【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】大国座と興行師・小林喜三郎の活躍
四谷大木戸の象徴のひとつともいえる理性寺の移転後、その跡地に1917年(大正6年)元日に「大国座」という芝居小屋がオープンします。
(写真:「四谷警察署史」掲載「吉原千代子氏提供」)
「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)から詳細を聞きます。
大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であったが、余り手をひろげすぎて破産し、他の者に大国座を委ねてしまった。
小林喜三郎。
むむむ。何とも興味深い人物。
「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年)から引用します。
小林喜三郎 こばやし きさぶろう 1880-1961
興行、製作。茨城生まれ。日本映画早創記の映画業者。活動写真の巡回興行から映画界にはいり、福宝堂、日活等を経て、1914年に天活を創立。16年に独立して小林商会を設立し、映画を製作するかたわら、連鎖劇の興行や外国映画の輸入などでも活躍。19年にアメリカ映画「イントレランス」Intolerance: Love’s Struggle Throughout the Ages (1916)の興行で儲けた収益で国活を創立するが背任横領事件で失脚。21年には直営の映画館を松竹に売却し、その後28年に三葉興行社を設立した。(田島良一)
[参]今村三四夫「小林喜三郎伝」三葉興行株式会社、1967。
その生涯をちらりと追ってみれば、なんとも派手に映画興行界で活躍(暗躍?)した怪人でありました。
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「世界映画大事典」と合わせ、田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)によれば、小林が映画興行の旨味と面白さに目覚めたのは、明治の4大映画業社のひとつ、横田商会(他は、吉澤商店・Mパテー商会・福宝堂。のちの1912年(大正元年)に「日本活動写真株式会社」(日活)に統合)の東京出張所(日本橋伝馬町/横田商会の本社は京都)に雇われていた頃。
(のちに日活に入る)石井常吉と共同でフランス人、ルイ・シュヴァリエの持参した映画数巻を購入して各地を興行し、大いに成功をします。
小林喜三郎(今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)掲載「肖像」より)
「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」から小林の言葉を聞きます。
どうせやるなら大きくやろうと、まず歌舞伎座を借りることにし、何か変わった宣伝はないものかと考えたところ、シュヴァリエがニインチ半のレンズを持っていることを聞き、これで極大の映写をすると、東京一の大劇場歌舞伎座の舞台でさえはみ出るくらいに大きく映ることが判ったので、これに限るとばかり、三六尺四方の大映画ということを売物にし大宣伝しました。三六尺というのは歌舞伎座の舞台の長さから取った数字です。
(中略)
宣伝が利いて大評判、市村座や寿座でも大入りでした。これが(明治)四一年の六月のことで、その八月末には、浅草の珍世界という、牛の骨や馬の骨を並べて見世物興行をしていた小屋を改造して、映画常設富士館を開き、石井君ほか数人の友人と経営しましたが、独力ではフイルムの補給がつかないので吉澤(商店)や横田(商会)の使い古しの映画を借りたり、浅沼写真店から外国映画を買って来たりして興行をつづけました。
36尺=約10.9メートル。
合わせて、歌舞伎座のサイト内「歌舞伎座百年」での初代歌舞伎座の大きさに関しての記述を見ます。
明治二十二年十一月三日に工事は終り、十一月十日に落成式。敷地は千九百五十五坪(約6,463平方メートル)で、外部は洋風、内部は日本風で三階建ての檜造り、客席の定員千八百二十四人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場であった。
間口十三間(23.63m)・・・??
