はっぴいえんどは箱根アフロディーテに出演したのか(2021年8月8日追記)
●はっぴいえんどがピンク・フロイドと共演!?
雑誌「pen」No515(2021年4月1日号)の特集「大滝詠一に恋をして。」の活動年譜を眺めていて
1971年8月6日 『箱根アフロディーテ』(箱根芦ノ湖にて)に出演
という記述(P26)にはたと目が止まりました。
箱根アフロディーテといえば、ピンク・フロイドの初来日公演として伝説的なイベント。
日本初の本格的な野外ロックコンサートとされ、1971年8月6日と7日に開催されました。
両日、フロイドをメインに、海外から1910フルーツガム・カンパニー、バッフィー・セントメリーを招き、国内からは成毛滋 & つのだひろ 、モップス 、ハプニングス4+1、渡辺貞夫セクステット、菊池雅章クィンテット、佐藤充彦トリオ、かぐや姫、長谷川きよし、トワ・エ・モア、赤い鳥、本田路津子、ダーク・ダックスなどが出演したと伝えられています。
フロイドは、7日の2日目の音源が有名ですが、最近になって初日の音源が発掘されたとして話題になりました。
しかし、それにしても驚きました。
箱根アフロディーテにはっぴいえんどが出演していたという話は、全く馴染みがなく、どうも不思議な感覚をおぼえました。ウェブを通じて検索してみても、他に一切記録が見当たりませんでした。
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時期としては「風街ろまん」のリリースである11月20日の3ヶ月前。
確かに「All About Niagara」(白夜書房)の「大滝詠一&ナイアガラ活動年譜」の同日にも
『箱根アフロディーテ』(箱根芦ノ湖)※共演=ピンクフロイド、1910フルーツガム・カンパニー、成毛滋、ダーク・ダックス他」
と記載があります。
このイベントの主催はニッポン放送、協力としてテレビ静岡、東海ラジオ放送、ラジオ大阪、後援にフジテレビと放送メディアの名が連ねられています。
ピンク・フロイド出演の映像、写真などの記録は比較的容易に目にすることができます。
どこかにはっぴいえんど出演時の写真、録音、映像は残ってないのものでしょうか?
興味津々です。
●はっぴいえんどは大学サークルバンドより格下だった?
「サンケイスポーツ」1971年8月7日付記事には、前日開催の『箱根アフロディーテ』初日のレポートが掲載されています。
ステージはメインとなるAと「ちょっとひっこんだ谷間にもうけられている」Bの2つが設置され、記事中で日本のバンドの出演に関しては
ラフなスタイルでやってきた若者たちは、すわったり、ねっころがったりと思い思いのスタイルで日本のロック・グループ、フォーク・グループなどの歌と演奏を楽しむ。
という記述のみで、出演者の記載はフロイドをメインに海外勢のみでした。
さかのぼって、同じく「サンケイスポーツ」1971年8月5日付12面ラテ欄掲載の広告には
おまたせしました。いよいよ明日です。
のキャッチコピーで出演者の詳細が記載されています。
ここで、国内からの出演者としては、以下の20組が記載されています。
「成毛滋&つのだひろ、ハプニングス・フォー+i、モップス、渡辺貞夫セクステット、菊地雅章クインテット(8/6)、佐藤允彦トリオ、山下洋輔トリオ(8/7)、稲垣次郎とソウルメディア、ダーク・ダックス(8/6)、ハイソサエティ・オーケストラ(8/6)、ライト・ミュージック・ソサエティ(8/7)、ザ・カルア、トワ・エ・モワ(8/6)、赤い鳥、本田路津子、長谷川きよし(8/6)、南こうせつとかぐや姫(8/6)、グリーメン、北原早苗、尾崎紀世彦(8/7) and others」
ハイソサエティ・オーケストラは早稲田大学、ライト・ミュージック・ソサエティは慶應義塾大学のサークル名で、所属バンドが出演したということのようです。
もし本当にはっぴいえんどが出演したとすれば、当時開催前日のアナウンスをしても、大学サークルバンドより格下の「and others」のバンドだったということなのでしょうか?
それともはっぴいえんどの出演アナウンスができない他の事情があったのでしょうか?
●昼の出演でその日に中津川に向かった?
