アダチ龍光:サイン発掘と故郷への鐘寄進の時期特定 その3

「新潟日報」2004年6月20日付
先日から懸案事項となっておりました
「アダチ龍光、鐘の寄進を巡る1970年/1975年問題」。
様々な資料や証言の辻褄がどうしても合わず、途方に暮れておりました。
もうこれはもう直接お寺に聞くしかない・・・。
というわけで、10日ほど前に龍光の実家である多宝寺の現住職真任さんに、今回の経緯と疑問点をまとめお手紙をお送りしました。
住職にご連絡するのは、NHKの番組への協力で天覧奇術の模様を録音したカセットテープのありかをおうかがいした2004年10月以来。
遠縁とはいえ、会ったこともない人物から文字ギッシリの分厚い封書が届いたら、びっくりされるだろうなぁ・・・と思いつつ・・・約1週間後の2018年3月3日、住職とお電話でお話することが出来ました。
住職、大変ご無沙汰をしておりました。
真実は非常に非常にシンプルでありました。
確実にウラが取れていた1975年5月25日の鹿瀬小学校創立100周年の記念式典出演と龍光の帰省に間違いはなく、そして今回発掘された1970年7月23日の日付入りの「妙法山多宝寺 再鋳迎鐘記念」とした龍光サインは、紛れもなくこの時お寺に鐘が寄進されたことを証明するものでした。
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1970年7月23日のこの時、迎鐘記念の式典と龍光の父親(真任住職と私のひいおじいさん)である天龍和尚の50回忌法要が行われ、ここに龍光も出席、お寺で行われた法要後の会食の席では、檀家の方などたくさんの人の前で奇術を披露したということでした。
この時の集合写真も残っているとか。
つまり、なぜか同時期のことのように語られていた鐘の寄進と鹿瀬小学校創立100周年記念式典出演は、やはり5年の年を隔てた出来事であったことが証明されました。
当たり前ではありますが、1970年の迎鐘記念の際には、鐘が多宝寺にあったということも住職から確認出来ました。
でも、しつこいですが・・・。
「慶事は重なるのであろうか。鐘ができた年は即ち、龍光師卒業の小学校が創立百年を迎えた年でもあった。」
(「小説新潮」1976年9月号 石堂淑朗「われは八方破れ人間」第9回「手品の守護神」)
「お寺に鐘を寄贈して、鹿瀬の小学校に手品をしに来たことがあって、その時に鹿瀬のお寺で会ったことははっきり覚えてます。」
(2016年9月龍光の弟でお寺を継いだ天真和尚の長女の娘さんの証言)
鐘の寄進と鹿瀬小学校創立100周年記念式典出演が同じ時期の出来事として記憶されているのは何故なんでしょうか。
それほど人の記憶とは曖昧なものなのでしょうか・・・。
ここはとても不思議に感じます。
龍光が「実家から足が遠のいていた」「上京以降3回しか帰省したことがなかった」というのもやはり伝説のお話であって、
「戦後は地元の鹿瀬にあった映画館兼演芸場のようなところに浅草の芸人とともに出演し、しょっちゅう帰って来てた。」
というお話もおうかがいできました。
あと気になった話題では・・・。
・最近「新潟日報」から新潟のソウルフードに関して取材を受け、龍光が取り上げられた。
→これは記事を見たいです!・龍光の弟子のアダチ光一が、20年ほど前の夏にふらっと来たことがあった。これが光一に会った最後だった。
→アダチ光一さんの消息、知りたいです!・数年前に龍光関連の方で70代くらいの方が2〜3人でお寺に来た。あれは貴方じゃなかったんですね。
→えーー!? それは一体誰でしょうか? 龍光さんとどんな関係の方!?
住職、ありがとうございました。
近々必ずやおうかがいしたいです!
そんなこんなを「アダチ龍光 年表wiki」でも更新いたします。