【大木戸・四谷四丁目史】昭和16年の大木戸散歩
新宿、四ツ谷、大木戸の古い地図がたくさん集まっています。
ひとり飲みながら眺めてニヤニヤしてるのもどうかと思うので、少しずつ整理をしようかと。
地図満載で楽しくて仕方がないのが、新宿区教育委員会が1983年3月に発刊した「新宿区地図集ー地図で見る新宿区の移り変わりー」という資料。
中でも、P56〜57に掲載の1941年(昭和16年)の地図「四谷区詳細図」が、細かく施設名も載っていて面白そうなんだけど、いかんせん広域地図を52%縮小でA3に納めているので、文字が判別出来ずにモヤモヤ。
そこで国会図書館のデータベースで所蔵を確認すると、この地図の出典は1枚ものの「大東京区分図三十五区之内四谷区詳細」(日本統制地図・1941年刊・大きさ49×70cm)であることがわかりました。
すぐに、「大木戸辺りを中心に文字が判別出来ますよう」と遠隔コピー申請を。
数週間後、ご馳走が到着しました。
画像は、市電大木戸駅、現在の四谷四丁目交差点を中心にして、西は現新宿御苑駅そばの防火の神様、秋葉神社(画像ではトリミングしてしまいましたが、この当時から秋葉神社の隣にはすでに消防署があったのですね。本地図表記は「四谷消防署」、現四谷消防署新宿御苑出張所)、東は塩町3丁目(現愛住町)あたりを。
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以下は、ほぼ同エリアの現在の地図。
「新宿シネマ」の文字が見える場所は、江戸時代から大正3年(1914年)に杉並区に移転するまでこの地の象徴のようにあった理性寺(りしょうじ)跡。
理性寺に関してと、その後の跡地が大国座から始まり劇場としてたくさんの人を楽しませる場であったという歴史を追うと、それだけで何本もネタが書けそうなので、それはまたの機会に。
娯楽の場としての理性寺跡の歴史は、四谷四丁目町会サイトの記事「特集 坂部さんから四谷の歴史を聞く」の下の方「注14:大国座」にコンパクトにまとまっていてわかりやすいです。
注14:大国座 新宿通りを挟んで四谷地域センターの向かい側に理性寺があった。寺は大正時代の初めに杉並区に移転し、大正6年1月、その跡地に定員1200名、3階建ての大国座という芝居小屋ができた。寺に 大黒堂があった為それをもじったものだった。ここには沢村伝次郎、中村翫右衛門などが出演し、山の手の歌舞伎座として有名であった。しかし、大正7年と大正12年の2度にわたる火災などによって観客が離れ、昭和4年には松竹に身売りした。新宿松竹座となったこの劇場は、パラマウントの封切映画館となり、同時に東京松竹少女歌劇の初公演も行われた。水の江滝子や川路竜子はここで初舞台を踏んだのである。レビュー劇場としてエノケンなども出演した。新宿歌舞伎座、新宿大劇場などと名前を変えて存続したが、昭和20年5月の戦災で惜しくも焼失、その後は遂に再建されることはなかった。
新宿シネマは、この数年後、戦災でなくなってしまうのですね・・・。
【追記】2017.1.28.
厳密には、その後の1942年にこの地を松竹が(再び)賃借、「新宿大劇場」と改称、1944年「新宿松竹座」に改名(復名)したという経緯があるそうです。
次に、新宿御苑の大木戸門から新宿通りを大木戸の交差点のある市電大木戸駅方向へ向かう途中、右手には、
・区役所
・水道局出張所
・水道ノ碑
・東京瓦斯(ガス)営業所
の文字が。
ここは現在、四谷区民センターがある当たり。
水道局と水道の碑があるのは、江戸時代から、羽村より飲料水を運んだ玉川上水が通っていて、大木戸は上水の水質、水量、上水内のゴミや異物の監視を行う、重要な水の関所、水番屋が設置されていた名残りかと思います。
大木戸と玉川上水の歴史は、新宿区の「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」に詳しいです。
水道の碑は今もそのままここに残っていますし、四谷区民センター内には、
4階 東京都水道局
3階 東京都水道局新宿営業所
2階 新宿区四谷特別出張所
と役所も水道局も残っています。
「東京ガスの営業所はどこに行ったんだろう」と探していたら、消防署のある四谷三丁目の交差点を市ヶ谷方面に曲がったところに、「東京ガス四谷クラブ」という謎の会員制レストラン、宿泊施設を発見。果たしてここは?
そんなわけで、地図を片手にミニ散歩でありました。
そんなこんなは「内藤新宿・大木戸・四谷四丁目史wiki」にも反映いたします。