引き続き、他の資料を当たってみます。
1986年発刊の「定本 はっぴいえんど」(白夜書房/SFC音楽出版)掲載の活動年表の同日には、
『箱根アフロディーテ』(箱根芦の湖) 共演 ピンクフロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セントリー、成毛滋、モップス、渡辺貞夫、ダーク・ダックス 他多数(P317)
との記載が確認できます。
同書「歴史解説編」の中でも
8月6日、『箱根アフロディーテ』に出演したあと、翌日はっぴいえんどは、中津川の『第3回全日本フォークジャンボリー』に向って(原文ママ)いる。(P56)
大滝さんへのインタビューでも
それから8月6日に、元箱根、アフロディーテコンサートってのをやってますね。それから夜の12時、この日にアート音、音楽舎に集合して、7、8、9日のフォークジャンボリーに出かけました。(P137)
と触れられています。
アート音とは版権会社であるアート音楽出版、音楽舎はURCを発足した元高石事務所で70年1月に改称。1969年8月に2社の提携によりそれまで会員制でレコードを配布していたURCレコードは、広く市販する会社となりました。ともに社長は秦政明。当時事務所は原宿の東京セントラル・アパートにありました。(参照:URCレコード概説 ~URCは日本のインディーズの原点だった~)
これらの記述をまとめると・・・。
1971年8月6日に箱根アフロディーテ出演後、一度都内に戻り、夜の12時にフォークジャンボリー出演のため中津川に向かったということになります。箱根アフロディーテは正午開演だったので、はっぴいえんどの出演が昼の時間帯だったとするれば、一度東京に戻ってきて中津川に向かうのは決して無理ではないということになります。
しかし、なぜ箱根から都内に一度戻る必要があったのかはわかりませんが・・・。
それにしても・・・。
これまでみてきたはっぴいえんどの箱根アフロディーテ出演の記述は、大滝さんの記録、証言、もしくはそれを拠り所にしたもの『だけ』と思われ、他の視点や客観的な記録、証言が見つけられていません。
これは何故でしょうか?
単に大滝さんだけが記録魔だったということ?
もう少し深堀りしてみます。
●ロック幻想の分岐点である「象徴的な『事件』」だった。
さて、ここで少し視点を変えてみることにします。
はっぴいえんどが箱根アフロディーテに出演したとされる1971年8月6日の翌日から開催された中津川フォークジャンボリーへの出演に関する記述を見てみます。
再び「定本 はっぴいえんど」(白夜書房/SFC音楽出版)から引きます。
はっぴいえんどは、まず1日目の夜にサブステージに登場している。前年と打って変って、大いに盛り上がり、アンコールが起き、『かくれんぼ』をやっている。そして2日目の夜も安田南の後にメイン・ステージで演奏する予定で、松本のドラムセットもすでにセッティングされていた。ところが、ジャンボリーの運営方法に不満を抱いていたグループが、安田南のステージになだれ込み、ステージを占拠してしまった。そのとき、松本のドラム・セットは後かた(原文ママ)もなかった。その後、ステージでは、延々と『討論会』が続き、はっぴいえんどのステージは、だめになっている。(P56〜57)
初日の演奏は「はっぴいえんど LIVE ON STAGE」をはじめ、オフィシャル音源で聴くことができます。
また2日目のステージ占拠の様子はこちらでうかがい知ることができます。
この1971年中津川フォークジャンボリー2日目のステージ占拠事件は有名なエピソードで、「はっぴいえんど伝説」(萩原健太・著/シンコーミュージック/文庫版)でも、1960年代後半の学生運動の高まりや音楽に対する幻想の分岐点である「象徴的な『事件』」(P64)として取り上げられています。
メイン・ステージでは、安田南が歌っていた。はっぴいえんどは、安田南の次に出演する予定。ステージ上には松本隆のドラムがすでにセットしてあった。そのとき、サブ・ステージ上では、吉田拓郎が、前述したようなテレビあるいはレコード会社といった商業主義の乱入(注・イベントの模様が2つのレコード会社によってライブ・レコーディングされていたこと、会場内にテレビ・カメラも持ち込まれていたこと)に対し、さかんにアジっていた。それが直後の引き金となって、暴動が起こった。(中略)暴動。ステージ占拠。そして安田南の歌を中断する形で、討論会が始まった。松本隆のドラムは、あとかたもなく消えていたという。(P65)
萩原健太氏はこの当時のムードを次のように書いています。
すでに各地の大学紛争はほぼ収束。70年安保闘争の完全敗北も時代に大きな暗い影を投げかけていた。あれほど誰もがヒステリックに燃え上がっているように見えた60年代後半の日々も、もう遠い昔になってしまった。(中略)60年代への未練が創りあげた幻想だったのだろう。あの時代の熱気をもう一度取り戻したいというはかない試みだったのだろう。(P67)
そして、この時代のムードに関して、中津川フォークジャンボリーでのステージ占拠事件と並べて箱根アフロディーテに触れているのです。
ほぼ同時期に、箱根芦ノ湖畔で開かれた大フェスティバル「ハコネ・アフロディーテ」(海外からピンク・フロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィ・セントメリーらが出演)でも、日本側からの出演者、本田路津子、赤い鳥などのステージに対して、「軟弱だ」と客席から投石があいついだ。各地のコンサート会場で、「帰れ、帰れ」とシュプレヒコールがこだましはじめたのもこのころだった。(P66〜67)
しかし、ここでの記述は、飽くまで時代のムードの象徴としてのもので、決して箱根アフロディーテにはっぴいえんどが出演したことを指してはいないように読めます。
一方、大滝さんの記録や発言があります。
はっぴいえんどの歴史をひもとくにあたって、この時、健太さんは、箱根アフロディーテへの出演の有無をどう認識していたのでしょうか。
とてもとても気になります。
●はっぴいえんどは事前告知なしでサブステージに出演した?
