【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】寄り道編:映画「ジゴマ」と江戸川乱歩
四谷大木戸の理性寺跡地に1917年(大正6年)元日にオープンした芝居小屋「大国座」。
「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)によれば、
大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であったが、余り手をひろげすぎて破産し、他の者に大国座を委ねてしまった。
とのこと。
前回、この小林喜三郎の映画興行界での活躍(暗躍?)ぶりを追い、明治4大映画業社のひとつ福宝堂の営業部長時代、都内に8つの常設映画館建設の総指揮を執り、その最初に建設されたのが、1910年(明治43年)7月14日にオープンした荒木町の四谷第四福宝館だったということがわかりました。
ここで小林喜三郎と四ツ谷が結びついたわけです。
そしてその7年後、1917年(大正6年)オープンの大国座と小林は一体どう繋がっていくのか・・・。
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ここでは、一度少し回り道をしてまず小林が「当たりに当てた」というギャング映画「ジゴマ」に関して追いかけてみます。
「ジゴマ」はフランスのエクレール社で製作されたもの。原作はレオン・サージーで、パリのル・マタン新聞に連載された探偵小説。内容は兇悪なピストル強盗ジゴマが殺人、放火、強奪、逃走等、あらゆる現場の手口を見せながら縦横無尽に活躍し、いつも探偵の手を巧みにすり抜けているという悪どい犯罪映画で、この種の場面にはじめて接した日本の観客の中には、恐怖のあまり客席で悲鳴をあげるものさえあった。
(田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年))
巨大映画データベースサイト「allcinema Movie & DVD Databese」にもストーリーが詳細に記載されています。
1911年にフランスで製作され、同年日本公開。
また、ストーリーと映画本編の写真が掲載された、鈴木素好翻案「ジゴマ」(トモエ屋書店・1912年)が国会図書館デジタルコレクションで公開がされています。

(写真:鈴木素好翻案「ジゴマ」(トモエ屋書店・1912年)より)
映画「ジゴマ」のストーリーを読んで、まず思い浮かべるのが、江戸川乱歩作の少年探偵団が活躍する「怪人二十面相」シリーズだという方は少なくないでしょう。
怪人二十面相は、
人を傷つけたり殺したりする、残酷な振舞は、一度もしたことがありません。血が嫌いなのです。
(江戸川乱歩「怪人二十面相」)
という紳士的なところこそ違えど、目まぐるしく展開する場面と、怪盗と探偵の対決という構図、少年探偵団シリーズに見られる連続性は、まさに「ジゴマ」と重なるところです。
江戸川乱歩のエッセイ集「悪人志願」掲載の「わが青春の映画遍歴」(1956年「スクリーン」『乱歩随筆』初出)には、青年時代の映画体験の感激の最初として「ジゴマ」に触れています。
私はかぞえ年六三だから、青年時代の思い出となると、どうしても無声映画である。しかもその感激の最初は明治末期の「ジゴマ」に遡るのだから古いものだ。「ジゴマ」を見たのは中学一、二年のころ、当時住んでいた名古屋市の御園座においてであった。そのころ著名の弁士兼興行師であった『スコブル大博士』駒田好洋(好の字がちがうかもしれない)という人が、「ジゴマ」を持って地方巡業していたもので、痩せ型でメフィストめいた風貌の駒田氏が、コーモリの羽根のような黒いインパネスコートの袖をひるがえして、前説をした光景が今も目に浮かぶ。伴奏はピアノだけ。それがまたひどくハイカラで、神秘的とでもいうような感じを受けたのである。
私は近所の仲のよい友達とふたりで、御園座興行中に三度も見に行ったものである。
乱歩が「好の字がちがうかもしれない」と書いている(が、ちゃんと合ってます)駒田好洋は、口癖の「頗(すこぶる)る非常」から「頗る非常大博士」と呼ばれた活動弁士の先駆者。

(永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)掲載「キネマ・レコード」大正5年4月10日号より)
