【大木戸・四谷四丁目史】明治30年代の大木戸散歩
今回は、明治30年代(1897年〜1906年)の大木戸、四谷四丁目辺りを。
メインの資料は、東陽堂発行のグラフ雑誌「風俗画報」の臨時増刊「新撰東京名所図会」(陸書房刊・第11編 明治30年12月25日発行〜第43編 明治39年8月1日発行)を。
当時、この辺りの地名は永住町。
地図は同書に掲載されている「四谷区全図」(1903年[明治36年]発行)。
以下、引用の記述は1901年(明治34年)9月に関して。
●四谷永住町
◎位置
四谷永住町は。四谷区の西隅に在りて。其の東は○(おそらく「塩」の旧字の「鹽」)町3丁目と屈曲してその界を交え。西は大木戸を越て豊多摩郡と相接し。
南は路を隔てて同郡の一部に対し。北は牛込区に隣れり。其の地の中間は凹谷にして。近年まで古池ありたり。当地は一より三十六に至る。其の中十二、十四、十五、二〇を缺(欠)く。
「其の地の中間は凹谷にして」は、現在も大木戸の交差点(四谷四丁目交差点)を靖国通り方面へ曲がり、左右を眺めながらしばらく歩くだけですぐにわかります。
現外苑外通りは、四谷四丁目交差点からぐぐっと下り坂となります。
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写真ではわかりづらいかもしれませんが、結構な急斜なのです。
しかし左右の建物は高い位置にあり、つまり外苑外通りを底に崖のような地形になっているのです。つまり、この凹谷に沿って道路が作られているのですね。
歩道から左手を見れば急な階段も。土地の高低差が良くわかります。
参考資料として、1912年(大正元年)頃の永住町の地形が良く表された地図を。
理性寺を赤丸で囲っておきます。
「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会・1912年(大正元年)11月7日発行)より。
あと、ここにある「古池」ってどの辺にあったんでしょうね。気になります。
◎町名の起源
四谷永住町は。其の過半は舊(旧)田安家の邸址。其の地は柳生但馬守の下屋敷幕府諸士の宅地と寺院と構地なりしを。明治の初年(1868・69年)に之に併合し。祝して以て此名を附せり。
かつて理性寺横に田安家邸があったことは、1850年(嘉永3戌年)頃の地図「〔江戸切絵図〕四ツ谷絵図」にて確認できます。
◎麹屋横丁
(略)◎景況
当町は寺院を除くの外。新開の市街たるを以て。居住者も一定せざれども。龍昌寺横町より西に入りし所には。木賃宿多く。大木戸近傍には商店等あり。西北の方には大抵官吏等の邸宅なり。久米彌氏の邸は二番地に。猪俣牛乳商店は一番地に在り。●理性寺
理性寺は、永住町十三番地に在り。即ち大木戸の通りなり。法真山を号す。日蓮宗越後本成寺末。開山は日充聖人。萬治三年の創立にして。久世三郎右衛門の開基なり。
(以下略)
本書には当時の理性寺周辺の絵が掲載されていて、これが実に味わい深いです。
現在の風景はこんな感じ。
これを描いたののは、「風俗画報」の報道画家であった山本松谷。
まだ写真技術が報道においての活用に追いついていない時代、取材現場の最新の様子はこのような報道画を用いられていたとのこと。
山本松谷は、今の報道カメラマンのような役割をしていたようです。
1870-1965 明治-大正時代の画家。
明治3年11月9日生まれ。東京へでて滝和亭(たき-かてい)にまなぶ。明治27年グラフ誌「風俗画報」の絵画部員となり,20年間に表紙,口絵,挿画など1300点をえがき,報道画家として名を知られる。日本画「野路の雨」「富岳」などの作品もある。昭和40年5月10日死去。94歳。高知県出身。名は茂三郎。別号に昇雲,小斎。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
とても興味を持ったので、彼のバイオグラフィーと作品を追った山本駿次朗著「報道画家 山本松谷の生涯」(青蛙房刊・1991年)を購入しました。
明治の東京名所、行事、時に災害の様子など事細かに描かれていて、眺めているだけで夢中になってしまいます。
(これにグッと来た方は、今中古で安く出ている間に買っておいた方が多分良いと思います。)
そんなわけで。
今回はこの辺りの地形に関してと、当時のグラフ雑誌で描かれた理性寺の絵と作家山本松谷のご紹介でした。
そんなこんなは「内藤新宿・大木戸・四谷四丁目史wiki」にも反映いたします。