続いて、箱根アフロディーテのステージに関して注目してみます。
ステージは、A、Bと二つ設置され、雨にも突風にもたえられるようながんじような作りだ。Aステージは間口二七メートル、奥行一二・六メートル、高さ二・七メートルで山の頂に、Bステージは、それより少し小さく、ちょっとひっこんだ谷間にもうけられてある。
(「サンケイスポーツ」1971年8月7日付)
午後1時から正面のメインステージと、谷側に設置されたサブ・ステージで
(「音楽専科」1971年9月号:金森さん提供資料)
また、音楽評論家の田家秀樹氏のブログには
メインステージとサブステージがあったんですよ。メインは高原の平地、サブは、窪地の底。谷底のステージみたいでしたね。メインはピンクフロイドとか1910フルーツガムカンパニー、バフィーセントメリーと言った人たち。ま、洋楽メインでした。
高中さんやモップス(も出てたと思いますけど)、なんかはサブステージ。明らかに扱いが違った。
(「71年、箱根アフロディーテ。」)
とあります。
ここから、箱根アフロディーテの舞台は、フロイドらが出演したメインのAステージと、離れたBステージがあったということがわかります。
また箱根アフロディーテの研究サイトで会場地図を見つけました。
メインステージは「山ステージ」、サブステージは「谷ステージ」と記載されています。
「サブは、窪地の底。谷底のステージみたい」「明らかに扱いが違った」と田家秀樹氏の記述にありますが、一方で「でも、僕はサブステージの方に感動したんですよ。ロックイベントぽかったのかな。」ともあります。
この件に関して、「はっぴいえんど伝説」(シンコーミュージック/文庫版)の著者、萩原健太さんからもTwitterを通じて貴重なコメントを頂戴しました。
6日、僕はだいぶ遅れて会場入り。しかも山ステージと谷ステージを行き来する間にかなりを見逃してます。ピンク・フロイドすら途中まで・・・みたいな(笑)。
そして、はっぴいえんどの出演に関しては、
当時のコンサートの常でアフロディーテにも事前告知なしの面々がけっこう出てました。だから、僕は見ていませんがはっぴいえんども出たかも。
という証言もいただきました。健太さん、ありがとうございます!
ショーは、午後零時三十分から。日本で初めての野外ロック・コンサートは、開演ベルに代わって景気のいい花火で幕をあける。
(サンケイスポーツ 1971年8月7日付)
つまり・・・。
はっぴいえんどは、事前告知なしで、健太さんが会場入りする前の早い時間帯に、しかも詳細な記録が残っていないサブステージ(谷ステージ/Bステージ)での出演をしたという可能性はないでしょうか。
これなら「定本 はっぴいえんど」(白夜書房/SFC音楽出版)の大滝さんへのインタビューにあった
それから8月6日に、元箱根、アフロディーテコンサートってのをやってますね。それから夜の12時、この日にアート音、音楽舎に集合して、7、8、9日のフォークジャンボリーに出かけました。(P137)
とも辻褄が合うように思いました。
続いて萩原健太さんから
なにやら、当時のオールナイトニッポンの会報に、はっぴいえんどがアフロディーテに出たという記載があるらしいですよ。とはいえ、現物は見つからず、ぼくは確かめられていませんが…(笑)。
箱根アフロディーテの主催はニッポン放送です。
はて、「オールナイトニッポンの会報」とは?
