【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その15

(title design/S.Takei)
最終章第3回。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様からおうかがいしたお話を振り返りながら、割烹「自慢荘」とトルコ「大木戸」の建物の構造を、パズルのピースをひとつひとつはめていくように明らかにしていくと、どうしてもどうしても引っ掛かる箇所に遭遇してしまうのです。
当初からの疑問でした
「トルコ『大木戸』は地下か? 半地下か? 問題」
がもう一度目の前に立ちはだかって来るのです。
いやいや「地下」だってことはもうはっきりしたじゃない。
って?
はい。そうなんです。
何度かご紹介しているこの柳谷様のイラストを見ても、トルコ「大木戸」が階段を下った地下にあったということは明らかです。
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柳谷様にお話をおうかがいした際も、このイラストから
「トルコ『大木戸』は地下にあった。」
ということを確認し、中の構造や雰囲気(もちろん後述します)に関しても知ることが出来ました。
でも、待って下さいよ・・・。
・1950年代半ば〜60年代半ば(昭和30年代)の技術で、木造建築の建物に後から地下(ましてそこにトルコ風呂を営業できる施設)を作ることが出来たのでしょうか?・それとも前後2棟の「自慢荘」全体が、建築された当初から「地下」または「半地下」を持つ構造だったのでしょうか?
・上記の柳谷様ののイラストを見ると、「自慢荘」2棟の後ろの棟(調理場と住居とされる)のみの地下に「大木戸」があったように見えます。後ろの棟だけに後から地下を作ったのか、それとも建築当初から地下をもつ構造だったのでしょうか?
ここはどうしても白黒はっきりさせなきゃいけないところではないでしょうか?
「地下のトルコ風呂がどうやって出来たか考えると、夜も眠れなくなっちゃう!」
・・・ということで、誠に恐縮の極み。
料理屋「多満川」ご主人柳谷治様に再度お時間を頂戴してしまいました。
そして、いきなり柳谷さん口から語られた真実に、思わず絶句してしまいました。
[柳谷様] 昭和32年(1957年)頃に「自慢荘」に勤め始めた仲居さんから話を聞いてきました。
その方が入って2〜3年後に、「自慢荘」のお客さんだったとある新宿の呉服屋さんが、当時の「自慢荘」の経営者にこんな話を持ちかけたそうです。
「なんか、今『トルコ風呂』っていうのが流行ってるみたいで、オレも是非やってみたいんだけれど、お前さん造らない? オレが経営するから。」
その話に「自慢荘」の経営者が乗って、調理場と住居側の後ろの棟を全部建て替えたんですって。
全部建物を一度壊して、地下を掘って掘って・・・。
ものすごいお金を掛けて、贅を尽くして造ったそうです。
しかも重機も大したものがない時代ですから、かなりの難工事で、結果、建て替えに4年も掛かっちゃたそうです。
えーー!?
トルコ「大木戸」誕生のきっかけは、何とも壮大な金持ち同士の道楽だったのです。
さて。
ではここで、事実と時代背景等を合わせて見て行きましょう。
柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたのが昭和32年(1957年)頃。
お客さんだった呉服屋さんが、「自慢荘」の経営者に「トルコ風呂ってのが流行ってるからやってみたい」と話を持ちかけたのが2〜3年後・・・つまり昭和34〜6年(1959〜1961年)頃。
本シリーズ「その12」で書いたトルコ風呂発展の経緯を振り返ってみます。
戦後、銀座に1951年(昭和26年)オープンし、トルコ風呂という存在を広く世に知らしめ、その後のトルコ風呂発展の礎となった「東京温泉」が活況を制したことで、トルコ風呂は、まず上野浅草に、そして新宿、五反田、渋谷、池袋などへと続々オープンした。
一方、1957年(昭和32年)の売春防止法の施行(この年は客引きなど一部の施行で、全面施行は翌年)で、青線赤線業者は業態変化を余儀なくされ、トルコ風呂の経営に乗り出す。
新宿2丁目の御苑寄りに「御苑トルコ」がオープンしたのが1959年(昭和34年)。元は新宿青線の「初夢」という店だったとされる。
※参考資料〜別冊週刊サンケイ 1960年5月1日号「女千人に浴室八百 −トルコ風呂繁昌記−」
もうひとつ。今度は引用を。
「(トルコ風呂好きで)『大木戸』にもはまっていた。」(柳谷様の弟様・談)
とされる小沢昭一が編集に携わり、白水社から出たシリーズ「芸双書 第6巻 あしらう 接客婦の世界」(南博、永井啓夫、小沢昭一編・白水社・1982年3月刊)という本があります。

