四谷大木戸「大国座」と伝説の映画興行師 小林喜三郎 ふたたび
数年をへだて、ここからの続きです。(【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】大国座と興行師・小林喜三郎の活躍)
明治、大正、昭和の時代に活躍した伝説の映画興行師、小林喜三郎が、われらが四谷大木戸に1917年(大正6年)の元旦にオープンした劇場「大国座」と深く関わっていたというお話。
それは、1654年(承応3年)から長年この地を見守ってきた理性寺が、1914年(大正3年)に現在の杉並区永福へ移転した跡地での出来事です。
「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)には、このような記載がありました。
大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であったが、余り手をひろげすぎて破産し、他の者に大国座を委ねてしまった。
これをきっかけに
「小林喜三郎とはなにものぞ!?」
と、2017年にその活動を追ってみたのですが、結論として、四谷大木戸「大国座」とのはっきりとした関係性の裏付けを得ることはかないませんでした。
よろしければ、そんなこんなはこちらから御覧ください(長文です)。
小林喜三郎(今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)掲載「肖像」より)
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ところがびっくり、数週間前に急展開が!(執筆日:2021年11月21日)
別資料からたどりついた「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年)の「第八部 古老談話」に、当時左門町に在住していた吉原東一郎氏の証言が掲載されていることを知りました。その中で大国座建設の経緯や変遷、そして小林喜三郎にも触れられています。
「大国座」は大正六年の元旦にこけら落し(初興行)をしたもので、その敷地は日蓮宗理性寺の跡であった。大正の初め頃、東京市が市内の寺院の郊外移転を奨励した時、理性寺は現在の杉並区永福町に移転し、その跡の墓地を除いた約一千六十坪を、日本橋の渡邊某という木綿問屋が一坪八円で払下げを受けて、当時有名な興行師小林喜三郎と提携し、渡邊が劇場を建てて小林がこれを借受け、二流芝居を興行する約束のもとに、その劇場建設を請負ったのが吉原さんの父一郎氏(だった)
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391)
つまり、当初の大国座立ち上げ時の関係者は下記であったということがわかります。
オーナー 日本橋の木綿問屋 渡邊某
借主・運営 小林喜三郎
建設請負 吉原一郎
しかし、事態はすぐに急変します。
引用を続けます。
大正五年九月から工事に掛かると間もなく、渡邊は本業の木綿の思惑に失敗して、破産状態になった。
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391)
これに困ったのは、吉原一郎。
すでに進んでいる工事を中止にして自らが損害をかぶるわけにはいきません。
吉原は、すぐに動きます。
知己の関係にある埼玉県の素封家船川文吾の出資を求め、渡邊から船川に一切の権利義務を肩替りさせて工事を完成した。これによって土地・建物は共に船川の名義となり、(中略)前記の通り小林喜三郎がこれを借受けて、翌六年の元旦から開業したのであった。吉原は船川に対する責任上差配を引受け(た)
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391)
ここについに下記の体制にて大国座がオープンします。
オーナー 船川文吾
管理人 吉原一郎
借主・運営 小林喜三郎
(大国座オープン当時のものと思われる写真だが撮影年不明。「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)掲載。「吉原千代子氏提供」とある。)
初期の大国座の出演俳優は次のような顔ぶれだったそうです。
岩井粂三郎、中村竹三郎、市川紅若、澤村傳次郎(現八代目訥子)、市川団右衛門、市川団之助、中村歌門等、二流歌舞伎の錚々たる腕達者揃いで、中にも傳次郎、歌門等の人気は物凄く、楽屋口に若い女がワンサと押掛ける有様は、現今の宝塚や松竹歌劇によく似ていた。
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391〜392)
好調なスタートを切ったように思われた大国座でありましたが、またもトラブルに見舞われます。今度は、他ならぬ小林喜三郎であります。それはオープンのその年、1917年(大正6年)の秋の出来事だったといいます。
その秋には突然小林が興行界を引退する破目に陥った。
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391)
一体小林の身に何があったのか。
資料は、小林をの経歴を紹介し、顛末を説明します。
小林は元来活動写真で成功した男で、撮影所を持ち、外国写真の輸入も扱い、浅草で二、三の活動館を経営した他、大正三年には連鎖劇を創始して、宮戸座の興行を始めたのを皮切りに、本郷座、演伎座、柳盛座改め中央劇場、大国座と、次第に劇場の経営まで手を広げ明治末年に一世を風靡したギャング映画「ジゴマ」に因んで、「日本ジゴマ」と仇名されたほどの辣腕家だが、余りに手を広げすぎた為か、あるいは金融関係の行詰まりか、ついに破産して一切の事業から退き、大国座ももちろん投げ出してしまったので、その後は引幕屋の大谷博という男が引受けて興行するうち、翌七年二月十八日に大国座は火災を起こして全焼した。
(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391)
つまり、小林喜三郎が大国座の興行に携わったのは、1917年(大正6年)の元旦から秋にかけての1年に満たない期間であったようです。
ちなみに小林が当時社会現象になるほど当てに当てた「ジゴマ」に関しては、下記で詳細に触れました。
[参考]映画「ジゴマ」と江戸川乱歩
また大国座は、1918年(大正7年)に2月18日に全焼しますが、この年6月8日に再オープンします。(「新宿区史 史料編」(新宿区役所・1956年) P391より)
さて。
1917年(大正6年)の秋に掛けて、小林喜三郎の身に何が起こったのか!?
根っからの映画興行師の小林喜三郎が、短い間であれ「二流芝居」とされる舞台をなぜ手掛けたのかが、やはりどうもしっくりこない。連鎖劇からの流れの事業拡大の一環だったのか、頼まれて断れなかったのか。
この時期の小林の動きを追いかけてみたいと改めて思った次第です。
また、片岡一郎「活動写真弁史」(共和国)によると、小林喜三郎も活動写真弁士出身で映画界に入ったようで、芸名もあって面白かったです。
小林喜三郎と映画界を詳細に追ったレポートに雑誌「映画論叢」(樹花舎)連載、冬樹薫「小林喜三郎と山川吉太郎」があります。2001年9月25日発行の第2号で「山川吉太郎と天活創立のころ」としてスタート、次の第3号(2002年2月14日発行)以降「小林喜三郎と山川吉太郎」と名を変えて続いて行きます。
横田商会、福宝堂、日活、天活、そして自身の会社小林商会を立ち上げる「一匹狼的性格」で映画興行師として暴れまくる小林の活動が詳細に描かれます。
この中で・・・ついに大正5年末に小林商会が大国座と賃貸契約を結んでいたという記述にたどり着きました!
画像は「映画論叢4」(樹花舎・2002年7月31日発行)連載「小林喜三郎と山川吉太郎3」(冬樹薫・著)より。
嗚呼、この経緯とその後の小林喜三郎に関して整理してまとめたい。
記録しておかなければ・・・。
誰も待ってないだろうけど。
・・・いや、でもやるんだよ!
(続く。予定です。)