【四谷大木戸 理性寺跡の変遷】大国座オープンの日
1654年(承応3年)に開山し(1660年(万治3年)説もあり)、江戸、明治、大正と四谷大木戸を見つめてきた理性寺は、1914年(大正3年)に現在の杉並区永福に移転をします。
1912年(大正元年)頃の「四谷区全図」を見ても、これだけの敷地のお寺とお墓を移転するというのは、かなり大変なことだったのではと察します。
この移転が、当時大木戸から追分にかけて点在していた50数軒の貸座敷(妓楼)の存在による風紀上の理由だったのか(これらの貸座敷は4年後の1918年(大正7年)に新宿2丁目の牛屋の原跡地へ移転命令が出され、その後新宿遊廓の誕生となります)、それとも全く違う理由だったのかは、よくわかりません。
理性寺の移転理由を探ることは、またの機会の宿題としまして、今回は、理性寺の跡地の変遷に関して整理して行きたいと思います。
おもな情報ソースは「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)。
まず、1917年(大正6年)元日に「大国座」という芝居小屋がオープンします。
(写真:「四谷警察署史」掲載「吉原千代子氏提供」)
「大国座」の名前の由来は、理性寺に安置されている高さ約12cmの木彫りの「火伏せの大黒天」から来ていて、
「それ(大黒)をもじったもの」
という説が、四谷四丁目町会サイトの「特集 坂部さんに四谷の歴史を聞く」に記されていますが、果たして?
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「四谷警察署史」では、1976年の発刊当時舟町に在住していた久本十美ニさんという方の文章を取り上げています。
これは季刊雑誌「四谷百点会」9号(1973年秋?発刊日未確定)に「大国座の事ども」のタイトルで寄稿されたもの。
大正六年元日、四谷永住町に新築落成の大国座は初日をあけた。
その前日の大晦日の夜、私は塩町一丁目の家から歩いて、その開場準備の忙しい芝居小屋を見に行った。小学五年生の頃だった。今まで芝居を見るのは、赤坂溜池の演伎座、神田の三崎座で、親たちに連れられてゆくのだが、こんどは自分の区に芝居小屋が出来て、歩いて見にゆかれる嬉しさがあった。華やかな飾り付けや絵看板の灯に胸おどらせ、清掃の後の焚火に、工事人の忙しそうに動いているのを見てた。
(1970年代の久本十美ニさん:季刊雑誌「四谷百点会」9号掲載「大国座の事ども」より)
自分の地元に芝居小屋ができるというワクワク感が伝わってきます。
しかし不思議なのが、当時の地図や四谷地区の町名変遷を当たっても「塩町三丁目」(現四谷四丁目の外苑西通りの四ツ谷駅寄り)「塩町ニ丁目」(現四谷三丁目の新宿通り沿い)は確認出来るのですが、文中にある「塩町一丁目」という地名が見当たらないのです。
塩町三丁目と塩町ニ丁目の位置から察するに、現在の四谷四丁目の消防署の交差点(丸ノ内線 四谷四丁目駅)の四ツ谷駅寄りの舟町辺りかと思うのですが・・・・(どなたか教えて下さいませ)。
仮にここからだとすると、大国座までは700〜800m。小学5年生の足で歩いて10分ちょいくらいでしょう。
久本十美ニさんは翌日のオープン初日、舞台を観に大国座に再び足を運びます。
初日に私は切符売場の前に、大勢の人達と並んでいた。その時一台の人力車が勢いよく走り込んで止(原文ママ)まった。中から和装姿の男が降りた。当時小芝居の大立物で座頭の中村竹三郎だった。私も一目見てわかった。一寸並んでいる人達に会釈して、正面玄関へ消えた。
公益社団法人日本俳優協会と一般社団法人伝統歌舞伎保存会が運営しているサイト「歌舞伎 on the web」で、中村竹三郎(初代)の写真、プロフィールなど詳細情報が確認できます。
1917年(大正6年)元日の時点で35歳。
若さも残した男盛りであったことでしょう。
その他の演者に関しても久本十美ニさんによる記載があります。
出演俳優は、その外に歌舞伎界の大男市川団右衛門(後に菊五郎一座)市川紅若(後に吉右衛門一座)沢村伝次郎(後の訥子)前進座の中村翫右衛門が梅之助の頃、兄の歌門、尾上菊右衛門、関三十郎。岩井条(筆者注:恐らく「粂」の誤り)三郎、若手では岩井燕次郎、沢村清之助たちだった。
情報が確定出来そうな範囲で、プロフィールを追ってみます。
・市川団右衛門(ニ代目)
[プロフィール]
・沢村伝次郎(後の訥子)
[プロフィール]
・中村梅之助(三代目)
[プロフィール] ※出典不確か
・中村歌門(初代)
[舞台写真]
・尾上菊右衛門(詳細わからず)
・関三十郎(六代目)
[プロフィール]
・岩井粂三郎(五代目)
[プロフィール]
※出典ウィキペディアのため要注意だが、大国座出演の記載がある。
[舞台写真]
・岩井燕次郎(詳細わからず)
・沢村清之助(詳細わからず)
※でもやはりちょっとあやしいところもあるかも・・・。中村梅之助(三代目)と中村歌門(初代)がどうもおかしいな・・・。
初日の出し物に関しても、「四谷警察署史」に記載があります。
華々しい初日にふさわしい「三番叟」「黒子組助六」「乗合船」が出揃い観客を圧倒させ一段と雰囲気を盛り上げたが、なかでも若手の沢村伝次郎、中村歌門といった面々に人気が集まり楽屋口に若い女性が押しかけたというから、最近のファン気質とかわるところがなかった。
「三番叟」(さんばそう)は、おめでたい時に演じられる能だそうで、大国座オープンを祝う舞であったということでしょう。
「三番叟」の詳細は、岐阜自慢ジカブキプロジェクトにて。
独立行政法人日本芸術文化振興会のサイト「文化デジタルライブラリー」では、詳細とともに「三番叟」舞台映像が確認出来ます。
「黒子組助六」は、「歌舞伎十八番」のひとつ「助六」のパロディ(?)「黒手組(の)助六」の誤りと思われます。[参考リンク1] [参考リンク2]
「乗合船」は正式名称「乗合船恵方万歳」。
独立行政法人日本芸術文化振興会のサイト「文化デジタルライブラリー」に詳細が記されています。
隅田川を渡る船のセット。
乗合船で7人の人物が喜劇めいたやり取りをして、最後は七福神の乗った宝船にみたてた、福神の宝船の絵面を真似ておしまいになるという、やはりおめでたい演目。
いやぁ、実に楽しそうであります。
1887年(明治20年)年11月生まれの沢村伝次郎(後の訥子)は当時29歳。若い女性が楽屋に押しかけるアイドル的な存在だったのでしょうね。
少々情報の羅列気味となりましたが、大国座オープンの模様と、当時の地元の方の反応をまとめてみました。
「内藤新宿・大木戸・四谷四丁目 風俗史 wiki」にも順次反映します。
3件のフィードバック
[…] 前回からの続きです。 […]
[…] この間書いた、大木戸理性寺跡の1917年(大正6年)元日「大国座」オープンの話題。 […]
[…] これまでの小林喜三郎の足跡を見てきて、大国座オープン初日の興行であった「三番叟」「黒子組助六」「乗合船」という歌舞伎の出し物が、小林が手掛けたものと考えるのは不自然です。 […]