田辺茂一「わが町・新宿」再読で宝の山を掘る
写真:「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)掲載「大正5年郭の名残り『張り店』から娼妓の顔見せ写真に代わった」
前回からの続きでもあるのですが、数日前のFacebookでのノンフィクションライターの松沢呉一さんとのやり取りの中で、
紀伊國屋書店創業者、田辺茂一の著書「わが町・新宿」に今一度立ち返れ
という間接的な示唆を受けました・・・というか感じました(実際松沢さんはそうは言ってません)。
約半年前「わが町・新宿」に私が求めていた情報は、あまりに、あまりに局所的なものであったため、今改めて読み返すと全く違う面白さがありました。
明治の末、追分から大木戸に掛けて表通りにあった遊郭の風景、雰囲気の記述。当時を知るための資料の紹介など・・・あらまあらまなんとも宝の山。
取り急ぎ、下記を押さえて行きます。
・本書で田辺が語る遊郭の風景
【スポンサードリンク】・明治〜大正の四ツ谷を詳細に記した項のある「四谷警察署史 ー創立百年記念ー」(警視庁四谷警察署発行・1976年)
-「張り店」から娼妓の顔見せ写真に変わった様の写真
-要通りにあった遊郭の写真
-理性寺跡、大黒座の変遷の詳細と写真・「新宿高野百年史 創業九十年の歩み」(新宿高野・1975年)
-内藤新宿の江戸から明治までの言及
-社員の記憶を元に書かれた大正、昭和初期の新宿駅から追分辺りまでの商店名
-巻末「新宿高野百年史」の新宿史
-「わが町・新宿」にも掲載されていた「豊多摩郡内藤新宿の図(古老の記憶図から明治35年前後の駅前通り)」の大判
*てっきりこの地図は田辺茂一が自身の記憶を元に書いたもので、西は新宿駅、東は追分のちょい先までの地図なんだとばかり思っていたら、いやいやいやいや、さにあらず。さらに原本を当たれば、地図の東は大木戸の少し先まで詳細に楼閣、商店名までの記載あり。貸座敷、引手茶屋には印もついてるお宝資料。(新宿歴史博物館の学芸員さんによれば「確か新宿区中央図書館の職員だった方が書いたもの・・」とのお話でしたが、果たして。)・加太こうじ「江戸っ子」(淡交社・1972年)
-「わが町・新宿」で2回に渡って触れられている田辺茂一と交友(交際?)があった、新宿女郎部屋住吉楼の娘として生まれた神垣とり子のバイオグラフィーに1章が割かれている。
ご馳走多すぎです。
・・・・少しずつ整理して行きたいと思います。
【追記】写真のキャプションをよく見ると「第二不二楼」の文字が確認できます。