【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】大国座と興行師・小林喜三郎の活躍 その2
今回は映画「ジゴマ」ブームと福宝堂、その営業部長として手腕を奮う小林喜三郎の動きを追っていきたいと思います。
何とか早く四谷大木戸の大国座にたどり着きたいです。
明治の4大映画業社では創業がもっとも遅かった(1910年(明治43年))福宝堂ですが、
元来福宝堂というのは映画製作、配給、興行を主体とした映画業を目的で創立された会社ではない。土地の利権的発想でスタート(した会社)」
(今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年))
とあるように、
「これからは映画が儲かる!」
という発想から出発したところがあったため、半ば強硬な地上げで都内に8ヶ所の映画館をまず建てて、所有していたというのはとても強みでした。
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しかし、弱点があったとすれば、東京の娯楽の中心、浅草に拠点を持っていなかったということです。
そこも小林がすぐに動きます。
当時の活動写真興行は、(東京)市内よりも浅草が何といってもこの道の金城湯池であったから、浅草公園に経営館を持たないと一かどの活動業者とはいえないので、営業部長小林喜三郎は、根岸浜吉の所有する常磐座の改築落成とともに、これを福宝堂の披露劇場として借用し、つづいて隣接の金竜館も手に入れた。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
こうして浅草の地盤も固めた福宝堂。
創業からちょっと振り返ってみますと、8館の映画館建設、浅草で2つの劇場を買収、その間には上映する映画が足りないと花見寺撮影所を日暮里に作り、自社製作を手がけて・・・とこれがたった1年ちょいのお話とは驚きです。
そしていよいよ浅草金龍館で1911年(明治44年)11月11日から映画「ジゴマ」の公開です。
金竜館は浅草六区映画街の南端にあった。観覧車の跡地に明治44年3月に新築開館したばかりの新しい活動写真館である。
(永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)
(「ジゴマ」は)横浜の貿易商ニーロップ
商会から福宝堂が買い入れたもの。便船の都合で一時(新しい映画フイルムの)入荷が途絶えたので、犯罪映画のため遠慮していた「ジゴマ」を倉庫から取り出し、金竜館へ出して見ると意外の大あたり、1ヶ月続映して8千円も上った。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)より小林談)
今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)では、金竜館の山本主任と小林のやりとりが再現されています。
「何かパァッと客の来そうな写真はないんですか?」
「どうも封切りに追われてこれぞというものがないんだ。だいぶ前に入れたものが一本あるんだが、どうも泥棒の話の写真らしいのでオクラにしてある」
「それでもいいじゃないか」
「然し、時節がら泥棒ものはどうかね」
「面白ければ良いんじゃないか」
「滝口君が見たんだが、あまり面白いものじゃないらしい」
「何ていう題です?」
「”ジゴマ”っていうんだ」
「”ジゴマ”? なんですそれは?」
「何か、出てくる悪漢の名前らしいんだ」
「それをやりましょう。片仮名の”ジゴマ”じゃ何だかわからない。それだけに受けるかもしれない」
「やってみるか・・・」
「やりましょう・・・」
ここで出てくる滝口とは、福宝堂創設準備期間からのメンバーである滝口乙三郎。元々第一ポ館という映画館を経営していた人物で、都内15ヶ所に「福宝館建設敷地」の棒杭を立て、地主を無理やり納得させたのがこの人。
今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)では、この地上げ強行も小林がやったこととして書かれていますが、これは誤り・・・というか「小林喜三郎伝」としての脚色かと思います。
田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)には、小林の発言として、
福宝堂から、常設館建設の権利を買わぬかと持ち込まれたのはこの頃のことで、つづいて福宝堂入社の勧誘を受けたのでした。
とあります。
映画館建設のため、滝口乙三郎が地上げした土地の権利を買わないかと小林に持ちかけたそののち、「じゃあ、ウチの会社でガンガン映画館建ててくれ」と小林が福宝堂に入社し営業部長となって建設の総指揮を執ったというのが史実でしょう。
さて。
滝口も評価せず、小林もこの時点では観ていなかったと思われる「ジゴマ」は、予想に反してまさかの大ヒット。
「ジゴマ」は連続活劇の始まりとされる映画。
小林は「ジゴマ」に続編があると知るや、商機逃さんとばかりに「ニック・カーターの巻」を輸入し、これも大ヒット。
福宝堂の独占的上映を受けて、他社は独自に「和製ジゴマ」を連発、ジゴマ探偵小説とされる出版物も多数出され、ブームはどんどん加熱。
ついには「ジゴマ」を真似たとする少年犯罪が起こり始めることで社会問題化し、1912年(大正元年)10月9日に10日間(10月20日まで)の猶予期間をもって「ジゴマ」と、それに類する怪盗もの映画の上映禁止命令が警視庁より出されます。
これによって「ジゴマ」ブームはひとまず沈静化します。
そんな「ジゴマ」ブームのさなか、明治の4大映画業社の統合により日活(日本活動写真株式会社)が1912年(大正元年)9月10日創立。
買収額は福宝堂が4社中最も高かったそうです。
M・パテー 60万円
吉澤商会 75万円
横田商会 45万円
福宝堂 97万6700円
(今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年))
小林は、日活で営業部長となりますが、一匹狼的な性格は大組織に馴染めず早々に退社し、浅草の常磐座と提携して独立、常磐商会を立ち上げ、すかさず映画製作を手掛けます。
しかし、この動きに日活の重役の元福宝堂社長、田畑建造に圧力が掛かり、やむなく小林は日活に戻ります。
うーーーん。
ザ・サラリーマン世界!
