【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その12
(title design/S.Takei)
「四谷大木戸」の花街時代、三業地帯の頃のことを知りたいと調べていたら、1929年に誠文堂から発刊された「全国花街めぐり」(著・松川二郎)という本の復刻版がカストリ出版から復刻されていることを知りました。
案内文には、
昭和戦前期の花街ガイドブック!
■800ページ超180ヶ所の大著 全国の花街・遊廓・私娼窟を紹介
タイトルは「花街めぐり」としながらも、約120ヶ所の花街の他に、花街に近在する遊廓や私娼窟まで紹介。
とあり、目次を見ると「四谷大木戸」の地名の記載もあります。
取り急ぎ、国会図書館で原書の所蔵を確認し、四谷大木戸の掲載該当ページの複写申請を行いました。
他に、この松川二郎という人の著作の所蔵がないかと検索してみると、
国立国会図書館デジタルコレクションに、同じく誠文堂から1932年に「誠文堂文庫」のシリーズとして発刊された類似書または抜粋版と思われる「三都花街めぐり」という書籍を発見。
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誠文堂は、現在も誠文堂新光社として、雑誌「天文ガイド」「子供の科学」といった科学誌や、ペット、園芸等趣味・実用書を得意とする老舗出版社。
この本の冒頭、誠文堂創始者小川菊松による「誠文堂文庫発刊の辞」にて
出版界に一エポックを◯した「誠文堂10銭文庫」全百冊の中には、売値は十銭でも、内容は一円二円のものに比して、些かも謙遜の名著作が多かった。
から、始まるこのシリーズの主旨が述べられています。
要は1冊10銭での出版はキツイので、「誠文堂10銭文庫」で好評だったものを増補したり、「野球入門」と「野球の見方」といった好評な類似本を合本して、新シリーズを立ち上げるという話(しかし、野球を「やる」ための本と「見る」方法を説いた本を合わせるのは、ちと乱暴すぎないか・・・)。
この本の初版時の定価は25銭とあります。
つまりこの本も、安価な実用ガイド本としての位置づけであるものを察せられます。
この著者である松川二郎という人も実にユニークな経歴の持ち主だったようで、著書をみると、
・一泊旅行土曜から日曜(東文堂, 1919)
・四五日の旅 : 名所囘遊 (裳文閣, 1922)
・珍味を求めて舌が旅をする (日本評論社, 1924)
・療養本位温泉案内(三徳社, 1922)
など、旅行ガイド本が多数で、彼の経歴を追った「東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報」(2005年)掲載の「資料・松川二郎」(著・奥須磨子)
によると、旅に限らず執筆のテーマのジャンルは多岐に渡るが、
(略)松川二郎こそ、わが国最初のプロの旅行作家といえようか。そして趣味の旅を普及させた功労者でもある」と評されたり、1980年代初めには「旅行ライターの先駆者」と位置づけられたりしている。
とあります。
さて。
「三都花街めぐり」の目次を開くと東京、大阪、京都の花街が詳細に紹介されており、ここでも「四谷大木戸」にページが割かれています。
ここに花街のできたのは大正十一年、当市街内では一番新しい花街であるが、そこへ丁度彼の震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したしたもので、世の中は何が幸ひになるかわかったものではない。
現在藝妓屋 三十軒。藝妓 九十名。待合 三六軒。
料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)
え!?
じ、じまんほんてん!?
ど、どうしてん!?
何と1932年(昭和7年)のガイド本の「四谷大木戸」を代表する料理屋として「自慢本店」が挙げられているのです。しかも「同支店」もあるとの記載も。
他に、国会図書館デジタルコレクションを掘っていくと、日本の農民運動家で農林大臣も務めた政治家、平野力三の活動を追った「大原社会問題研究所雑誌・2009年(11月)(613)」(法政大学大原社会問題研究所)掲載の「平野力三の戦中・戦後(上) : 農民運動「右派」指導者の軌跡」(著・横関至)
に、1942年(昭和17年)の東条英機内閣による翼賛選挙で、平野は当選したが、同じく農民運動家で落選した須永好という人物と会合する話が載っていて、「須永好日記」から、
1942年6月25日には,「今日は平野力三君が大木戸の自慢屋本店に招待してくれたので上京。(以下略)」
という引用の記述があるのです(ノンブル P55)。
「自慢本店」は、戦前の花街「四谷大木戸」を代表する料理屋にして、政治家が歓談する場でもあった老舗だったということか!!
完っ全に「トルコ大木戸」と「割烹自慢荘」の関係ばかりに目が行ってしまって、大きな見落としがあったかもしれません。
「三都花街めぐり」記載の「自慢本店、同支店」の「同支店」こそ、「割烹自慢荘」だったのではないでしょうか?
でもでもしかし、支店にしてはあまりにも両店の距離が近すぎはしませんでしょうか?
そこで下記の推察をしてみました。
三業地帯だった四谷大木戸にて「自慢本店」は戦前からの老舗料理屋で、支店の「割烹自慢荘」は待合だった。
戦後、銀座に1951年(昭和26年)オープンし、トルコ風呂という存在を広く世に知らしめ、その後のトルコ風呂発展の礎となった「東京温泉」が活況を制したことで、トルコ風呂は、まず上野浅草に、そして新宿、五反田、渋谷、池袋などへと続々オープンした。
一方、1957年(昭和32年)の売春防止法の施行(この年は客引きなど一部の施行で、全面施行は翌年)で、青線赤線業者は業態変化を余儀なくされ、トルコ風呂の経営に乗り出す。
新宿2丁目の御苑寄りに「御苑トルコ」がオープンしたのが1959年(昭和34年)。元は新宿青線の「初夢」という店だったとされる。
「割烹自慢荘」もこの業態変化の波に押され、同じ敷地に「トルコ大木戸」を開業。
時代に乗ったトルコ風呂の繁盛で、「割烹自慢荘」は営業を停止する。
※参考資料〜「東京温泉」オープンから「御苑トルコ」オープンのくだり:別冊週刊サンケイ 1960年5月1日号「女千人に浴室八百 −トルコ風呂繁昌記−」、「東京温泉」に関して:「エロスの原風景」松沢呉一(ポット出版)
これは、あまりに乱暴すぎますでしょうか?
→続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その13
[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)