大木戸花街の組合員の顔ぶれと変遷と伊達氏
大木戸花街の組合員の顔ぶれを下記の資料をもとに一覧にしてみました。
●「東京待合業組合聯合会名簿」(東京待合業組合聯合会・編)
・昭和6年版
・昭和8年版
・昭和18年版
●「東京料亭組合連合会会員名簿」(東京料亭組合連合会・編)
・昭和25年版
・昭和26年版
・昭和27年版
・昭和30年版
・昭和31年版
・昭和32年版
・昭和34年版
・昭和35年版
・昭和37年版
・昭和40年版
・昭和41年版
・昭和43年版
・昭和46年度版(→昭和47年)
表は、組合長(理事長)をオレンジで、役員(理事・評議員・相談役)は青で示しています。
※画像ですと少々みずらいので、PDFデータもアップします。
戦争を境にお店の数はほぼ半分まで減ってしまうのですが、
彌生(弥生)
美津橋
多満川(たま川)
自慢支店(自慢荘)
自慢本店
富田屋
川むら(川むら家)
が戦前から盤石の経営を維持してきたというのがわかります。
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特に戦後「自慢荘」伊達氏の組合長(三業理事長)絶対君臨が強烈に印象に残ります。
そしてナンバー2には常に伊達氏の身内の経営とされる「自慢本店」が「料亭部長・理事」としてがっちりついています。
その他にも伊達氏の身内や関係者が、特に戦後の大木戸花街を動かしていたとおうかがいしています。
戦前、1943年(昭和18年)に一度だけ名前が出てくる「清光」は伊達氏経営の置屋であったとか。
1966年(昭和41年)を最後に組合名簿から名前が消えている「浜庄」は、いやいやどっこい「浜庄ビル」として現在もその名を残しています。
定礎には伊達氏の名が記されています(「昭和60年2月吉日」とあり)。
焼き鳥屋さんであったとおうかいしている「浜庄」。
現在「浜庄ビル」1Fに「焼鳥 とり仟」というお店があるのは何かの因果かたまたまか?
興味津々。
この表はまたゆっくりじっくり見ていきたいと思っています。