この本では、過去は遊郭から現代のホステスまで、広義の意(かなり乱暴ですが・・)での「水商売」の接客の作法を「芸」という視点から、複数の著者が原稿を寄せています。
その1つの章に、木谷恭介著「トルコの世界」というものがあって、トルコ風呂の名を一躍世に広めた銀座「東京温泉」から始まり、トルコ風呂における「芸」なるものを見出しながら、その発展とサービスの変遷を解説していて、これが実に明解でわかりやすいのです。
この木谷恭介という人も実に興味深い方で、そこにも触れたいのですが、脱線をガマンして、先に進みます。
では、「トルコの世界」から引用します。
昭和35年ごろから40年代前半に掛けての十年間は、トルコ風呂がもっともトルコ風呂的な時代だったと言える。
トルコ嬢が客に行うサービス・テクニックを芸だと考えるなら、この時代がもっとも花開いた時期であり、5本の指に職業的生命とプライドを賭けるトルコ嬢が輩出し、ゴールデン・フィンガーの名を高めた。
(中略)
赤線が消滅してからの十年あまりは、トルコ風呂の第1次黄金時代であった。
待合室だけでは客を収容しきれず、店の前に床几([アダチ注]しょうぎ・折り畳み式の木枠と座る部分は布を張った肘掛けのない椅子)を置いて客を待たせたというほどの盛況で、(以下、略。P177〜178)
新宿の呉服屋さんが「自慢荘」経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかけたとされる、昭和34〜6年(1959〜1961年)頃は、まさにトルコ風呂第1次黄金時代と合致します。
そしてその波は新宿にも、とても大きく押し寄せていたと察せられます。
そして「自慢荘」は、トルコ風呂建設のため、調理場と住居側の後ろの棟の全部建て替えの大規模工事を4年を掛けて行います。
計算では、トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、昭和38〜40年(1963〜1965年)頃ということになります。
ビートルズの来日の年、1966年が迫ってきました。
しかし、もう少し時期を絞れないでしょうか・・・。
ここで、過去ご紹介した新宿区歴史博物館所蔵の写真から、四谷四丁目大木戸交差点にその存在を確認したトルコ「大木戸」の看板のことを振り返ってみます。

(画像クリックで高解像度版画像にリンクします)

撮影日は
「1964年(昭和39年)9月25日」
とあります。

つまり遅くとも1964年(昭和39年)にはトルコ「大木戸」は営業をすでにスタートさせていたということになります。
ということは・・・。
1.昭和32年(1957年)頃
柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。
↓
↓(2〜3年後)
↓
2.昭和34〜5年(1959〜1960年)頃
呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。
↓
↓(4年後)
↓
3.昭和38〜39年(1963〜1964年)
トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成
と、特定することで辻褄が合うのではないでしょうか?
さぁ、大きな声で叫びましょう。
トルコ「大木戸」は、昭和38〜39年(1963〜1964年)頃オープンした!
・・・と、すごくきれいにまとまったかと思ったのですが・・・本シリーズを改めて初めから読み返して、はたと気付きました。
国会図書館で所蔵している住宅地図で、最初にトルコ「大木戸」の名前を見つけることが出来るのは「全住宅案内地図帳」1962年(昭和37年版)でした(本シリーズその2)。