しかし、これでへこたれる小林ではなく、「病気」を理由に、早々に再び日活を退社してしまいます。
日活の大阪支店にいた、福宝堂時代の大阪支店長の山川吉太郎は、小林の再退職を追うように日活を辞め、東洋商会を設立、小林はここに提携という形で関わり、製作と配給を行います。
小林と山川はとても気が合ったそうです。
この頃小林は、福宝堂時代から注目していた、キネマカラーというカラー映像技術に再度着目します。
キネマカラーとは、それまでのフイルムに着色を施す彩色方式のカラー映像ではなく、
自然の色彩を、赤と緑の二つに分類し、赤色フィルターを通して撮影した場面と、緑色フィルターを通して撮影した場面を交互に連続させ、映写にあたっても赤と緑の色フィルターを交互に透かして、映写するという方式
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
という最初期のカラー映像技術でした。
ウィキペディア「キネマカラー」の項から「1911年のキネマカラー作品」とされた画像を掲載します。
その元映像はYoutubeに上がっている「Rive Del Nilo Banks of the Nile year 1911 kinemacolor」でしょう。
私はカラー映像技術に詳しくはありませんが、光の三原色RGBの内のRG2色だけでここまで表現できるものなのかと素直に感激しました。
福宝堂はこのキネマカラーの東洋における専売特許権の買収に動きます。
特許権が確定し、いざ天然色映画を製作して、日本の映画界をあっといわせようと思っていた頃には、すでに4社日活統合と相成ってしまいました。
福宝堂社長だった田畑建造は、この時、日活の社員となったため、特許権自体が宙ぶらりとなっており、そこに小林が目を付けました。
山川君と東洋商会をやっていた頃、私はどうにも気持が満足しないので、伊豆山の温泉でしばらく考えました。そこへ福宝堂時代に田畑さんが買ったキネマカラーの日本特許権が下付されましたが、トラストの契約で、代表者の田畑さんは独立して映画事業はできないことになっているが、私たちがやる分には差支えがないし、常盤商会の時とは違い、どこからも苦情をいわれる筋合がないので、それにキネマカラーの特許権はトラストの契約外にあることも分り、ここに新会社創立の腹を決めたのです。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)より小林談)
まず、お客の反応を見るために、小林は浅草のキリン座で毎週3、4本キネマカラーの作品を上映し、キネマカラー最初の日本の実写作品「日光の風景」を上映。
人気は盛り上がりました。
そして、小林、山川は、元福宝堂の人材を集め、いよいよキネマカラーを売り物にする新会社、天然色活動写真株式会社、通称「天活」を1914年(大正3年)3月17日に創立します。本社は日本橋の旧福宝堂本社跡に置きました。
そして小林、山川は役員の立場で、それぞれ関東、関西を二分して営業展開を行いました。
東洋商会時代の取引館を継承し、オリジナルは、東京は日暮里、大阪は鶴橋のスタジオで「義経千本桜」を皮切りに「紅葉狩」「関の扉」とキネマカラーの舞台劇を次々製作し、業績を広げていきます。
この辺りの動きを見ていても、つくづく小林喜三郎の先見の明に感心してしまいます。
しかし。
状況は一変してしまいます。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦の勃発。
いままで興行映画の大部分を外国の輸入物に仰ぎ、自社製作を二次的に考えていた日本の映画業者にとって、大戦勃発と同時に、ロンドンに市場を持つ外国映画が輸入困難となり、加うるに生フィルムの急激な暴騰は、糧道を断たれるほどの大打撃であった。
天活といえども、キネマカラーのような倍数のフイルムを使う映画は、一時製作を見あわせなければならなかった。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
1915年(大正4年)9月末、業務改革で小林と山川が役員を辞任し小林興行部と山川興行部を作り、小林は名古屋以東を、山川は名古屋以西を担当し、天活の経営を代行するという体制が取られました。
しかし、これも長くは続かず、小林と天活は、1916年(大正5年)10月には、意見の衝突、契約不履行等のトラブルが起き、天活と喧嘩別れし、再び独立と相成ります。
興行界のジゴマと呼ばれた小林は、持前の興行師才腕に恃み、今や天活の幕下にあるを快しとせず、二、三の経営劇場とともに敢えて天活に反し、独立の野望を達成せしめたものと見える。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
そして、小林はすぐに新しい事業に着手します。
天活を離れた小林喜三郎は、直ちに小林商会を起こし、まず京橋区新肴町一九番地に事務所を設け、下谷の三の輪に仮スタジオを造り、浅草帝国館、みくに座、三友館、鳥越中央劇場、京橋豊玉館の五つの劇場を経営し、これに連鎖劇やアメリカ映画を興行して来たが、中でも流行の連鎖劇には最も力を入れ、矢継ぎ早に数ヵ所の連鎖劇場を経営して、ここに連鎖劇全盛時代という一時期を作った。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
連鎖劇とは、いわば、生の舞台劇と映画のハイブリッドという新しいスタイルの興行。
ここで、小林喜三郎と舞台という接点が見えて来るわけであります。
嗚呼・・・。
やっと小林喜三郎と四谷大木戸の芝居小屋「大国座」との接点の尻尾が見えてきたのかもしれません。
1916年(大正5年)10月の天活との決別、小林商会の設立。
そして大国座のオープンは1917年(大正6年)元日。
この残り数ヶ月の物語とは如何に!?
[備考]
今回の史実の整理は「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年)、田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)、今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)によるものです。
1件の返信
[…] 続きです。 今回で小林喜三郎のお話はおしまいにします。 […]