明治末〜大正の内藤新宿の楼閣街と移転と新宿遊廓の誕生
ここでは、明治〜大正まで江戸の遊郭街の風景を残した大木戸〜追分辺りの当時の雰囲気と変遷をいくつかの文献から辿って行きたいと思います。
最後は大木戸花街誕生の尻尾までをなんとか掴みたいです。
田辺茂一「わが町・新宿」(サンケイ出版・1976年初版/筆者参照は紀伊國屋書店・2014年復刊版)に、田辺が子供の頃に見た、明治末の内藤新宿の妓楼街の様子に触れた箇所があります。
追分---(厳密に云えば現在の丸井店あたり)---大木戸まで、両側に、二階三階の層楼が並んでいた。家の両角に、酒造場の酒樽のような大きな用水桶が二つ置かれ、柳の木に舟板塀の風情もあった。
新宿二丁目の太宗寺の「おえんまさま」が、新宿の名物であったが、その正月の十六日には、一日に何回も、でかけた。
両側に縁日の露店が賑やかであった。人混みの雑沓にまぎれて、私は子供心の好奇も手伝って、大人の外套のかげにかくれながら、夜のお女郎屋の店先を見聞した。
花魁さんが、台のようなところに座って並び、くわえた長煙管を、嫖客(ひょうかく)の前にさしだしている。毒々しい化粧であったが、艶なものだ、と思った。
「わが町・新宿」でも度々拠り所にされている芳賀善次郎「新宿の今昔」(紀伊國屋書店・1970年)からも明治中期〜後期のこの辺りの様子の記述を引用します。
当時、夜店や縁日で人々の心を楽しませた四谷大通りは山の手随一の繁華街に成長していた。繁華な遊里を誇る内藤新宿もこれ維新後一時さびれはしたものの、これにおとらず繁栄していた。
明治7年ころ1ヶ月の遊客数約7,500人と記録され、吉原、品川についで多く、そのため甲州街道をはさみ、妓楼が軒を連ねていたほどであった。
追分から大木戸に掛けての大通りに面する妓楼街のにぎわいは、「豊多摩郡の内藤新宿」(新宿区立図書館資料室編・1968年)に掲載された「豊多摩郡内藤新宿の図(古老の記憶図から明治35年前後の駅前通り)」という1902年(明治35年)頃の新宿を詳細に記述した地図を見ると明らかです。
○印が貸座敷を示しています。
ここでは、右は大木戸、左は秋葉神社辺りまでをトリミングしていますが、追分までたどって行くと、貸座敷が約50軒確認出来ます。
まさしく「妓楼が軒を連ねて」いるのがわかります。
少し遡りますが、芳賀善次郎「新宿の今昔」(紀伊國屋書店・1970年)より、1897年(明治30年)ごろの内藤新宿の風景を。
[写真キャプション]明治30年ごろの内藤新宿。電信は通ったが電燈や都電はまだである。乗物は人力車が主で通りには遊女屋が並ぶ(「東京府地誌略」より)
明治に入り宿駅制度はが廃止されるわけですが、日常の人の流れや物流をすぐに変えられるわけはなく、このように旧宿場町は江戸の雰囲気を残したまま繁栄を続けたわけであります。
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このにぎわいは大正に入っても続きます。
大正の初期には、甲州街道の大木戸から追分まで約1kmの両側に江戸時代以来の宿場を思わせる妓楼53軒が町屋の間に点在していて、異様な光景であった。妓楼はみな2階あるいは3階建ての高楼に瓦屋根、土蔵造りで、壁の上部には漆喰細工の飾り絵が画かれていた。
(戸沼幸市 (著, 編集) 青柳幸人 (著) 高橋和雄 (著) 松本泰生 (著)「新宿学」(紀伊國屋書店・2013年))
このころ追分に追った街道筋は、二、三階を上に延びた妓楼五〇数軒が列をなし、その前を神田市場へ向かう野菜を満載した荷馬車や肥車がカタコト音をたて変らぬ馬糞の散乱した道を往来していた。