まだ常設の映画館のない地方都市や農山村では、映画興行者が映画フィルム、スクリーン、映写機、発電機などがセットになった移動映写隊(それに音楽伴奏と活弁の加わっていた)による巡回映画が文明開化の息吹を伝える刺激的な媒体でした。弁士と興行を兼任して行ったその草分けが駒田好洋でありました。(駒田好洋関して・参照「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年))
福宝堂の独占上映だった「ジゴマ」を、駒田好洋がどうやって手に入れたか、その経緯も非常に面白いのですが、それは是非ジゴマブームを綿密丁寧に追った名著、永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)で確認していただきたい。
駒田好洋の弁士による「ジゴマ」の興行が名古屋御園座で行われたのが1912年(明治45年/大正元年)4月6日〜4月15日であったということは、その永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)で特定されています。
乱歩が18歳になる年です。
「ジゴマ」での映画原体験は乱歩にとって(少々自嘲的なところもあったり、見た時期の記述が曖昧だったりしますが)、かなり強烈な印象を残したのは間違いなく、複数のエッセイで繰り返し語られます。
もうひとつ引用します。
私の映画歴は、笑ってはいけない、「ジゴマ」に始まるのだ。当時小学の何年生かであった私は、名古屋御園座においてスコブル大博士駒田好洋(?)説明の「ジゴマ」全何巻を、どれほどの感激を持って見たことであったか。私はそれを、同じ映画を三晩も続けて見物に行ったほどである。
(「悪人志願」収録「映画横好き」/1926年1月号「映画時代」初出)
前述の永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)の新潮社での紹介サイトでは、「担当編集者のひとこと」として「実は元ネタがあった江戸川乱歩の『怪人二十面相』」として「ジゴマ」の影響に言及していますが、「元ネタ」とまで言ってしまうの、は少々煽り文句的で大袈裟な気がします。
事実、永嶺重敏氏も本書内では
松村喜雄氏が「映画『ジゴマ』には、随所に乱歩が書いた長編の明智もの、子供向けの怪人二十面相ものと同じ趣向、トリックが散見されていて興味深い」と指摘しているように(『怪盗対名探偵』)、ジゴマ体験はその後の乱歩の創作活動に深い、ある意味で決定的な影響を与えている。
と記すに留めていて、「元ネタ」と断定や詳細な言及までは行っていません。
乱歩の自分語り集大成「探偵小説四十年」で、怪人二十面相を1936年(昭和11年)1月に雑誌「少年倶楽部」で書き始めた頃に関して、次のように書いています。
この年の正月号から、といえば前年の秋ごろから話がきまっていたわけになるが、どういう風のふきまわしか、私は少年ものを書いて見る気になった。(中略)
私は最初少年ルパンものを狙って、題も「怪盗二十面相」とつけたのだが、そのころの少年雑誌倫理規定は、今よりきびしく、「盗」の字がいけないということで頃は悪いけれど「怪人」と改めた。筋はルパンの焼き直しみたいなもので、大人ものを書くよりこの方がよほど楽であった、ところが、少年雑誌に従来そういうものがなかったと見えて、大いに受けた。
(「探偵小説四十年」収録「初めての少年もの」)
直接のモチーフは、やはりコナン・ドイルの探偵ホームズと怪盗ルパンでしょう。
しかし、その根っこの部分には、乱歩の「ジゴマ」体験も大いに反映されているということは言えるのではないでしょうか?
ちょっと今回は映画「ジゴマ」を理解しながら寄り道をしてみました。
私が学生時代夢中になって読んだ大正〜昭和初期の探偵小説の根っこに「ジゴマ」あり。
「ジゴマ」ブームの仕掛け人に四谷大木戸ゆかりの人物ありの模様。
嗚呼、なんという人生のリンク!
次回は、「ジゴマ」ブームと福宝堂、小林喜三郎の動きを追います。何とか四谷大木戸の大国座にたどり着きたい・・・・。
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[…] 続きです。 […]