【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その13
(title design/S.Takei)
正直、出来ればずっとこの古き良き四谷四丁目を追う旅に浸っていたい気持ちもあるのですが・・・・いやいや、そもそもこれは「【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史」であります。
50年前、1966年のビートルズの唯一の来日時、「ポールが行こうとしたがかなわなかったトルコ風呂」を追うお話です。
あまり、ズルズルやるとビートルズ側からも、ポール側からも、「もうウチらは関係ないじゃないか!」と怒られちゃいそうですね。
ではでは締めに向かって筆を進めてみます。
最終章のスタートです!
(「四谷四丁目風俗史」または「四谷大木戸風俗史」は別枠で続けて行きたいです。)
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「うわっ!? こ、これは!?」
「はい。私の記憶と色々な方からお話を聞いて『大体こんな感じだったよなぁ』というのを描いてみました。」
いきなり私の目に飛び込んできたのは、このイラストでした。
「大木戸トルコ」という大きな袖看板。
入り口には地下に続く階段があると思われる手すり。
横に木戸があり、おそらく割烹「自慢荘」と思われる建物が・・・・。
四谷四丁目町会の小林様からも、「詳しく話を聞くならこの方」とご推薦をいただいていたのが、老舗料理屋「多満川」のご主人である柳谷治様。
「多満川」は、我々がその姿を追う今はなきトルコ「大木戸」の数軒先の距離で、現在まで長年料理屋を営んでいらっしゃいます。
位置関係を、「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)で確認します。
(調査実施がおそらく1966年であっただろうと想定し、今回メインで使用する過去の地図は1967年のものとします。)
「多満川」のはっきりとした創業時期はわからないとのことですが、1936年の226事件の時には、四谷四丁目でお店を始めていて、戦後に今の場所に移って来たとのことです。
創業者であるお祖母様のお姉さんの代から、現在のご主人で4代目に当たり、今年57歳。
そのオープンなお人柄、饒舌な語り口、そして明らかにされるお話の内容にすっかり引き込まれてしまいました。
映画関係者とのゆかりも多く、「地獄の黙示録」製作中のコッポラが身を寄せ(作曲家の冨田勲氏に音楽担当の依頼をするのが目的だったそう。実現はしなかったそうですが。)、市川崑はなんと柳谷様の義理の父親とのこと。お店のロゴにもなっているイラストも市川崑の作です。
四谷四丁目町会ウェブサイトにある柳谷様のインタビューも実に面白いです。
実は・・・・。
6月末だったか7月初めだったか、お店に向かったことがありました。
外苑西通り(環状4号線)歩道から上り坂になっている階段からお店の中の様子をうかがったりとウロウロ・・・。
その日は、カウンターに女性客2人がいらっしゃって、さすがに一見の私が、カウンターに座っていきなり
「そこに昔あったトルコのこと教えて欲しい。」
とは聞けないよなぁ・・・と退散いたしました。
まずはきちんと本意を伝えてお時間を頂戴しよう。
柳谷様にお店のFBページを通じてメッセージを、そして同じ内容で封書の手紙を送らせていただきました。
今、見返したらA4で7枚の手紙・・・知らない人からこんな手紙が突然来たら普通不気味で引いちゃいますよね・・・。
しかし、しばらくして柳谷様からご連絡をいただき、快くお時間を取っていただけるとのお話をいただきました。
あの時の興奮と言ったらありませんでした。
それから数日、質問項目とその流れを組み立てた、ヒアリングシートを作っては書き直し、作っては書き直し、を何度か繰り返したことを覚えています。
ではでは。
柳谷様からおうかがいしたお話を整理して参ります。
この3週間取り組んできた試験問題の答え合わせをするかのような心境です。
まずは、トルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」のあった場所の確認と、当時の辺りの雰囲気に関して。
——- 諸説あったのですが、かつてトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」があったのは、現在ガラス張りのビルのある場所で間違いないでしょうか?
[柳谷様] 間違いないです。
——- 1995年に両店が取り壊しになり、現在のビルが作られたと・・・。
[柳谷様] はい、間違いないです。
以前この回で、ウェブの匿名掲示板にあったトルコ「大木戸」に関する書き込みを見ながら、ゼンリン住宅地図の1995年〜1998年を検証し、
1996年版(1995年11月発刊)の地図で、すでに現在のビルの建設が始まっていることが確認出来るということは、
「確か95年か96年の2月いっぱいで閉店」
の書き込みに関しては、1995年2月末で「大木戸」は閉店した。
と考えるのが自然ではないでしょうか?