しかし、大正初期の四谷区全域をみると、昼は陰気、夜は電燈の少ない、そして薄暗い町であった。これを評して「四谷はあかぬけない田舎町」と車夫の間につぶやかれたほどである。当時四谷区は東京一五区のうち最も財政難に悩み内藤新宿と四谷区との双方の発展を図ろうという機運が高まりつつあった。
(「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年))
続いて又引きになりますが、芳賀善次郎「新宿の今昔」(紀伊國屋書店・1970年)には「伊勢丹七十五年のあゆみ」(伊勢丹編・1961年10月)から下記を引用しています。
大正三年頃・・・四谷見付から大木戸あたりまでは賑やかな商店街で、大木戸から北方は遊廓が沢山並んでおりました。・・・午後四時頃帰ってまいりますと、非常に多くの肥車がやってきます。東京中の肥車は千住、品川、新宿と三方に分かれてやってくる。この肥車の行列がつづき、それを避けて通るのに困ったことを覚えております。全く東京の肛門のようなところだと思いまして黄門隠士と名づけたこともあります。またその頃の遊廓には皆のれんがかかっておりまして、ちょうどお湯屋が並んでいるような形でした。私が子供をつれて塩町辺りまで散歩に行くと、「お父さん、お湯屋がたくさんあるね」とのぞいてみたりするので困りました。
この大木戸から追分の江戸時代を引きずった風景は、1921年(大正10年)頃、新宿駅方面が大きく変化発展していく中でも変わらなかったようです。
再び芳賀善次郎「新宿の今昔」(紀伊國屋書店・1970年)から「新宿区史史料編」(新宿区役所・1956年)の又引きをします。
それが皆二階或は三階の高廈(著者注:高い大きな家のこと)高楼に板塀などを巡らしていたので、昼間は至って陰気な町並であった。之が夜になると俄然活況を呈し、大きな暖簾を潜ると店先の格子をはめた一室に、遊女が長襦袢一枚に冬なら裲襠(うちかけ)を羽織り、立て膝をして朱羅苧(著者注:しゅらお/朱漆を塗ったもの)の長煙管で煙草を吹かし乍ら、遊客の「お見立て」を待っていた。之を「張り店」と言い、江戸以来の伝統にならっていたが、之は全く人間の売り物を陳列する制度で、売れ残った女はいつまでも晒し物になって、恥ずかしい思いをするから、勢い客を取る競争をする・・・
ちなみにこの「張り店」は人権的見地から警視庁から禁止を命ぜられ、1916年(大正5年)頃を境にして写真陳列(顔見せ写真)に代えられていきました。(参考・写真:「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)より)
そして、いよいよこの辺りの品性・風紀上の問題が取り沙汰されるようになります。
この遊廓通りの向かい側に当たる、江戸時代の内藤家の屋敷は、1872年(明治5年)に大蔵省の「農事試験所」、1879年(明治12年)に宮内省所管の「植物御苑」になります。1905年(明治38年)5月に日露戦争の勝利記念にて凱旋将軍の歓迎会を実施し、これ以来この地を「新宿御苑」と呼ぶようになります。
大正天皇は1917年(大正6年)から観桜会や観菊会も新宿御苑で行うようになり、新宿御苑は皇室のパレスガーデンとして外交官や日本の高官が集まる庭園となります。
(この段落参考:戸沼幸市 (著, 編集) 青柳幸人 (著) 高橋和雄 (著) 松本泰生 (著)「新宿学」(紀伊國屋書店・2013年))
このパレスガーデンとなった新宿御苑の真向かいで、江戸時代以来の妓楼が立ち並び、遊女が客を引く光景のあること問題あり!ということで、以前より進められていた移転計画が、ついに、1918年(大正7年)3月6日に警視庁令によって1921年(大正10年)3月31日までという期限付きで新宿2丁目の牧場跡への移転命令ということになるのです。
(続きます)