アダチ龍光:貴重なサイン発掘と故郷への鐘寄進の時期特定

すごいぞ、アダチ身内ネットワーク!
なんと、アダチ龍光さんの名(迷)エピソード
ある時、龍光さん監修の手品グッズが大ヒットし、儲かったギャラで実家のお寺に鐘を寄進をした。
まさに「故郷に錦」かと思いきや、その後税金が徴収され、払いきれず借金を作った。
の時期を特定する貴重な資料が発掘されました。
1970年7月23日と日付入りの「妙法山多宝寺 再鋳迎鐘記念」とした龍光さんのサインであります。
「龍光さん監修の手品グッズが大ヒット」に当たると思われる、「エポック社マジックシリーズ」の発売は1970年(ここに詳しく書きました)、で、鐘の寄進が同じく1970年ということは、ギャラは前払いだったということでしょうか。


そして、もうひとつ気になるのは、このサインは一体どこで書かれたものなのかということ。
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・・・自然に考えると龍光さんが新潟の実家のお寺に帰って書いたということなのでしょうが、龍光さんと密に交流のあった和妻師の藤山新太郎氏とお会いした際、
「龍光さんは上京後、実家には3回しか帰っていないと聞いている」
というお話を聞いたことがあります。
しかし実際のところ3回というのは少々極端で、私が確認出来ているのは
・1914年(大正3年/18歳)の上京挫折
・1923年(大正12年/27歳)関東大震災の被災で1ヶ月間実家へに帰る
・1925年(大正14年/29歳)1月7日に新年初日を迎える新潟劇場に出演し、実家に6日間滞在
・1944年(昭和19年/48歳)空襲で家を焼かれ疎開
・1975年(昭和50年/79歳)5月25日(日) 母校である鹿瀬小学校の創立100周年記念式典で手品を披露
(この時、鐘の下で撮った記念写真が残っています)
(1975年5月撮影/「新潟新報」2004年6月20日付掲載)
の5回。
お寺の長男として生まれ、しかしそれを継ぐことなく半ば勘当された龍光さんが、実家から足が遠のいていたということは想像に難くないのですが、このサインの書かれた1970年にも帰郷しているとすれば、その新事実はとても興味深いです。
引き続きまして冷静な頭で検証していきたいと思います。
ではでは、googleストリートビューで鐘つき堂の近影を見ながら・・・おやすみなさい。
