【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)
(title design/S.Takei)
誰も区切ってなどいないのですが、そろそろこの楽しいタイムスリップの旅も、時間切れが迫っている気がいたします。
実に、実に名残惜しいのですが、このラストスパート。
ご一緒にトルコ「大木戸」に向かってみましょう。
新宿を背に新宿通りの四谷大木戸交差点の手前を左に曲がれば正面にその姿が見えてきます。
お忍び気分なら四谷大木戸交差点を、右手に「大木戸」の看板を見て心躍らせながら環状4号線(外苑西通り)靖国通り方面に曲がり、ふたつ目の通り、左の坂をひょいっと上がり、「自慢荘」の手前を右に曲がる。四谷大木戸交差点を曲がった頃には、「大木戸」の袖看板も見えているかもしれません。
撮影:1964年(昭和39年)9月25日
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撮影:1964年(昭和39年)9月25日
撮影:1977年(昭和52年)
1966年6月30日、ビートルズのローディのマル・エヴァンスは、協同企画の中村実氏に連れられてここにやってきたわけです。
「自慢荘」前に車を付けて降り、向かえの新宿駐車場に車を停めたのでしょうか。
トルコ「大木戸」に到着。
黒い煙突は、木戸とトルコ「大木戸」の入り口の間の、ちょっと見上げるところにあったと言います。
[柳谷様] よくこの入口のところに石油屋さんの車が停まってたのを覚えています。お風呂のボイラー(石油給湯器)のため。
でも、昭和40年くらいから「自慢荘」に出入りしていた酒屋さんに聞いたら「煙突は地中からダクトのようなものが出ていて、調理棟の外壁を伝って屋根にいたる煙突のようになっていたという記憶がある。」と言っていました。
後にそういう風に変えたのか、このイラストは僕が子供の時の記憶なので、酒屋さんの話が正しくて、別のトイレの排気みたいなものを間違えて覚えていたのかもしれません。
そうすると何人かの人が「煙突があった」というのは「ああ、そうなのかな」と納得が行く気がします。
酒屋さん曰く「色は多分黒かった。」と。
そこに「トルコ」という文字が書いてあったかというと「覚えてないなぁ。」ということでした。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様のイラストに、誠に失礼ながら手を入れさせていただき、酒屋さんの証言を絵にするとこんな感じになるのでしょうか?
複数の方から「大きな黒い煙突があった。」という証言があったことと結びつけるなら、確かに煙突は、このくらいの高さがあると自然な印象になるかもしれません。
ただ、「煙突に『トルコ』という文字があった。」という証言は、すぐ横にあった袖看板の存在の記憶と混ざっているのではという気がしてなりません。
また一方で、
[柳谷様] でも「自慢荘」で働いていた仲居さんは、「煙突に覚えはない。」って言ってました。
ということで、「大きな煙突」問題は完全にはクリアにはなりませんでした。
次に、トルコ「大木戸」の入り口付近はどんな雰囲気だったのでしょうか?
[柳谷様] 入り口横の看板も、袖看板も光らないものでした。光るものをいえば、入り口が明るかったぐらいじゃないかな。知ってる人しか来ないという感じだったから。
けばけばしいネオンがあったわけではなく、入り口辺りの雰囲気は、シンプルで落ち着いたものであったのかもしれません。
では、階段を降りてトルコ「大木戸」の店内へ向かってみましょう。
[柳谷様] 子供の頃、遊んでるとボールがみんなここ(トルコ「大木戸」)に入っちゃったりするんですよ。で、ボールが階段の下の方に落っこちてしまって。で、お店の人が「いいよ、入って取っておいで。」なんて声を掛けてくれたのを覚えています。
ということは、階段のところには扉がなかったということではないでしょうか?