と検索したところ、ニッポン放送のサイト「俺たちのオールナイトニッポン 40th Anniversarry」に「幻のベストセラー『ビバ・ヤング』」として
「1968年9月から発行され、5ヶ月分の郵送手数料として150円分の切手を送ると 毎月1回送られるオールナイト・ニッポンの会報誌。」との記載がありました。
「ビバ・ヤング」の1971年9月号 No.38の表紙を見ると、紛れもなく箱根アフロディーテの写真です。
ここに詳細なレポートがあるかも・・・・古書店サイトに在庫を発見し、早速発注をしました。
また、箱根アフロディーテのフライヤーのなかなかの高解像度データをTwitterで見つけました。
裏面に会場地図のイラストが載っていて、これを細かく見てみたかったのです。
メインステージ(Aステージ/山ステージ)には、
このステージでピンク・フロイドがキミにセマルノダ! カンゲキ〜!
サブステージ(Bステージ/谷ステージ)には、
未来のプロ達の為のステージ
と記載があります。
「はっぴいえんどが、事前告知なしで(萩原)健太さんが会場入りする前の早い時間帯に、しかも詳細な記録が残っていないサブステージ(谷ステージ/Bステージ)での出演をしたという可能性はないでしょうか。」と仮説を立てましたが、当時すでにセカンドの「風街ろまん」のレコーディングに入っていたはっぴいえんどと「未来のプロ達」という言葉は、どうも釣り合わない気がしますが・・・果たして。
当時の皮膚感覚でのはっぴいえんどの認知度がどのようなものだったのか知りたいところです。
●雑誌記事レポートから出演のしっぽをつかむ
では、当時の雑誌記事から、メインステージ(Aステージ/山ステージ)、サブステージ(Bステージ/谷ステージ)それぞれの出演が確認できる記述を集めてみます。
日本のグループは別にどうということもない。チャンネルをひねればどこかで見られる人達ばかりだ。北原早苗、グリーンメン、南こうせつとかぐや姫、本田路津子、トワ・エ・モア、長谷川きよし、赤い鳥、ダーク・ダックス。(出演順)むしろ、テレビやラジオという時間の制約の中では、その実力を充分に発揮できないロック系のグループを聞きに谷ステージに行くべきだったのかもしれない。
(「新譜ジャーナル」1971年10月号「血のたぎるような生命感が・・・」東理夫・ P23)
記事中「谷ステージに行くべきだったのかもしれない」とあり、そして以前紹介した「サンケイスポーツ」の広告から南こうせつとかぐや姫、トワ・エ・モア、長谷川きよし、ダーク・ダックスは8月6日のみの出演であったことがわかるので、これは初日のメインステージの出演者であることがわかります。
続いて。
8月6日、7日の両日を通じてロック&ジャズ・ファンに圧倒的に受けたのはBステージ。ピンク・フロイドの面々が、かつてお目にかかったこともないベリー・グッドのステージと絶賛したメイン・ステージとくらべたら、ほんの猫の額ほどのスモール・ステージではあったが、数千人の熱心な聴衆を前に、佐藤允彦トリオ、稲垣次郎とソウル・メディア、山下洋輔トリオ、ハプニングス・フォー+ワン、成毛滋&つのだひろ、菊池雅章クインテット、等の熱演が正午から3時間余りにわたってくりひろげられた。
(「VIVA YOUNG」No.38 1971年9月号「GFRとピンク・フロイドの間」木崎義二・P20)
これは、8月6日のみ出演の菊池雅章クインテット、8月7日のみ出演の山下洋輔トリオがともに記載されていることから、両日のサブステージの出演者を記載しているのでしょう。
8月6日正午『箱根アフロディーテ・コンサート』開幕。(中略)メーン・ステージに、次々登場する尾崎紀世彦クン、本田路津子チャンなど、ややもすると場違いな歌い手サンたち。(中略)午後六時過ぎ、霧にけむるメーン・ステージに、ピンク・フロイド登場
(「平凡パンチ」1971年8月23日号「パンチ野郎の目<ピンク・フロイド箱根公演にて>」P6〜7)
事前広告では8月7日のみ出演とある尾崎紀世彦がのレポートに登場し「?」なところあり。