あれ?? 倍以上の差があります。
小林が「歌舞伎座の舞台の長さから取った数字です。」
というところの「36尺」という数字が見当たらないのです。
実際より少なく言っているのがちょっと腑に落ちませんが、要は
「東京一の大劇場 歌舞伎座の舞台もはみ出る(スケールの)大きさで映画を見せる」
という売り文句は、相当なインパクトがあったのではないでしょうか。
小林の名興行師ぶりがうかがえるエピソードです。
(投影技術や画質の違いはあれど、現在でも幅20メートル超えとなれば、巨大スクリーンの映画館ということになるでしょう。)
この成功をうけ小林は、小林興行部を立ち上げ、映画配給ビジネスを行います。
その後、
七、八班の巡業隊と、八つの貸付契約館とをもって福宝堂の営業部長として入社したのです。入社して第一にかかった仕事が劇場の建築でした。
(「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」より小林談)
福宝堂は、もともとは、日本橋白木屋近くで製薬機械製造を営む会社でしたが(事業主名は賀田金三郎)、賀田の甥の田畑建造が映画事業に鞍替えして創業するにあたり、資金を賀田から得た事情からも、敢えて映画事業に関係のなさそうなこの名称を踏襲したとのことです。
「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」より、映画興行の状況を引きます。
明治四十一、ニ年頃、映画興行は急激な発展ぶりを見せ、東京初め各地に都市には争って映画館が建てられた。ところが当時の文化政策はまだ取締を厳にして、育成という面ははなはだ消極的だったので、映画館のようなものも、常設の許可は容易に得られなかった。もし幸いにして一つでもその許可権を得ようものなら、それは莫大な利権とされた。
娯楽としての映画が、どんどん社会から、人々から求められる一方で、まだまだ劇場の建設には制約があったわけです。
そんな背景の中、田畑建造と代議士川村惇との間に「なんらかの」やり取りがあり、「当局の意向が『一区内一館に限って許可する方針』らしい」と知ると、半ば強引な地上げ戦略に打って出ます。
高さ1丈くらいの棒杭を十五本作り、それに第一福宝館から第一五福宝館までの建設敷地をいう文字を大々的に書かせ、当時十五区あった東京市の各区目抜の場所に空地を求め、この「福宝館建設敷地」の棒杭を立て、地主を無理やり納得させて引き揚げた。
(「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」より)
というからすごい。
これからガンガン盛り上がる映画ビジネスで大いに儲けてやろうと、ギラギラとひた走った男たちは1910年(明治43年)7月6日に東京日日新聞の記者達たちを招き、玉川の一旗亭にて、合資会社福宝館の創立披露を行います。
社長は田畑建造で、副社長は(代議士だった)川村惇。
そしてわれらが小林喜三郎を営業部長に任命し、本社を日本橋区通1丁目13番地に置きます。
強引に地上げした土地への映画館建設の総指揮を執ったのが小林でした。
そして!
創立披露の月、1910年(明治43年)7月14日に最初にオープンしたのが荒木町の四谷第四福宝館でした。
ついにここで小林喜三郎と四ツ谷が結びつきます。
棒杭を立てた15ヶ所全てとは行きませんでしたが、小林喜三郎の陣頭指揮で、次々オープンさせて常設館は次の8ヶ所でした。
・第一福宝館(京橋区具足町)
・第ニ福宝館(芝区桜田本郷町)
・第三福宝館(麻布区新網町)
・第四福宝館(四谷区荒木町)
・第五福宝館(本郷区春木町)
・第六福宝館(下谷区竹町)
・第七福宝館(日本橋吉川町)
・第八福宝館(本所区若宮町)
小林の生涯を追った今村三四夫「小林喜三郎伝」(三葉興行・1967年)には、最後に第九福宝館(神田区)が1911年(明治44年)1月1日開館したと記されていますが、田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)には、
第八福宝館まで建て、第九は錦輝館を買収するはずでしたが、これが応じないので一まず打ち切りにしました。
という小林自身の言葉が掲載されています。
「第八福宝館までの建設」というのが信憑性が高い印象です。
しかし、また一方で永嶺重敏「怪盗ジゴマと活動写真の時代」(新潮新書・2006年)には、「ジゴマ」ブーム真っ只中、
福宝堂では、ジゴマのフイルムが度重なる上映で劣化してきたため、写りのいい新しいフイルムの輸入を目論んでいたようで、その新フィルムが(1912年(明治45年))二月一三日から神田錦町の錦輝館で封切られた。
とあることから、「第九福宝館」と改名はせずとも、福宝館により買収は行われたものと思われます。
さて。
各映画館のキャパに関しても、小林の言葉を聞きます。
福宝館の定員はいずれも三五〇人くらいです。
(「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」より小林談)
そうして、勢いでまず映画館を作ったけれど、すぐに上映作品の供給難に見舞われ、日暮里花見寺に撮影所を建設し、自社製作も手掛けるようになります。
そして、もうひとつ、福宝館の経営の安定を支えたのが、1911年(明治44年)に日本公開したフランス映画「ジゴマ」でした。
冒頭に戻りますが、「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)で、
大国座当初の興行師は、明治末年ギャング映画「ジゴマ」で当たりに当てた小林喜三郎であった
とある、「ジゴマ」と福宝館、そして小林喜三郎との関係とは如何に!?
また、8つの映画館のひとつ、第四福宝館を四谷区荒木町に作った責任者である小林と、四ツ谷大木戸の大国座の1917年(大正6年)オープンとは、どのように結び付くのか!?
大国座オープンまでのあと5、6年の物語をもう少し追いかけてみたいと思います。
[備考]
今回の史実の整理は「世界映画大事典」(日本図書センター・2008年)と田中純一郎著「日本映画発達史 Ⅰ 活動写真時代」(中公文庫・1975年)によるものです。
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