[柳谷様] 覚えているのは、入り口からすぐ階段だったんです。そこを降りて行くと、木戸みたいな・・・赤いガラスの扉があった気がします。
そして中に入ると、すぐに左手に小さい受付のようなカウンターがあって後ろの壁にカレンダーかなんかが貼ってあった。
右手にはピンクのモザイクタイルのようなものを埋め込んだ浴槽のようなオブジェ・・・水が張ってあって・・・花を活けようとでもしていたのかな・・・そんなものがありました。
その上の方に青とピンクの電飾が施されていたように思います。
その奥に4つか5つピンク色の扉があったと記憶しています。そこが個室だったんでしょう。
とにかく一面ピンク、ピンクという感じでしたね。
そして、柳谷様におうかがいしていただいた、当時の従業員だった方の証言で、さらに具現化されました。
[C様] 入って向かって左手の一番前が受付で、その裏が待合室だった。待合室の後ろに個室が1〜2部屋。
向かって右手の変なオブジェのようなものの後ろはすべて個室で、3~4部屋あったような気がする。
奥の方は事務所やボイラー室だったような気がする。
[柳谷様] あと、さっきの酒屋さんの話では、「個室の扉には船の舷窓のような丸窓が付いていて、出前に来た近所のお店の旦那さんがそこから必ず中を覗こうとしてたんだよねぇ・・・。」って言ってました。
かつて「その8」で取り上げた、匿名掲示板で語られていたトルコ「大木戸」の記憶
5 :名無しさん@入浴中:02/03/13 12:31
大木戸・・・・。
懐かしい・・・。
ホテル本陣の側だよね。
着物姿が懐かしい・・・。
10 :special love:02/03/13 20:57
個室サウナ 大木戸…今はもう無いんだ
夕方行くとタイムサービスで安かった。
個室に入ると赤い壁に赤い絨毯。ベットがあって岩風呂風のお風呂があった…
36 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:39
懐かしい店名だな。
そう半地下のお店で小さな部屋が向かい合ってて、
女郎屋を思わせるような淫靡な造りだったね。
37 :名無しさん@入浴中:02/06/02 18:42
遊郭の香りのする所だったね。
と合わせて想像をふくらませると、トルコ「大木戸」の姿が活き活きと目の前に現れて来るようです。
お話をおうかがいしながら、柳谷様に目の前でさささっと描いていただいたトルコ「大木戸」入った正面からのイラストを掲載します。
そして稚拙ですが、大木戸の見取り図を描いてみました。
つ、ついに私たちは、ポール・マッカトニーですら訪れることの叶わなかった、あの、トルコ「大木戸」の店内の様子までも共有したのです!
次に、トルコ「大木戸」の雑誌での取り上げられ方も見てみます。
「その手のお店の情報誌を当たれば写真の1枚2枚なんて、ぱぱっと出てくるもんだろう。」
と、どこかで考えておったのですが、それは完っっ全に甘かったです。予想以上の苦戦でした。
「1960年代後半から1990年代半ばに掛けての風俗ガイド本、情報誌を当たるべし!」
と、古書店を当たれば、
「そういうのは、時々出てくるんだけれど、売れないだろうと捨てちゃうことが多いんだよね。」
という回答を数店から。
オークションサイトで片っ端から落札しても、空振り続きでした。
並行して、大宅壮一文庫に数回通い、1960年年代前半から1996年の範囲で
「『新宿』or『トルコ』『ソープ』『サウナ』」
のキーワードで、雑誌掲載記事が約100件、その他データベース化されていない目録から、上記のキーワードや「プレイスポット」などの分野からピックアップした記事が掲載された百数十冊にトルコ「大木戸」の掲載記事を探しました。
私の探し方の力不足もあるのでしょうが、見つけることができたのは、かろうじて2つの記事だけでした。
掲載はともに「週刊現代」。
まずは、1979年(昭和54年)4月12日号 P194〜196掲載記事「トルコロジー細密描写!! 若者の街 東京・新宿トルコただいま30軒『遊びの不毛地帯でした』」掲載の「新宿・トルコ風呂ガイド」。
記事の内容をざっくり書くと
「新宿という、時代の最先端を行く街にしては、サービスが古くさい。」
という否定的なトーンが基本なのですが、一方で
「この古典的サービスにこそ味わいがある。」
といった一体何が言いたいのかと少々論旨がブレブレ。
「大木戸」の紹介には
新宿御苑前の裏通り。料亭風の造り。伝統的なプレイと好評。
とあります。
「料亭風の造り」なんじゃなくて、料亭にトルコ風呂を造ったんですよ。
続いて、1979年(昭和54年)9月6日号 P161〜163掲載記事「残暑ピンク・リサーチ!!『トルコの古典的プレイWS(ダブスペ)サービスをいまもやっています』」掲載の「古典的トルコ20 (丸中数字)1」。
ここでは、先ほどの記事とうって変わって、
「指と掌で名器より素晴らしい味を!」
「現在トルコといえばフルコースがお決まりだが、捜せば昔からのスペシャル、ダブルスペシャルをちゃんとやってくれる店がある。」
「本番オンリーの店が多い中で50分間一万円で味わう”戦後風俗史”の原点のスタイルを発見」
と古典トルコ礼賛。
「大木戸」の紹介には
新宿の中心から離れているだけに、お忍びの遊びに最適。トルコ嬢の質も良好。
とあります。
また、松沢呉一さんからは、Facebookを通じて下記の雑誌掲載の情報をお寄せいただきました。
数日前に、ダンボール箱ふたつ分、古いエロ雑誌を入手したのですが、90年代の風俗雑誌のリストにも出ておらず。おそらく広告を出すようなことはしていなかったのだと思われます。それ以前のガイド記事にも出ていないのですが、ひとつだけ発見しました。「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号に、「芸者にトルコ、スターの遊び場は」という記事があり、「京浜地区の歌磨呂、都内の大木戸なんて有名だったなあ」というコメントが出ています。横の写真は大木戸ではないと思いますが、そこには「ご存知『歌磨呂』『大木戸』」の文字があります。(2016年7月31日 2:40)
(画像提供:松沢呉一氏/「HOTマガジン」(司書房)昭和49年2月号)
おっ!この写真はついに「大木戸」を捉えたものか!?