続けます。
箱根アフロディーテは、広島でのこの騒ぎが落着いたころ(原文ママ)始まった。(注・1971年8月6日当日、広島で被爆26周年を迎えた平和祈念式典が行われ、初めて現職総理大臣(佐藤栄作)が出席。)定刻より30分ほど遅れていた。まず糸居五郎の司会、今日は原爆記念日であることを告げ、拍手をよびかけた。(中略)ステージは3時半まで、山ステージと谷ステージに分かれて行われることになった。山ステージはフォークとジャズが中心、谷ステージはロックが中心である。もちろんメインステージは山ステージ。お目当てのピンク・フロイドをはじめ、バッフィー・セントメリー、1910フルーツガム・カンパニーは山ステージ。それらは3時半移行の統一ステージで行われる。
(「宣伝会議」1971年10月号「シラケ時代の文化論<8>箱根アフロディーテ始末記」藤竹暁・P101)
ここから、サブステージでの演奏は、開演から3時半までの間であったことがわかりました。
改めての確認ですが、海外勢の3組はメインステージでの出演です。
同じ記事から続けます。
谷ステージの最初の演奏はザ・カルアであった。観客はいっこうにノラない。数曲やって、これが私たちの最後のステージですと女性ボーカルがいうと、はじめて大きな拍手がわき、みんながどっと笑った。それは『やっと終わるのかよかった』という拍手であった。」(P103)
これで、初日の谷ステージの最初の出演がザ・カルアであったことがわかりました。
このザ・カルア、慶應義塾大学の同名サークル所属の学生バンドで、「朝陽のスキャット」というシングルが後年『70年代の和製ソフトロックの最高峰』として再評価されています(@slo 情報提供感謝!)。
同じ記事から2日目、8月7日のレポートを見ていきます。
第2日目。(中略)3時半ごろから、谷ステージのモップスの演奏でノリにノッてきた。(P104)
あれ?
サブステージでの演奏は、開演から3時半まででなかったの?
同じ記事のレポートなのに矛盾なのか、初日と2日目でタイムテーブルが違ったのか不思議な記述があります。
山ステージではナベサダが、前日に比べるとビートのきいたものを演奏しているが、こちら側はノラない。(P104)
「前日に比べると」との記述があるので、渡辺貞夫の出演は両日ともにメインステージであったと思われます。
渡辺貞夫の演奏に関しては、前述の「平凡パンチ」の記事で
ナベサダこと『渡辺貞夫クインテッド』の演奏がはじまると、熱狂した女性ファンが三人も、舞台のすぐ近くに走りよって、カッコよくもパンティ一枚。なかの一人は全裸になって踊り出した。
(「平凡パンチ」1971年8月23日号「ピンク・フロイド箱根公演にオレは<陰謀>と<幻滅>を見た!!」P7〜8)
ともあるので、反応の評価はブレます。
そして決定打は、Twitterでよっしー part IIさん(@TAKRL)からご教示いただいた「ミュージックライフ」1971年9月号の記事「来日速報 箱根アフロディーテのピンク・フロイド」に掲載されている出演者総リストです。
ここにもはっぴいえんどの名前はありませんでした。
また、萩原健太さんからは
ちなみにその昔、大滝さんに当時のことを事細かに伺った際、様々な場所でのライヴ話が出ましたが箱根のことは何ひとつ話題に上りませんでした。んー、謎ですね。
●大滝さんは箱根アフロディーテを「観に行った」?
さて・・・。
結論として、箱根アフロディーテへのはっぴいえんどの出演の事実は残念ながら確認できませんでした。
あの記録魔の大滝詠一さんが残した
『箱根アフロディーテ』(箱根芦ノ湖)※共演=ピンクフロイド、1910フルーツガム・カンパニー成毛滋、ダーク・ダックス他
という記録の真意は一体・・・・。
こうなると、改めて大滝さんは箱根にイベントを「観に行った」という説が俄然信憑性を帯びてくるのでしょうか?
のちのインタビューで「8月6日に、元箱根、アフロディーテコンサートってのをやってますね。」と発言してるのは、単に記憶違いという可能性も??
