ポール・マッカートニー、1980年代におけるバンドとライブへの距離感
ポール・マッカートニーの1990年3月7日東京ドーム公演を収めた「Closed Circuit Concert」(Empress Valley Supreme Disk)を観る。
プロショットカメラリハの全収録モノ。
嗚呼、たまらん。
Youtubeでもそこそこの品質で観れます。
さて。
1990年の来日公演といえば、1966年のビートルズでの来日以来、ソロでは初の生ポールだったわけです。
この時のポール来日の興奮度たるや、当時の諸先輩方にとって如何ほどのものだったのでしょうか。
歴史を紐解けば、単純に「34年ぶりの来日! お帰りポール!」ということではなかったということは、おなじみのお話。
まずは、1975年11月の武道館公演の中止劇がありました。
「Venus and Mars」リリース後のウィングスの世界ツアーで日本公演が予定されたのですが、ポールの麻薬所持の前科に突っかかった日本の法務省がビザを出さず、結果中止に。
当時のポールのお詫びメッセージが残っています。
そして、1980年1月には東京・名古屋・大阪を回る来日ツアーの開催が決定。
しかし、1月16日に成田空港に着いたポールは大麻所持で逮捕されてしまいます。
そして自ずとそのままライブは全て中止に。
5年前の中止の経緯があるんだから、どうしてポール本人も周りのスタッフも、この辺りのおクスリまわりのことに細心の注意を払わなかったのか、不思議でならないのですが、この時期ポールの精神状態も、ウィングスのバンドの状態もあまり良くなかったように思われます。
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訪日に向けたメッセージとリハの模様が映像で残っています。
武道館をはじめとしたホール・コンサートに向けたのリハがポールの家のキッチンで大丈夫なのか? ポールひとりが空回ってないか? とついつい余計な想像をしてしまいます。
ポールは2010年にこの時のことをこう振り返っています。
ツッコミどころ満載の発言ですが、ウソは言ってないものかと。
いわゆる日本での“エピソード”がウィングスの終わりだったと思う。あの時期は何だか不思議な感じがする。ぼくはこのバンドで日本に行きたくなかった。リハーサル不足だと感じていたんだ。(中略)だからそのせいで、けっこうパニックになっていたんだ。
そしたらいきなり、ぼくは逮捕された。自分でもよくわからない、不思議な気分だった。まるで自分から逮捕されに行った気がしたんだ。ライブをやらなくてもすむように。
(ポール・デュ・ノイヤー 著/奥田祐士 訳「ポール・マッカートニー 告白」(DU BOOKS)P205)
事実このまま、ウィングスの活動は自然消滅。
ポールのライブ活動は、1980年に入る前に一度ストップしてしまったわけです。
1980年その後のポールは、5月にソロ作「McCartney Ⅱ」をリリース。
そして12月にはジョンのあの件が・・・。
しかし。
1980年代のポールは、決して寡作だったわけではなく、ジョージ・マーチンにプロデュースを託したアルバム3作「Tug of War」(1982年)、「Pipes of Peace」(1983年)、「ヤァ!ブロード・ストリート」(厳密にはビートルズ曲のセルフ・カヴァー含む映画サントラ。1984年)を発表。そこでスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンなどをゲストに迎えたシングル曲でヒットを出します。
ただ、バンドやライブ活動からは距離を置いていたように思われます。
私が、リアルタイムで初めて購入したビートルズメンバーのソロ作が、続く「Press To Play」(1986年)でした。当時は、まだまだビートルズ自体を勉強中の中学生でありました。映画主題歌シングル「Spies Like Us」が前年暮れからこの年はじめにヒットし、テレビやラジオで初めて「現在の」ポール・マッカートニーに触れたのです。
なけなしのお小遣いからポールの最新アルバム「Press To Play」のCD(!)を買い、必死でビートルズの影を探しました。
・・・・しかし当時はわからなかった。
当時ヒット作を連発していたプロデューサー、ヒュー・パジャムの作る硬質な音像は、ビートルズとあまりに距離が離れすぎているように感じたのです。
まぁ、そりゃそうです。ちと当時の私には早すぎました。
(佳曲多数の今は好きなアルバムです。)
1980年代半ばまでのポールの表立った演奏活動は、1985年のライブ・エイド出演と1986年のプリンス・トラスト・コンサート出演ということになると思います。
前者はピアノ弾き語りでの「Let It Be」。
この時のことをポール公認のバイオ本とされるフィリップ・ノーマン著「ポール・マッカートニー ザ・ライフ」(KADOKAWA/2017年)には、次のように記されています。
ポールは最初から音響に問題があると気づいていたので、夢に現れた母親の言葉にヒントを得て作ったこの曲を、普段よりにぎやかなヴァージョンで演奏することにした。ポールの肩越しにビデオ撮影することで、何百万もの人々が、観客で埋め尽くされているウェンブリーの巨大な暗がりを彼の目線で見ることができるのだが、その暗がりから聞こえるかすかなブーイングによって、観客の多くに音が届いていないことがわかる。
(P504)
前半、マイクのトラブルで、歌がスピーカーから出ていないのです。
「嗚呼ポール。80年代は運も味方せずか。」
と思わせつつも、しかしポールは動じず。
間奏を長く取ったりして演奏を続け、回復を待ちます。
そして途中から無事ポールの歌声が会場全体に響き始めた瞬間の盛り上がりと感動よ。
(後にリリースされたDVDでは、修正されているらしいです)
とはいえ。
天下のポール・マッカートニーが、大規模イベントへの半ば飛び入り参加。
ここに続いたのはフィナーレにしてこのイベントの発端となるチャリティーソング「Do They Know It’s Christmas?」でありました。
つまるところ。
ライブ・エイドにおいて、ポールは大トリ的な出番だったわけであります。
それにつけてこれはあんまりなんじゃないの??
1980年代のポール・マッカートニーを追いかけるにつけ、このもどかしさと云ったらないのであります。
嗚呼、今日まで知らないでゴメンね。
嗚呼、面白い。
1980年代のポールの思うところの機微を察するところの奥深さにのめり込んでしまいました。
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