おうかがいすると
この雑誌は、成人映画のスチールなどを適当に使っていて、わざわざ写真を撮りに行っているわけではないでしょううから、トルコっぽい写真を出しているだけだと思います。右ページと左ページは別の写真で、右はネオン、左はビルの入口っぽい。(2016年7月31日 8:11)
うーん。残念。
しかしこれら雑誌記事での取り上げられ方を見るに、キーワードが「古典的」だったり「お忍び」だったり「知る人ぞ知る」だったりと、「大木戸」がどのようなお店だと記者たちに認識されていたかがよくわかります。
あと、もう少しあとの時期の雑誌ですと、ソープランド専門情報誌「月刊ミューザー」(おおとり出版)1988年(昭和63年)10月号の巻末リスト「日本全国色めぐり」に店名を見つけることが出来ました。
なんとか最後までに、トルコ「大木戸」の外観写真でも、内装写真でも、姫の紹介写真でも1枚雑誌から見つけたかったのですが、力及ばず時間切れ。
これは宿題に残させて下さい。
松沢呉一さんのコメントにもあったように、あまり積極的に広告を出していたお店ではないと思われ、「知る人ぞ知るお忍びの店」で充分に商売になっていたのか、そもそもあまり商売っ気がなかったのか・・・。
ただ、トルコ風呂が辿った時代の変遷をみると、なんとなく見えてくるものがあります。
以前もご紹介した「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)の中の1章、木谷恭介著「トルコの世界」から少し長めに引用します。
トルコ風呂の変遷を考える上で、重要な日が二つある。
一つは昭和四十一年七月、風俗営業法の一部改正で、トルコ風呂の新築営業の認められる地域が指定されることになった。
(中略)これが、後にトルコ風呂密集地域を生むことになったのだが、もう一つは昭和四十六年四月、千葉県が県条例を改正し、個室廃止を打ち出した。
一室の床面積を二十平方メートル以上とし、三人以上の相部屋とした。
この条例は画期的なものだったが、実際には三人用の部屋を個室として使用する結果となり、それまで千五百円程度だった入浴料が一気に五千円とアップ。サービスもエスカレートし、豪華大名トルコが全国に普及した。
地域指定は新しい赤線を誕生させる結果となったし、個室撤廃は料金の高騰と、それに見合う密度の濃いサービスを招いただけでしかなかった。
(中略)昭和四十六年以降と以前では、トルコ風呂の質的な変貌が著しすぎ、同じ遊興施設として論じることに無理がある。
そこで、便宜的に四十六年以降を近代トルコ、以前を古典的トルコと区別して考えることにしたい。
(中略)
一般週刊誌がトルコ風呂のレポートや紹介記事を掲載するようになったのも、四十六年十二月以降のことで、それまでは風俗ものの記事としては、全く扱われなかった。
現在、私たちが何気なく話しているトルコ風呂とは、近代トルコのことであり、古典的トルコは歴史の彼方へ埋没していこうとしている。(P178〜180)
1960年代前半から約十年間とされるトルコ風呂の第1次黄金時代のはじめに、経営を思いたったものの、建築に4年もの歳月が掛かってしまい、ブームには後乗りになってしまった。
雑誌などメディアがトルコ風呂を取り上げ始めた頃には、その存在が「古典的トルコ」の分類となってしまい、なかなか取り上げられることがなかった。
経営者を変えながら、営業を続けてきたが、1995年というインターネット普及前夜に閉店してしまった。
もちろん「知る人ぞ知るお忍びの店」というスタンスを長年貫いたというところもあったのかもしれません。
しかし、トルコ「大木戸」が、メディアに記録をほとんど残さなかった理由はこんなところにあったようにも思えます。
そんなミステリアスな姿もまた、トルコ「大木戸」が、私たちを惹きつける魅力なのかもしれません。
そんなわけで。
ビートルズ来日から50年。
1966年7月1日の午前中。
