アダチ龍光:サイン発掘と故郷への鐘寄進の時期特定 その2
1970年7月23日の日付入りの「妙法山多宝寺 再鋳迎鐘記念」としたサインの発掘で、数日前からにわかに盛り上がっている、アダチ龍光さんが実家のお寺に鐘を寄進したお話。
「つ、ついにその時期の特定が出来たのでは?」
と胸は高まりまくるわけでございます。
・龍光が手品グッズのギャラでお寺に鐘を寄進したのは1970年7月23日なのか?
・「実家から足が遠のいていた」とされる龍光は、1970年7月23日には実家のお寺に帰っており、そこでこのサインを書いたのか?
さて・・・。
「小説新潮」1976年9月号に掲載された、脚本家の石堂淑朗のよる連載「われは八方破れ人間」の9回目で「手品の守護神」と題して龍光が取り上げられています。
(横尾忠則による似顔絵もまた実に味わい深い!)
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かなり時間を掛けて、密に龍光から話を聞いたことがうかがえる内容で、語られるバイオグラフィには、ここでしか読んだことがないエピソードもたくさんあります。
この中で、くだんのお寺の鐘について詳細に言及したくだりがあります。
小学校はお寺のすぐ近くにあった。昼飯は弁当ではなく、食べに帰る。そして、お父さんの命令で、正午を報せる鐘をつくのが習いであった。
その頃、時計があるのは、村役場と駐在所くらいのものであったから、村人たちは、後年の名奇術師のつく鐘の音を聞いて、さあ、メシにすべえかと仕事の手を休めたのであった。
「お父さん」とは、多宝寺第19代住職阿達天龍。
私(著者)のひいお祖父さんであります。
ここにある小学校とは鹿瀬小学校(現・阿賀町立鹿瀬小学校)。
その距離をgoogleで調べてみると・・・あれ?「徒歩26分」??
これでは「小学校はお寺のすぐ近くにあった」との記述とかけ離れてしまいます。
そこで、阿賀町立鹿瀬小学校のウェブサイトで沿革をみると・・・。
明治7 津川小学校分校鹿瀬校(福島県東蒲原郡鹿瀬村)として多宝寺領内に設置される。(児童数32名)
なんと! 鹿瀬小学校は創設時、龍光の実家の多宝寺の中にあったとあります。
へーーー。なるほど納得。
では、「小説新潮」の記事に戻ります。
次に、どうして龍光が「再鋳迎鐘」するまで鐘がお寺から無くなっていたのかに関しては、次の記述がありました。
このなつかしの鐘、ご多分に洩れず、戦争中に供出で無くなってしまった。
これは、
戦時中の1941年、鉄や銅など、銃や砲弾に使う戦略物資の不足を補うため、政府が公布した。家庭のなべや寺院の釣り鐘などが供出された。
(「コトバンク」より)
とする「金属類回収令」によるものでしょう。
つまり戦時中に多宝寺の鐘は没収されてしまったのです。
以来、帰郷のたびに龍光師はわびしい思いに身をつまされることになる。肝心のぶら下がっているもののないほど無意味なものもない。
はて。
「帰郷のたびに」とするほど、龍光が実家に帰ることがあったのか・・・。
繰り返しになりますが龍光と密に交流のあった和妻師の藤山新太郎氏からは
「龍光さんは上京後、実家には3回しか帰っていないと聞いている」
というお話を聞いたことがあります。
しかし実際のところ3回というのは少々極端で、私が確認出来ているのは
・1914年(大正3年/18歳)の上京挫折
・1923年(大正12年/27歳)関東大震災の被災で1ヶ月間実家へに帰る
・1925年(大正14年/29歳)1月7日に新年初日を迎える新潟劇場に出演し、実家に6日間滞在
・1944年(昭和19年/48歳)空襲で家を焼かれ疎開
・1975年(昭和50年/79歳)5月25日(日) 母校である鹿瀬小学校の創立100周年記念式典で手品を披露
の5回。
そして今回の龍光のサインにある「1970年7月23日」という日付が、もし実家の多宝寺で書かれたものであるのだとしたら、これはまさに新事実となるのであります。
「帰郷のたびに龍光師はわびしい思いに身をつまされることになる。」
の記述は少々創作が入っているのではないかと察しますが、いかがでしょうか。
そしていよいよ「小説新潮」の記事は、鐘の寄進の経緯に触れます。
そこには、ヒットした龍光監修の手品グッズのギャラから、鐘を作るのに掛かった費用、そして徴収された税金の金額まで触れられていました。
折りもよし、つい先年、ある玩具メーカーがアダチ龍光監修の手品セットを売り出し、その名義料が七百五十万入った。
よし、これはアブク銭である。ひとつ、鐘を寄進しよう、ということになった。
京都で作った。三百五十万かかった。
慶事は重なるのであろうか。鐘ができた年は即ち、龍光師卒業の小学校が創立百年を迎えた年でもあった。
何しろまとまって七百五十万あるのだ。気が大きくなっている。小学校の関係者一同をお寺に招待し、一大宴会をひらいた。
そして、龍光師は百年を祝って鐘を百回鳴らしたのであった。興至り、あやうく百を越えようとしたが、除夜の鐘ではないのだからといわれて、はっと我に返った。
