「遊郭」と「花街」の切り分けはブルースとロックのごとし

写真:「四谷警察署史」(警視庁四谷警察署発行・1976年)掲載「新宿要通りにあった遊郭」
1918年(大正7年)に、大木戸から追分にかけて点在していた貸座敷(妓楼)53軒に対して新宿2丁目の牛屋の原跡地(もとは芥川龍之介の実父が経営する耕牧舎という牧場だった)への移転命令が出され、新宿大火を経ながらも、1922年(大正11年)に移転が完了し、新宿遊郭の誕生となる。
一方、同じく1922年に、大木戸が花街として(まず)二業指定を受ける。
この流れを知って、
はて。「遊郭」と「花街」の切り分けって誰がどのようにしてたの?
という疑問にぶつかりました。
そんなこんなをFacebookに書きなぐっていたところ、ノンフィクションライターの松沢呉一さんからご教示いただき、下記の解説をいただきました。
・花街は一般には(料理屋・待合茶屋・置屋で構成される)三業地を指し、遊廓とは別。ただし、遊郭、花街の両者はもともと出所は同じであり、のちのちまで茶屋では芸妓と娼妓が重なることもあった。
・花街は広く遊廓と三業地を合わせて呼ぶことがあったが、それは飽くまで俗称として。
・ただし、内実としては枕芸者が中心の花街も多く、私娼の一形態とも言える。赤坂、新橋は別格ですから、いわゆる「転び」という枕芸者はいなかったらしいが、他の地域では限りなく私娼に近い芸者がいて、やっていることは同じでも、遊廓の公娼とは別。芸妓という商売は公的でも、この場合の売春は私的。これは物理的重なりや制度的重なりではなく、内実の重なり。
・芸妓は茶屋で客を接待し、そこから客は娼妓に引き渡される。つまり本来芸妓は娼妓の前座であり、明治以降も「芸娼妓」という言葉があるように両者はワンパックにされ、制度としては別でも、もともと遊廓に付随するのが狭義の花街である。
・そこに重なりはあるが、明治以降、これが分離されていき、芸妓と娼妓の地位の逆転も起きます。いつの間にか前座が偉くなっていき、別物として発展していくということも起こった。[詳細]
【スポンサードリンク】・もとはと言えば芸妓は娼妓の前座であり、盛りたて役だった。つまりは芸妓は娼妓に至るまでの場を盛り上げるたいこ持ちであった。男芸者から始まって女芸者が出てくるのですが、明治以降は、表向きは、売春するところとしないところで区別され、芸妓は芸をするところまでが仕事。
・法律も別。業態としても、芸妓は派遣業で、置屋に所属し、お座敷が仕事場。娼妓はお座敷に出ることもあれど、貸座敷に所属し、客を自分の部屋に招き入れる。
なんとも明解!
視界がぱっと開ける思いでした。
(しかし、文章を書くことを生業にされていらっしゃる方にここまで、レクチャーしていただいて恐縮至極。私は引き続き松沢さんの著書を求めます。)
さて。
このお話の流れで
「ブルースとロックの関係に近いかな。」
という例えが見事で、思わず膝を打ったのであります。
以下、非っっ常に乱暴な例えをしますが・・・。
ブルース音楽やカントリー音楽のテンポを上げ、リズムを強調した音楽が、ロック・ミュージックとして発明? 派生? 発展?するわけですが、
「じゃ、ブルースのリズムを強調したリズム&ブルースはロックなのか?」
「ブルース・ロックってのは、何なんだ?」
と、問われれば、
「それもありますねぇ。」
とか、
「そういった音楽もご用意してございます。」
とお答えするしかないわけで・・・。
ただ、日本では、裕也さんが長なのかどうかわかりませんが「ロック畑法」と、憂歌団辺りが長なのかどうかわかりませんが「ブルース畑法」ってものがあって、ブルースとロックの線引きはされていると。
(これはものの例えですよ!)
でも「リズム&ブルース」も「ブルース・ロック」も確かに存在するのです。
ブルースとロックは音楽のジャンルとして畑が違うところもありつつ、切っても切れない関係性があるというところと、遊郭と花街、芸妓と娼妓の関係を重ねることで、より理解が深まりました。
松沢さん。さすがです!
ありがとうございました。
1件の返信
[…] 前回からの続きでもあるのですが、数日前のFacebookでのノンフィクションライターの松沢呉一さんとのやり取りの中で、 […]