ちょっとわかりませんが・・・。
また大滝さんから解けないなぞなぞをいただいたことを確認して、一度結論とさせていただきます。
ちょっとくやしいです。
【追記】2021年4月10日
情報を発信すると、ありがたくも新たな情報が集まるもので・・・。
Facebookを通じて、箱根アフロディーテの約10日前に「1971/07/28 はっぴいえんど、ニッポン放送『ビバ・ヤング オールナイト・ニッポン』公開録音に出演。札幌/STBホール。」との記録が細野さんの研究サイトにあるというお話が。
確認してみると「All About Niagara」(白夜書房)の「大滝詠一&ナイアガラ活動年譜」の同日にも「札幌STBホールでニッポン放送『ビバ・ヤングオールナイトニッポン』公録」との記録があります。
箱根アフロディーテの主催はニッポン放送です。
これは何かの符合なのでしょうか・・・。
【追記】2021年7月17日
雑誌「エリス」第33号(2021年7月15日発行)の巻頭特集「はっぴいえんどの名作『風街ろまん』を松本隆が語る!」にて元「ニューミュージック・マガジン」編集者で音楽評論家の北中正和によるインタビューで、松本隆が「はっぴいえんど 『箱根アフロディーテ』出演有無問題」に関して触れておりました。
ーー(「定本はっぴいえんど」の年表によると)8月6日には「箱根アフロディーテ」とありますが、それにも出たんですか。
松本 それはツイッターでも議論になっていたみたい。『定本』は大滝さんの日記に基づいていると思うけと、ぼくは行った記憶がないんだ。たぶん大滝さんは『箱根アフロディーテ』でピンク・フロイドが観たかったからメモしておいたんじゃないかという気がする。その後の中津川は僕も細野さんもそれぞれ現地で合流したから。
(中略)
松本 ぼくはその前は軽井沢にいた。だから、「箱根アフロディーテ」の出演記録にも残っていないはず。
ーーぼくの記憶にも残っていないから、ヘンだなと思っていたんです。
いやいや。
「ツイッターで議論」にも話題にもなってなくて、それこそホントひとりで騒いでただけなので、思わず何とも恥ずかしい気持ちなりました。
そして、そもそも松本さんに記憶がないんだから、やはりはっぴいえんどの「箱根アフロディーテ」出演はなかったのかなという思いを強くしました。
で。
記録も音源も詳細に残っている8月7日からの中津川の『第3回全日本フォークジャンボリー』出演に向けた現地への移動に関しても、松本さんは今回のインタビューで
「ぼくはその前は軽井沢にいた」
「中津川は僕も細野さんもそれぞれ現地で合流したから」
と発言しています。
さて、改めまして・・・。
「定本はっぴいえんど」の年表や大滝さんのインタビューでは
8月6日、『箱根アフロディーテ』に出演したあと、翌日はっぴいえんどは、中津川の『第3回全日本フォークジャンボリー』に向って(原文ママ)いる。(P56)
それから8月6日に、元箱根、アフロディーテコンサートってのをやってますね。それから夜の12時、この日にアート音、音楽舎に集合して、7、8、9日のフォークジャンボリーに出かけました。(大滝詠一・P137)
とあります。
この記述から、アート音、音楽舎に集合してはっぴいえんどのメンバーが一緒に移動したという受け止め方をついついしてしまいますが、真実は
「大滝さんとスタッフ(+茂さん)が集合して中津川に移動した。松本さんと細野さんは現地で合流した」
ということなのかもしれません。
楽しいですね。
そんな箱根アフロディーテから間もなく50年です。
【追記】2021年8月9日
遅ればせながら。
いやぁ、予想以上に濃い内容でした。
ニッポン放送「伝説の箱根アフロディーテから50年~ピンク・フロイド貴重音源、奇跡の発掘~」
オープニングは糸居五郎先生によるフロイドのチューニング中のMCで、エンディングは演奏曲紹介。
しかも初日の8月6日記録!
番組のメインの進行は、山ステージ(メインステージ)で当時ニッポン放送にて制作進行・舞台監督を担当した亀渕昭信。
亀渕氏は大滝詠一とも親交が深い人物。2つのステージの出演者についても何度か詳細に触れますが、やはりそこにはっぴいえんどの名前はなし。
まぁ、つまり。これが決定打の結論でしょう。
「はっぴいえんどは箱根アフロディーテに出演しなかった」と。
しかし。当時ニッポン放送制作部副部長で箱根アフロディーテ制作総合プロデューサーだった佐々光紀の証言「オーバーブッキングで苦肉の策で谷ステージ(サブステージ)を設けた」という話はとても興味深く感じました。当時ニッポン放送の生放送の音楽番組に出演していた演者に手当り次第出演をオファーしたといいます。
その中にはっぴいえんどがあったという可能性は完全にゼロではないように思いました。
はっぴいえんど側に出演のオファーがあり、大滝さんなど一部メンバーに伝えられたが、最終的にボツになったのでは? と。
大滝メモと発言は、単に「ピンク・フロイドを箱根に観に行った」もしくは「観に行こうとしていた」という記録としてはどうもつじつまが合わないように思えてならないのです。
(しつこいですねぇ・・。)