【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】大国座と興行師・小林喜三郎の活躍 その3(最終回)
続きです。
今回で小林喜三郎のお話はおしまいにします。
最初期のカラー映像技術であるキネマカラーに着目し、創設から関わった天活と1916年(大正5年)10月に決別し、すぐに小林商会を設立したわれらが小林喜三郎。
小林が以前からブームの兆しを掴み、注目していたのが連鎖劇でした。
連鎖劇 れんさげき
芝居のなかで、その一部を映画の場面へと転換し、舞台上の出来事とスクリーン上の出来事を連結させて交互にみせるもの。1913年あたりから24年ごろまでが流行の全盛期(以下略)
「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年)
もう少し具体的な説明を。
この連鎖劇という劇は、実演と映画を組み合わせたもので室内のところを実演でやり、ロケーションの部分(それも動きの多いところだが)を映画でやる方式である。四、五人の村人が息せき切って走って来るシーンが映画で紹介される。急に場内が暗くなってその映写幕が上げられる。するとそこに旧家が舞台にセットされていて急に場内がパッと明るくなる。いま映画の中で走ってきた村人が道中のほこりなどを落とす身ぶりよろしく芝居に入るといった工合である。スピーディーな感じがあり、映画に映った人物がそのまま舞台に現れるのがうけたわけである。
今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)
舞台演劇と映画のハイブリッド版というものでしょう。
小林は、大々的に連鎖劇の興行に乗り出し成功を収めます。
この当時(大正六年)は小劇場の全盛時代で、それへ出勤する俳優も又金になった時代でありました。此の繁昌を作ったのが、当時映画界でジゴマと云はれた小林喜三郎であって、同人は活動から連鎖、連鎖から劇場に進出し、宮戸、開盛(第一劇場)、柳盛(中央劇場)、早稲田などの各劇場を買収して、(中略)一日二回興行を打つといふ新制度を設けたので、新奇を好む客は来るは来るは、各座毎超満員を掲げるという好況
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)掲載、木村錦花「近世劇壇史」中央公論社・1936年)
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ここで、小林が押さえた劇場とその出演一座は次のものでした。
本郷座(本郷)井上正夫一座。
演技座(赤坂)沢村伝次郎一座。
大黒屋(四谷)浅尾工左衛門一座。
中央劇場(浅草)中村秋孝、笹本甲午一座。
みくに座(浅草)小堀誠一座。
宮戸座(浅草)松本高麗三郎一座。
真砂座(日本橋)高部幸次郎一座。
早稲田劇場(牛込)市川海老十郎一座。
第一劇場(浅草)坂東彦十郎一座。
喜楽座(横浜)佐川素経一座。
朝日座(横浜)坂東左門一座。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
あ、来ました!
大黒屋(四谷)・・・・文字こそ誤ってますが、四谷大木戸の大国座であることは、まず間違いないでしょう。
別な視点からも裏付けを。
民衆娯楽の研究を行った社会学者、権田保之助「民衆娯楽問題」(同人社書店・1921年)に掲載されている「東京市内に於ける活動写真館の分布(大正六年3月末現在)」という図表を示します。
四谷に1軒連鎖劇場の記録があり、注釈に「*かつて連鎖劇場なりしも目下は普通劇場となり居るもの」とあります。
またも絶好調の時期を迎えた小林でしたが、やがて厳しい局面が訪れることになります。
連鎖劇興行で急激に業務を拡張したことによって経済的破綻にぶつかります。
映画+演劇という二つの様式を要する連鎖劇は、製作費も大きく、また製作環境、予算の絞り込みが脚本への制約にも繋がることで、自ずとストーリーの浅薄さ単調さが急激な客離れに繋がってしまいました。
そこに追い打ちを掛けたのが、警視庁令(第12号)の「活動写眞興行取締規則」でした。
小劇場や映画館の建築取締上連鎖劇の興行は不可能となった。すなわち連鎖劇のように、映画と舞台を組み合わして一つの劇を構成する仕組は防災上から不許可を宣告され、この年七月二〇日を限って、警視庁管内の連鎖劇場は一斉に興行を中止した。これは何よりも、小林商会にとって致命的な打撃であった。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
これによって小林は、連鎖劇の事業を手放し、劇場や劇団との契約は松竹合名社の傘下、契約映画館も天活にへ引き渡すことになります。
ここで改めまして「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)の大国座オープンに関する記載に戻ります。
大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であったが、余り手をひろげすぎて破産し、他の者に大国座を委ねてしまった。
映画興行師、小林喜三郎と四谷大木戸大国座の縁は、連鎖劇興行を展開した数ヶ月間・・・恐らくオープン当初から「活動写眞興行取締規則」が施行された7月頃のお話だったのではないでしょうか?
また、映画興行ひとすじの小林喜三郎の足跡から察してみるに、大国座オープン時の興行であった「三番叟」「黒子組助六」「乗合船」という歌舞伎の出し物を、小林が手掛けたと考えるのは不自然に思われます。
つまり、小林が大国座のオーナーであったり、興行全てを取り仕切っていたという可能性は低く、小林商会との契約はあったかもしれませんが、飽くまでオープン当初期の興行師のひとりであったというのが結論ではないでしょうか。
小林喜三郎と四谷大木戸の束の間の邂逅に明治大正期の激動の映画興行史を学ばせていただきました。
小林喜三郎の人生はここで終わったものではありません。まだまだ仕掛けます。当てて行きます。
その人生は是非、今回参照、引用させていただいた書籍をあたってみて下さい。
嗚呼、面白かった。
[備考]
今回の史実の整理は「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年)、田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)、今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)によるものです。
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