内藤新宿の凱旋門のインパクト
まだ江戸の雰囲気をプンプン残す内藤新宿に、1905年(明治38年)、凱旋門が建てられました。
この年終戦した日露戦争の凱旋を迎えるお祝いのためです。
新宿凱旋門(M.38[1905],12.) 着/手彩色 蔵/中野区歴史民俗資料館
新宿凱旋門(M.38[1905],12.) 着/モノクロ 蔵/新宿歴史博物館
日露戦争が終わると、凱旋軍を迎えるため沿道の凱旋門が建てられた。(中略)11月・12月は東京市内及び近郊で凱旋門の建設ラッシュが起こった。(中略)内藤新宿では町内の有志が募金を募り、東京市街鉄道(のち東京市電)新宿二丁目停留場前(現太宗寺前付近)に凱旋門を建設した。
(新宿歴史博物館特別展図録「巷の目撃者~絵はがきがとらえた明治・大正・昭和~」(新宿区教育委員会発行・会期 1999年10月23日~12月5日)より)
町内の有志の募金2200円を投じて建てられたもの。木製で屋根は朱塗、周囲は200個の電灯で装飾されており、大きさは高さが約6.4m、間口が約8.2mあり、路面電車の軌道を跨ぐ形で建てられている。その独特の建築様式は、東京の凱旋門の中でも異彩を放っている。
(新宿歴史博物館特別展図録「巷の目撃者~絵はがきがとらえた明治・大正・昭和~」(新宿区教育委員会発行・会期 1999年10月23日~12月5日)より)
彩色写真の方を見ると、2年前の1903年(明治36年)に四谷見附~追分間を開通したばかりの市電の前身、市街地鉄道が小さく確認出来ます。
前掲の手彩色画像をズームで見てみます。
「新宿二丁目停留場前(現太宗寺前付近)」
ということは・・・明治35年前後の地図で見ますと、凱旋門のあった場所は新宿通りの赤丸あたりかと思います。
(地図:「豊多摩郡の内藤新宿」(新宿区立図書館資料室編・1968年)掲載「豊多摩郡内藤新宿の図(古老の記憶図から明治35年前後の駅前通り)」より)
「新宿歴史博物館特別展図録「巷の目撃者~絵はがきがとらえた明治・大正・昭和~」(新宿区教育委員会発行・会期 1999年10月23日~12月5日)」によると、凱旋門は四谷見附(四ツ谷駅前)側にも内藤新宿より先に建てられたそうです。
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新宿区域では、まず四谷区が尾張町(現四谷一丁目)の四谷大通り付近に、丸太を組んだ門に「祝凱旋」の扁額を掲げ、紅白の幔幕・大国旗・高張提灯で装飾した簡素なものを建てた。
とあります。しかし、こちらはちゃっちかったのか絵葉書や写真を見つけることが出来ませんでした。見れないとなるとますます見たくなりますが・・・。
この時期、内藤新宿に限らず東京に沢山の場所に凱旋門が作られたそうです。
絵葉書として確認出来るところだけでも新橋、上野、日本橋、品川、神田万世橋、浅草、京橋、麻布、赤坂、日比谷など・・・。
ウェブで「日露戦争 凱旋門」と検索するとそのいくつかの写真を見ることが出来ます。
田辺茂一とも交流のあった、1899年(明治32年)に貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた神垣とり子さんが寄稿した「内藤新宿の思い出」(四四会・1966年9月)に、凱旋門が出来た6歳当時の風景が描かれています。
ちなみに四四会とは、
「明治四十四年三月、花園尋常小学校(現四谷第五小学校)六年を卒業した、同級生で組織したものである。」(前書きより)
戦争に勝ったお祝に凱旋門が二丁目の太宗寺から西寄りの所に出来た。
杉のアーチで色電気がついて綺麗だったが私は、一寸がつかりした。といふのは、明治三十六年にアメリカへ洋行していた知り合いがハンカチーフを送ってきて、そのうすい箱の表紙に「パリの凱旋門」の画がはつてあつた(。)凱旋門といふのはそういうものだと思つていたのに、只杉の葉つぱで出来ていたので、がつかりしたのだ。
長唄のお師匠さんの二階から、手にとるように見えるので「一等席」で見物しているみたいでよかった。
晩年の神垣とり子(加太こうじ「江戸っ子」(淡交社・1972年)より)
「只杉の葉つぱで出来ていた」というのは、写真と記録で見る限りではちょっと違うのではと思うのだけれど、パリの凱旋門と比べられるのはちょっと酷であります。
一方で「二階から、手にとるように見えるので『一等席』で見物しているみたい」と複雑な乙女心が察せられます。
「内藤新宿の思い出」(四四会・1966年9月)には巻末に「内藤新宿見取図 明治三十一年頃から大正四年頃間」という西は新宿駅前から東は麹屋横丁(現・新宿御苑の大木戸口から出てすぐの新宿通りを渡った真向かい)までの手書き地図が掲載されていて、凱旋門の位置も記されています。神垣とり子さんの生家住吉楼とともに赤丸で囲みます。
現在の地図と比較しますと新宿御苑のこの辺りになりますでしょうか。
(google mapより)
神垣とり子さんが長唄の稽古をしていた場所も特定したかったのですが、ちょっと難しそうです。
師匠の名前は「芳村松風」とあり、独立行政法人日本芸術文化振興会のサイト「文化デジタルライブラリー」に2代目芳村松風の名が確認出来たのですが、果たして関連は?
この凱旋門はいつ頃まで残っていたのでしょう。
パリの凱旋門と違って、日露戦争の戦勝ムードが一段落したところで壊されたのでしょうか。興味は広がります。