松村雄策さんのこと
松村雄策が亡くなったという。
今日は、あまり体調が良くなかったのだけれど、昼頃から最近夢中になっている梵寿綱建築めぐりで東大和の向台老人ホーム「無量寿舞」に出掛け、そこから福生方面へ向かい、3月21日も近いので大滝詠一の墓参りに行ってきました。
そのあと、箱根ヶ崎の駅まで歩く途中、Tさんから「松村雄策が亡くなった」とLINEが。
「ロッキング・オン」のサイトを見ると渋谷陽一が「松村雄策、亡くなる」との記事を書いています。
足がその場で止まって、しばらく動けなくなってしまいました。
その日が来る覚悟は、なんとなくしてはいたのですが・・・。
先週、明大前で電車を乗り換えた時、いつもはそんなことしないのに、松村さんが働いていたホームの花屋の写真を撮りました。
【スポンサードリンク】
あれは何か胸騒ぎでもしたのでしょうか。
病気でしばらく活動を休んでいた松村さんが、「ロッキング・オン」2021年11月号に久しぶりの寄稿すると知って喜び勇んで書店に出かけました。
「ロッキングオン」最新号に松村雄策さんの原稿が載っていると知り、思わず目頭が熱くなってしまった。今店頭に並んでいる号だろうか、来月号だろうか。
どうもいま店頭に並んでいる号らしい。
帰りに地元の書店はまだ開いてるかな。
早く読みたい。— アダチカツノリ (@tonrecobran) October 8, 2021
そこで読者に告げられた自身の身体に関する近況に、一度読んで意味がちゃんと理解しきれず、すぐに今一度読み返したことを覚えています。
それから毎月松村さんの原稿が誌面に載るのを心待ちにしていました。
あと何度受け取れるかわからない松村さんからの手紙を待つのような気持ちで。
そうそう。
松村さんは、ジョン・レノンが年1枚ペースで発表されるアルバムを「ジョンからの手紙」と表していました。
それは、1970年の「ジョンの魂」から1975年のカバーアルバム「ロックン・ロール」まで続きました。
手紙は数年途絶えて、次に届いたのは1980年の「ダブル・ファンタジー」。
この年に何があったかは、敢えて言うまでもないでしょう。
松村さんは「2年目の12月8日に」(「リザードキングの墓」収録)で、
「僕は『ダブル・ファンタジー』を持ってはいない。欲しいとも、思ってはいない。一生涯、手に入れないつもりでいる。」
「それはどうしてなのかというと、『ダブル・ファンタジー』を買うと、ジョン・レノンが全部揃ってしまうからである。全揃うということは、つまりそれで全部であって、終わりということになるのである。」
と書いています。
当然サンプルのカセットなどで松村さんはこのアルバムの内容は熟知しているのだけれど、駄々っ子のような、こういうところが信頼できるというか・・・。
翌月の「ロッキング・オン」2021年12月号は「レット・イット・ビー」特集で、ウェブの告知記事に「松村雄策寄稿」とあって「また新しい松村さんの文章が読める!」とまず最初に松村さんのページを開いて読み進めると、どうも様子がおかしい。
「ロッキング・オン」最新号告知記事に「松村雄策寄稿」とあるので楽しみに本屋に寄りました。https://t.co/OYfbw7uLCv
ん? 家に帰ったらちゃんと確かめるつもりだけれど、この原稿って再録ではないか?