調査時期は出版年の前年、もしくはぎりぎり間に合ったとして発行年とすると、昭和36〜37年(1961〜62年)にはトルコ「大木戸」が営業をしていないとおかしいということになります。
では、今度は逆算していきましょう。
3.昭和36〜37年(1961〜62年)
トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成
↑
↑(4年後)
↑
2.昭和32〜3年(1957〜1958年)頃
呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。
↑
↑(2〜3年後)
↑
1.昭和29〜31年(1954〜56年)頃
柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の元仲居さんが勤め始める。
これで、辻褄が合うはずです。
しかし、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めたという「昭和32年(1957年)頃」という発言ももちろん信憑性が高いはず。
昭和世代の日本人は、西暦ではなく年号で記憶することが多いでしょう。
もし「自慢荘」に勤め始めたのが、きりの良い昭和30年からであったなら、「昭和32年(1957年)頃」という曖昧な表現は用いないのではないでしょうか?
ここで、「自慢荘」の元仲居さんが勤め始めた年は「昭和31年(1956年)」であったと確定します。
1.昭和31年(1956年)
柳谷様がお話を聞いた「自慢荘」の仲居さんが勤め始める。
↓
↓(2〜3年後)
↓
2.昭和33〜4年(1958〜1959年)
呉服屋さんが「自慢荘」の経営者にトルコ風呂経営の話を持ちかける。
↓
↓(4年後)
↓
3.昭和37〜38年(1962〜1963年)
↓
↓
↓トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成は、
↓住宅地図の記載から昭和36〜37年(1961〜62年)と推定。
↓
↓
4.昭和37年(1962年)
トルコ「大木戸」を含む調理場と住居側の後ろの棟の完成
これで確定じゃないでしょうか?
さぁ、今度こそ大きな声で叫びましょう。
トルコ「大木戸」は、昭和37年(1962年)にオープンした!
そんな4年の大工事を経てリニューアルした「自慢荘」と、ついに開業したトルコ「大木戸」を上から眺めた想像図を書いてみました。

完成から15年後、1977年の空撮写真と比較してみましょう。

なるほど。
振り返りますと、本シリーズ初回で紹介した「goo地図>古地図」の昭和33年(1958年)の航空写真で見る「自慢荘」後ろの棟が、1977年のものと大きく異なっているのは、建て直し前であるからだということも理解できます。

昭和33年の航空写真(goo地図>古地図より)
(画像クリックで拡大地図にリンクします)
そして最後に「地下」か「半地下」か問題を。
これまで、柳谷様に2回説明を受けたのですが、私自身、地形に関してや、建築に関して全く疎いので、正直おそらく完全には理解が出来ていないと思います。
でも、結果的にある人が「地下にあった」と、ある人は「半地下にあった」と語る理由が感覚的にはわかった気がします。
図示すると、きっとこういうことなのです。(勘違いがありましたらご指摘願います。)
まず下記が現在のビルを横から見た画です。

道路から斜めに地下の駐車場(と思われる)場所へと坂となっています。
そして、道路からビルの駐車場側に向かってまっすぐ水平を見ようとすると不思議なことに気づきます。
ビルの1階部分が自分が見ている水平より一段高いところを底辺にしていることがわかります。
[柳谷様] (地形の影響で)建物自体を水平に保つためには自ずとこうなるんです。
この地形の影響により、トルコ「大木戸」は自ずとこういう造りになったものを想像されます。

上の2つのイラストは、かなり極端に書いちゃってますが、確かに「地下」であって「半地下」とも感じる構造となります。
いかがでしょうか? ガッテンしていただけましたでしょうか?
さて。
私たちはついにトルコ「大木戸」誕生の経緯を知り、外観を描けるようになり、開業時期までを共有することが出来たのであります!
次はいよいよ、たくさんの証言のあった黒い煙突を眺め、あの階段を下り、トルコ「大木戸」の中へと入って行きたいと思います。
→続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その16(最終回)
[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)