禍福はこれあざなえる縄の如し、七百五十万みな費ったあとで、税金の季節になった。臨時収入というわけか、いつもより四百万多くとられ、鐘の代金と〆て七百五十万ぴったり。
別に都民税が百万。この百万がこの年丸丸赤字になり、夫人はなけなしの貯金をはたいて心臓を悪くされた。
おー! これは詳細ですごい。
・・・と感心すると同時に、「おや?」と首をひねる部分がいくつかあります。
まず、手品セットの監修料750万が入り、鐘を作った年と鹿瀬小学校創立100周年が同じ年(「つい先年」)の1975年の出来事として語られています。
・・・となるとサインにある「1970年7月23日」の日付は一体? ということになります。
鹿瀬小学校創立100周年は、阿賀町立鹿瀬小学校のウェブサイトにある沿革に昭和50年(1975年)とあり、また、龍光が1975年5月25日に記念式典で奇術を披露する写真も残っていますので(「新潟日報」2004年6月20日付)、この年に間違いはありません。
龍光が、そのギャラで鐘を作ることを思いついた
「ある玩具メーカーがアダチ龍光監修の手品セットを売り出し」
とは「エポック社マジックシリーズ」のことでしょう。
2010年にエポック社お客様サービスセンターに問合せた時に得たコメントでは、このシリーズは1970年に発売が開始されたものであるということがわかっています。
この時に提供いただいた当時の広告原稿には
「でっかく行こう! エポック社’70-’71 ジャンボ11」
というキャッチフレーズが確認できます。
やはり、今回発掘された1970年7月23日の日付入りの「妙法山多宝 再鋳迎鐘記念」と記された龍光のサインが存在する以上、1970年に発売された「エポック社マジックシリーズ」の名義料で、同じ年(1970年)に鐘を作って寄進したとするのが自然のように思われるのですが・・・。
そして、もうひとつここで引っかかりが出てきます。
前述の「新潟日報」2004年6月20日付の中に、
「子供向け奇術25種」を発刊、大いに売れた。このカネで飛び出したことへの罪滅ぼしなのか、実家に大釣り鐘を寄贈。
「子供向け奇術25種」という耳にしたことのない商品名が登場します。
「エポック社マジックシリーズ」以外に龍光監修のマジックグッズが存在したのか・・・・?
ひとまずここでは、疑問点を洗い出すことにとどめておきます。
次に、お金の話に関しても見て行きましょう。
<収入>
手品セットの名義料が 750万<支出>
鐘の製作費が 350万
所得税が 400万(例年より多かった)
都民税が 100万
これで、100万円の赤字。
で、
「夫人はなけなしの貯金をはたいて心臓を悪くされた」
ということは「借金して税金を払った」というのは脚色された伝説だったのですね。
ま、借金せずによかったよかった。
・・・・い、いや。
この文章をよーく読んでみると、どうも不自然なのです。
今一度経緯に沿って見て行きます。
<収入>
手品セットの名義料 750万<支出>
鐘の製作費 350万
このあと
「何しろまとまって七百五十万あるのだ。気が大きくなっている。小学校の関係者一同をお寺に招待し、一大宴会をひらいた。」
とあります。
ここで、いくばくかの支出が発生しているはずです。
そしてしばらく時を経て
「七百五十万みな費ったあとで、税金の季節になった。」
とあります。
この時点で、収支はゼロとなっているのです。
そして徴収された税金が
<支出>
所得税 400万(例年より多かった)
都民税 100万
ですので、龍光は、この年500万円の赤字となったとも読み取れます。
まぁ・・・。
細かいことは良しとするにして・・・おそらく大枠で掛かった金額はこんな感じだったのでしょう。
ただおそらく、1970年の出来事と、1975年の出来事がごっちゃになって語られているので、細かいところで辻褄が合わなくなっているのではないでしょうか。
取材当時79歳になる龍光の記憶も曖昧だったのでは・・・と思いつつ・・・い、いやいや、待て待て。
もしこれが、龍光が自身の数十年前の出来事を振り返ったのだったらまだしも、この前年にあったお話です。間に5年の隔たりのある出来事を一緒くたにして果たして語るものでしょうか?
わからなくなって来ました。
1970年7月23日の日付入りの「妙法山多宝寺 再鋳迎鐘記念」とした龍光のサインの発掘が、本当に意味していることとは一体何なのでしょうか?
嗚呼、謎は深まるばかりなのであります。
【追記】2018.2.23
過去の記事を読み返していたところ、2年前にアダチ龍光さんの弟でお寺を継いだ天真和尚の長女の娘さんに会いに行った時、
「お寺に鐘を寄贈して、鹿瀬の小学校に手品をしに来たことがあって、その時に鹿瀬のお寺で会ったことははっきり覚えてます。」
というコメントを得ていました。
やはり1975年5月の鹿瀬小学校創立100周年記念と鐘の寄進は同タイミングで記憶されている・・・。
ではあのサインの日付は一体・・・・嗚呼、謎だ。わかんない。
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