と結論付けましたが、その裏付けが取れたということになります。
改めて、ゼンリン住宅地図の1995年版(1994年11月発行:おそらく調査時期は1993年〜1994年)と1996年版(1995年11月発行:おそらく調査時期は1994年〜1995年)を見てみましょう。
以下、ここからは「全住宅案内地図帳 昭和42年度版」(住宅協会地図部・1967年7月1日発行)を見ながら是非。
——- 1960年代半ばのこの辺りの雰囲気に関しておうかがいしたいのですが。この辺りは料亭や旅館が非常に多かったようですが・・・。
[柳谷様] そうですね。ご存知の通りこの辺りはかつて三業地(※1)と呼ばれていたところです。江戸時代は全部墓場だったんです(※2)。だからその後、三業地の許可がすぐ出たんじゃないかな。
その名残りもあって、(1960年代の地図を見ながら)多分この当時よりも、昔はもっと料亭や旅館が多かったはずです。※1:三業地:料理屋,待合,芸妓屋の3業が集まって営業している地域の俗称。その営業には公安委員会(第2次大戦までは警察署)の許可が必要であることと,3者が合流して三業組合(同業組合の一種)を組織していることにより,三業地とよんで特殊地帯であることを表した。芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理のため,検番を置くことが多い。三業から待合の抜けた所では二業組合となり,そこを二業地という。花柳街とほぼ同義に用い,20世紀前半における市街地の主要な遊興地帯であった。(「世界大百科事典」第2版・平凡社より)
※2:「新宿文化絵図 重ね地図付き 新宿まち歩きガイド」(著・東京都新宿区 /出版社・新宿区地域文化部文化国際課/2007年刊)収録の明治時代の地図参照。長年この一帯には理性寺というお寺があり、かなりの広い敷地をお墓が占めていたことがわかる。
地図でご覧いただけるように、環状四号線(外苑西通り)を挟んでトルコ「大木戸」や多満川さん側には料亭が、反対側には旅館の多いこと多いこと。
また、地図だけでは、民家なのかお店なのかわからないところもあって、
[柳谷様] ここに(地図の多満川の斜め向かい側。地図上で赤丸で示す。)「弥生荘」というのがあって、やっぱり料亭をやっていたんです。後に旅館に商売を変えたんじゃなかったかな。
というお話なので、この辺りの料亭、旅館の数は1960年代半ばでも相当なものであったことが想像されます。
[柳谷様] この辺りは(多満川のあるブロックの環状四号線に沿ったところ。地図上で紫色の枠で示す。)、駄菓子屋さんがあって、ここに仕立屋さんがあって(仕立屋の位置を紫色の枠内、青丸で示す。)・・・でも実際のところ、この辺はあまり建物がなくて、人もあまり住んでいなかったですね。
そして、ここに廃棄物を集めてきて販売する、大きなバッタ屋さんがありました(紫色の枠内、緑枠で示す。地図がずれているため緑線で結ぶ。環状四号線からトルコ「大木戸」、料理屋「多満川」の間の路地までに至る大きな敷地だった。)。
あと「自慢荘」の向かい側は大きな駐車場だったんです(新宿駐車場・現IDCフロンティア)。
あと、お話を聞きに行かれた(旅館)「長良川」さんとか、(環状四号線の反対側の)あの辺りは有名な連れ込み街でした。
地図ではそうなってないけど、「新御苑」(現・ホテル新御苑)も60年代半ばには、もうここ(地図上のトルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」の通りを挟んだ向かいに赤丸で示す。四谷4-48)に来ていたかも。
「新御苑」さんは、もともと環状四号線(外苑西通り)の向こうの連れ込み街側と、(場所は変わったのかもしれないけれど)こちら側の2軒同時に開業したそうです。「長良川」さんも初めは2軒やってたそうです。
両旅館とも、ある同じ場所からここにいらしたそうです。——- (なるほど。だから今も両店連名で看板を出しているのか・・・。)
[柳谷様] というのも、これははっきり覚えてるんですが、東京オリンピック(1964年)の時に都内のホテルが足りなくなっちゃって、「新御苑」にもいっぱいの外国人客が来て、(この辺りが)ちょっとしたブームになったんです。
新しいビルの「新御苑」には屋上にプールがあったんです。同級生の家がやっていたので、よく遊びに行きました。——- (そんなアクシデント的な賑わいはあったけれど)基本は建物も人も少ない、静かな場所だったということですね。トルコ「大木戸」は「お忍びで行く感じだった」というお話を聞いたのですが・・・。
[柳谷様] 「新御苑」もそうだけど、当然見られちゃ困る人が来るわけだから、お互い見て見ぬふりをして・・・という感じはありましたよね。
(トルコ「大木戸」は)「(行ったことが)ばれないから。」「他のところに行くとばれるから。」っていうのがあったみたいですね。