ポール・マッカートニーがホテルを脱出して、訪れようとしたけれど叶わなかった「四谷の外国人が喜ぶおフロ」を探す旅は、トルコ「大木戸」の発見と存在証明という充分な成果を上げることが出来たのではと自負しています。
正直、書きづらいこと、ホントはもう少し粘りたかったところも残しているのですが、どこかで続報としてお伝えできればと思います。
途中、脱線やテーマの拡散が激しくなったことをお詫びいたします。でも脱線と拡散の中に、小さな本質が見つかることもよくわかりました。ただ「全部書く必要はない」ってことですね。
また、一部のポール・マッカートニーのファンの方や、ビートルズマニアの方におかれましては、不快感やお叱りの声もきっとあったことと思います。
そもそもポールはトルコ「大木戸」には行ってないわけですから、そこをわざわざ掘り返すなんて・・・と、ホントごもっともなことだと思います。
しかし、私も長年のビートルズ好きの端くれとして、来日50年の節目に遊ばせていただいたと、何とか大目に見ていただけましたら幸いです。
いやぁ。
まさかこんな濃密な歴史の旅になるとは思いませんでした。
休みの日にめちゃめちゃ歩きまわった日々を振り返り、ほうぼうから手に入れ部屋に山になった資料をみながら、ホントにこれがたった1ヶ月間ほどの出来事だったという事実が不思議でなりません。
こんなに自分が夢中に突き動かされたのは久しぶりです。
途中なんどかしんどくなったけれど、ホント面白かった。
最後にこの写真を。
新宿を背中に新宿通りの四谷四丁目交差点の手前を左に曲がり、まっすぐ立ちます。
今となってはこれまで何度も何度も見た大好きな景色。
左右に高い建物が建ってしまっているけれど、私にはまずちょっと先の右に連れ込み宿の「新御苑」、左手に「自慢荘」が。
正面突き当りに「自慢本店」の黒い塀が、手前に「多満川」さんが。
そしてそして「多満川」から手前に「自慢荘」に戻る中途に、トルコ「大木戸」の袖看板とほのかに光る入り口の灯りがはっきり見えます。
こういう場所にふらっと粋に遊びに行く、そんな大人になりたいです。
そんなわけで。
力尽きました。ご清聴誠にありがとうございました。
(了)
【あとがき】
このシリーズ・・・シリーズになるとは思ってなかったのですが・・・ホントたくさんの方のお世話になりました。振り返れば・・・写真提供いただいた新宿歴史博物館様、四谷図書館のE司書さん、初期段階の貴重な証言をいただいた旅館「長良川」ご主人様、貴重な証言とお写真をご提供いただいた四谷四丁目町会のみなさま、そして町会の窓口となっていただいた大木戸藪蕎麦店主小林様、密なあまりに密な四谷四丁目のタイムトラベルにいざなっていただいた「多満川」ご主人柳谷様・・・などなど。
みなさまには感謝の気持ちでいっぱいです。そして、Facebook上で要所要所でヒントをいただいた、敬愛するノンフィクション・ライターの松沢呉一さん。
「知りたいことがあるのなら、知ってそうな人のところに行って聞いちゃえばいいじゃない。」
と言外のコメントで背中を押していただかなければ、このシリーズは存在しませんでした。長期化してしまって、後半はいい加減関わりたくなかったかと思いますが・・・ありがとうございました。
ものを知る、調べるってことの良い勉強になりました。あともちろん、今回の気付きを私に与えて下さった本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんへの感謝ももちろん忘れてはおりません。
今回の取り組みは、宮永さんの長年の緻密で執拗で詳細なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みであったことを重ねて申し上げます。
タレントの松村邦洋さんがYouTubeで「思い出風俗ベスト1」に「大木戸ソープ」を挙げてました。
(既出でしたらすみません)