(長々と続きます)— アダチカツノリ (@tonrecobran) November 7, 2021
「この原稿って再録ではないか?」
そこには過去に松村さんが書いた原稿とほぼ同じものが載っていたのです。
タイトルは
「追憶の『レット・イット・ビー』と『ドント・レット・ミー・ダウン』」
でしたが、内容は「ビートルズは眠らない」収録の『レット・イット・ビー…ネイキッド』について書いた「1970年がリアルになった」(初出「ロッキング・オン」2003年12月号)のエピソードがほぼ今回の原稿と合致していました。
「50年目の『レット・イット・ビー』」を松村さんがどう受け止めたのかを読めるものとばかり思っていた私は、
「これを『寄稿』なんて書くなよ!」
と初めこそ頭に血に昇らせましたが、いや・・・松村さんの体調など何らかの事情で、原稿が間に合わなかったのかもしれないと考え出し、とても不安になったことを覚えています。
それ以降、松村さんの新しい原稿が載ることはなく、先月の「50周年特集号」で過去の松村さんの原稿が再掲されました。
新しい原稿が載らない状況が続き、「ロッキング・オン」発売日のたびに「体調良くないんだろか」と本屋で松村さんのことを思いました。
『ロックを聴いて生きていくこと』
『ビートルズを聴いて生きていくこと』
文字にするとなんだかあまりにかっこ悪いけど、松村さんから教えてもらったのは、このことに尽きるように思います。
毎年のように年末に書かれていた「○年目の12月8日に」という文章が象徴するように、ビートルズやジョンの評論をするのではなく、松村さんは1980年12月8日にどこに居て、何を感じたかの自分語りをします。
年を重ねるごとに「ジョンの死」に対する距離感が変化していく様も共感をおぼえました。
ドアーズもジャックスもバッドフィンガーもキンクスも、
「松村さんがどう好きか。どう衝撃を受けたか。」
を語る言葉によって興味をもちました。
当時はジャックスもバッドフィンガーも気軽に聴くことが出来なくて想像を膨らませました。あれも楽しかった。
ロックの原稿のはずなのに、落語の聞き方だったり、蕎麦の食べ方だったり、お酒の飲み方だったり、山口瞳だったり、居酒屋での作法だったり、プロレスのことだったりを語ってくれました。
若い頃、出かける時に読むものに困った時は、松村さんの本を持っていくことにしていたものです。「リザードキングの墓」「悲しい生活」あたりは何度読み返したかわからず、2冊ずつ持っています。
「それがどうした風が吹く」も好きだった。
収録の「二十歳の宴会がしたい」が大好きだった。
学生の頃、「物書きか編集者になりたい」ということを呪文のようにずっと言っていました。
これは間違いなく、松村さんの姿が頭にありました。
松村さんみたいな文章が書けるようになりたいと思っていました。
松村さんと会ったこと。
学生のころ、当時よくやっていた渋谷陽一とのトークライブにも足を運びました。キース・リチャードが表紙の「ロッキング・オン」に2人のサインをもらった時は興奮しました。
松村さんとお話しをしたこと。
(サイトで何度も書いていることですが、肝心の当日の日記が消えてしまっているのがくやしいです。)
2001年頃、早川義夫さんのバックを大阪の兄貴筋のバンド、ヰタセクスアリスが務めていた時期がありました。
確か南青山MANDALA。
開演前、Uさんが「今日、松村雄策さん来てますよ」と声を掛けてくれました。
当時リリースされたばかりの私のバンドの最初のアルバムを、私がファンということを知っていた、Uさんが松村さんに渡してくれていたという話を少し前に聞いていました。
ライブ後。
早川さんの唄に圧倒されてボーっとしている中、Uさんが、松村さんに私を紹介してくれました。
想像していたより、松村さんは背がとても高いことに驚きました。
「この間、CDをお渡ししたブランのアダチさんです。」
「あー、聴いたよ。下手くそだけどかっこいいね。」
「ありがとうございます!」
もう・・・天にも昇る気持ちでした。
その後、ヰタセクのメンバーから打ち上げにも誘っていただきました。
私の席の真前に、早川さんと、松村さんがいます。
ど緊張して、ほぼほぼ何も話せずひたすら酒を飲み、その勢いで、早川さんにジャックの幻の研究本「定本ジャックス」(白夜書房)にサインをお願いしました。
「なに、こんな本。捨てなさいよ。」と早川さん。
すかさず松村さんは「いやいや、これは我々のバイブルですよ。」
そんなやり取りも素敵でした。
松村さんの著作は残ります。
知り合いでも友達でも何でもないのだから、これからも松村さんの文章はいつでも読めます。
でもね・・・。
1999年リリースの「Yellow Submarine Songtrack」リリース時だったと思うのだけれど、それまで禁じ手のようにされていたビートルズ作品のリミックスに、
「2000年代のビートルズ。いいぞ、いいぞ、もっとやれ!」
という趣旨のことを書いていました。
だから、21世紀のビートルズに興奮する松村さんの文章をもっともっと読みたかった。
松村さんがどう感じたかを語って欲しかった。
それが叶わないと言うことが、一番残念です。
とてもさびしいです。
これまでたくさんの言葉をありがとうございました。
まだまだ語り尽くせません。