そして、お忍びでトルコ「大木戸」に来てた芸能人、有名人の名前が次から次へと・・・これは、どこまで書いて大丈夫なんだろう。
後半に保留。
ただ、トルコ「大木戸」が、芸能人、文化人、芸能関係者にとって「ばれないから」「他のところに行くとばれるから」お忍びで出掛ける「知る人ぞ知る」場所であった様子は、よくわかりました。
そして質問は、ずっと気になっていたトルコ「大木戸」と割烹「自慢荘」、そして途中から登場した料亭「自慢本店」の関係へ。
[柳谷様] そこを随分知りたかったみたいですね。
実はですね、全部縁戚関係なんです。Aさんという、この辺りで相当すごい権力を持った方がいらっしゃって。Aさんの3人のお子さんが、それぞれ「自慢本店」、「自慢荘」、そして近くにあった焼き鳥屋さんを経営していたんです。
あと、小さい待屋がたくさんあって、そこはほとんどAさんのお妾さんだった(正確には、お妾さんが経営していた?)んです。
Aさん、その息子さんと代々で、お妾さんがどんどん増えていって、彼女たちに小さい店を持たせる、小料理屋を持たせるというような感じで・・・そこにウチがぽつんとよそから来ちゃったんですよ。
この辺りのお店は、ほとんどAさんの親戚や関係のある人がやっていると思ってまず間違いないというような状態になっていました。でも今は、ウチだけが残っているのかな。あとは全部なくなっちゃいましたから。
トルコ「大木戸」は「自慢荘」を任されたAさんの息子さんの、その息子がやっていましたね。
「自慢荘」の隣りのIさんも、やはりAさんの家系の親戚なのは間違いないそうです。「自慢荘」で仲居さんをやっていた人に電話で聞いてみたんで、多分間違いないと思います。
——- だから地図を見るとIさん宅と「自慢荘」が線で結ばれているんですね(*3)。
*3:株式会社ゼンリンにこの2つの建物を結ぶ線の意味を問合せてみたところ、一般に知られている「土地の所有者」のみを表すわけではないことがわかりました。以下同社カスタマーサポートセンターからの回答メールから。
「『所有者』と限定しているのではなく、敷地内の同一の建物を表現している『接続線』とご理解頂ければ幸いです。」
この回答が表していたことは、後ほど明らかにします。
一気に点が線に繋がってしまいました。
トルコ「大木戸」、割烹「自慢荘」、料亭「自慢本店」は、全てAさんというこの町の有力者の縁戚関係の方による経営だったのです。
そしてこの3店のみならず、この辺り一帯が、何らかAさんとの関わりを持った方によるお店であったとは。
次に、前回取り上げた「三都花街めぐり」(著・松川二郎/誠文堂文庫/1932年刊)の「四谷大木戸」に関しての記述部分を見ていただきました。
今一度引用します(P56)。
ここに花街のできたのは大正十一年、当市街内では一番新しい花街であるが、そこへ丁度彼の震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したしたもので、世の中は何が幸ひになるかわかったものではない。
現在藝妓屋 三十軒。藝妓 九十名。待合 三六軒。
料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)
——- 戦前、1932年(昭和7年)に出た花街に関するガイド本に「四谷大木戸」に関してページが割かれています。この土地を代表する料理屋として「自慢本店」が挙げられているのです。しかも「同支店」との記載もあります。
[柳谷様] 「同支店」は「自慢荘」でしょうね。「自慢荘」は、ウチがここに来る(戦後)よりずっと前からあるわけだから、はっきりはわからないけれど、ひょっとしたら大正時代からあるんじゃないかと思います。
ふぅ・・・。
ひとまず、最終章第1回はここまでとさせて下さい。
続いて、
・トルコ「大木戸」と「自慢荘」の構造に関して
・トルコ「大木戸」の建物の造りに関して
・トルコ「大木戸」の中の様子に関して
・看板と煙突に関して
・トルコ「大木戸」は地下だったのか?半地下だったのか?
おうかがいしたお話をまとめて参ります。
最後に「多満川」ご主人、柳谷さんの素敵なお写真を。
貴重なお話、本当にありがとうございました。
→続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その14
[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)
こんにちは。この記事でお世話になった多満川の娘です。
先日、アダチさんが監修されたアカギの同人誌をたまたま拝読し、「舞台めっちゃ近所じゃん」と調べている内に、こちらの記事に辿り着きました。
まさか父がインタビューを受けていたなんて、本当に驚きました!笑
お役に立てたようでよかったです…!
幼い頃から慣れ親しんできた町のことを知れて、とても面白かったです。ありがとうございました!