若者が一九六六年に行って、来日したビートルズと会うというのが、メインのストーリーになっている。
なかには若き日の母親と恋に落ちそうになるというところもあって、これって「バック・トゥー・ザ・フューチャー」である。
またコンサート・ツアーに来たビートルズのホテルの部屋に行って彼等と会うというのも、たしかスピルバーグ関係の「抱きしめたい」という映画にあったはずだ。
つまり、これはふたつの映画を合わせたというようなものなのである。同じようにビートルズの来日を題材にした小説にてこずって人間としては、こういうのはないんじゃないかなという気もする。
(「ロッキング・オン」1991年7月号「再び天下を取った男 ポール・マッカートニー、余裕のスタジオ・ライブ『公式海賊版』」P68)
これは、二本の映画のおいしい部分をいただいて、そこにビートルズをくっつけたという、作者の卑しさが明確にあらわれたものである。ビートルズやビートルズ・ファンや読者を侮辱しているのである。消えろ!
(「ロッキング・オン」1992年2月号「消えろ、 『ミート・ザ・ビートルズ』」 P83)
・・・つまり。
論争以前に、
この小説が全然面白くない。
というところに尽きるような気がします。
少なくとも松村さんと私にとっては・・・。
当時この騒動の最中、学校の図書館だったか、本屋で立ち読みだったかしたのだけれど、借りる、買うどころか数ページか十数ページか数十ページで読むのをやめてしまった記憶があります。
数十年経ちましたが、改めて「ミート・ザ・ビートルズ」を読んで、今回も文字を追うのがしんどかったというのが正直なところでした。
この辺りが、「ビートルズ論争」の本質だったのではないでしょうか。
約30年越しのモヤモヤ・・・やっとこれで腑に落ちました。 (敬称略)
【追記】(2025年2月28日)
レツゴー長作jr(@lets_go_chosaku)のアカウントで、レツゴー長作の三男であるという方が、2025年2月11日にXで興味深いツイートをされました。
レッツゴー三匹は間違いだというのは間違いであると再三申し上げているにも関わらず世間はまだレツゴー三匹が正解であると思い込んでいる。
これを正したいとは思わないしどうでもいいのであるが、できたらネタや漫才で話題に上がってほしいな。
(2月11日5:29PM)
レツゴーが正しいは間違いで、「どちらでも良い」のが正解ですね。
(2月11日10:58PM)


「レツゴー三匹」「レッツゴー三匹」。
どちらでもよかったなら、この点に関して小林先生は正しかったと言えます。
【参考資料】
●ロッキング・オン
1991年7月号 松村雄策「再び天下を取った男 ポール・マッカートニー、余裕のスタジオ・ライブ『公式海賊版』」
1991年9月号 松村雄策「小林信彦氏に答える 『ミート・ザ・ビートルズ』の疑問点」
1991年10月号 松村雄策「小林信彦の終焉は見たくない」
1991年12月号 松村雄策「ネバー・ミート・ザ・ビートルズ」
1992年2月号 松村雄策「消えろ、『ミート・ザ・ビートルズ』」
●小説新潮
1991年4月号と5月号 小林信彦『ミート・ザ・ビートルズ』
1991年5月号 小林信彦・萩原健太の対談「ビートルズ元年の東京」
1991年10月号 小林信彦「『ミート・ザ・ビートルズ』迷惑日誌」
●週刊SPA!
1991年11月6日号 「ビートルズ論争・ビートルズの具体的な事実を巡ってチグハグな応酬が展開」
1991年12月11日号 P142「お詫びと訂正」
1992年3月25日号 「中森文化新聞」山本浩一『あのビートルズ論争を総括する』
●本の雑誌
1991年12月号 小林信彦「小説探検32 事実と小説のあいだ」
●中日新聞 1991年7月20日夕刊
小林信彦 「小林信彦のコラム48『〈おたく〉の病理学』」
●噂の真相
1993年4月号 P106「あのビートルズ論争に再び小林信彦反撃か!?」
1993年6月号 P108「思わぬ方向に発展!小林信彦ビートルズ論争」
●書籍
小林信彦『ミート・ザ・ビートルズ』(新潮社)