大木戸花街:待合、料理屋数の相違のふしぎ
引き続き「東京待合業組合聯合会名簿」(東京待合業組合聯合会・編)を眺めていると、たくさん面白いこと、不思議なことに気付きます。
1931年版(昭和6年5月現在)を見ると、大木戸待合組合の組合員数は25とあります。
屋号を記載します。(●は旧字で判読出来ず)
・清月
・大國屋
・彌生
・勝茂登
・吾妻家
・小田原家
・以●本
・琴富●
・七富久
・めばえ
・照よし
・美よしの
・吉田家
・玉よし
・富久の家
・長楽
・松竹
・音羽
・高砂
・和合
・楓月
・玉家
・重の井
・住よし
・閑醉
一方、松川二郎による昭和戦前期の花街ガイドブック「全国花街めぐり」(誠文堂・1929年(昭和4年)刊 )のコンパクト版、「三都花街めぐり」(誠文堂・1932年(昭和7年)刊)を見てみます。
本書は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
現芸妓屋 三十軒。芸妓 九〇名。待合 三六軒。
料理屋 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)
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とあります。
ん?
待合の数36、料理屋の数3と、組合員数の25との間に大きな開きがあるように感じられないでしょうか。
そしてまた、料理屋として挙げられている
・自慢本店
・同支店
・みやこ鳥
の名は、組合員の中に見つけることが出来ません。
ちなみに2年発刊が早い「全国花街めぐり」(誠文堂・1929年(昭和4年)刊 )でも、四谷大木戸の料理屋として同じくこの3店が記載されています。
「東京待合業組合聯合会名簿」に、自慢本店と同支店(自慢支店)が出てくるのは、1943年版(昭和18年6月現在)です。(みやこ鳥は見当たらず)
これは何を意味しているのでしょうか。
1943年版(昭和18年)では、組合名が1933年版(昭和8年)まで確認できる「大木戸待合組合」から「大木戸三業組合内大木戸料理待合二業組合」と変わっています。
つまるところ、この10年の間に、組合が待合のみから料理屋も取り込んで活動をするようになったということなのでしょうか。
そして、1931年(昭和6年5月現在)の大木戸待合組合員数の25と、「三都花街めぐり」に記載のある松川二郎のフィールドワークによる待合の数36の差の表すものは、決してすべての待合が組合に入っていたわけではない、ということでしょうか?
この辺りのことを大木戸の「多満川」の柳谷様におうかがいしたところ、お母様のお言葉として、
組合は互助会のような機能もあったらしく、誰かが亡くなると、結構な額の慶弔金のようなものが出たそうで、組合費もなかなか高額だったそうです。
その辺にも組合店とそうではない店の違いが出てきたのかもしれませんね。
あと、考えられるのは系列店のような、一人で何店舗かを経営されている場合は、組合の名義が一店舗ぶんになるということも考えられます。
というお話をおうかがいすることが出来ました。
納得。
ますます興味は尽きないのであります。