【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その6

(title design/S.Takei)
では続きです。
(ブランの竹井メンバーが新しいタイトル絵を作ってくれました。感謝!)
さてさて、ではでは、この数日間の成果から、写真や証言を細かく整理してご紹介していきたいと思います。
まず。
過去ご紹介した
「新宿歴史博物館 データベース 写真で見る新宿」に公開されている「1964年(昭和39年)9月25日の四谷四丁目大木戸交差点の写真」

の、新宿歴史博物館所蔵マスタークォリティ版をこちらにアップいたします。(JPEGデータ/1.4MB)
新宿歴史博物館の所蔵写真ファイル(前述のピンクのファイル)には、
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「四谷特別出張、新宿区文化会館4階郷土資料室から四谷3丁目方面を望む(大台風20号)」
とメモがありました。
「四谷特別出張、新宿区文化会館」とは、E司書のいる区立四谷図書館が入った現在の四谷区民ホールのことでしょう。
現在では、右端に写る大きなレンガ造りの建物の先の、交差点エリアまで(厳密には、この頃のT字路から、新宿御苑を地下に通る国道20号線に通じる新宿御苑トンネルが1991年に開通し、1本道路が増えています)が、四谷区民ホールとなっています。
ではここに、「1965年(昭和40年)全住宅案内地図帳」(著作・発行:住宅協会地図部)からこの付近の地図を掲載します。

(画像クリックで拡大地図にリンクします)
新宿文化会館から交差点まで、当時は実にたくさんの建物があったことがわかります。
はっきり確認出来るものだけでも
・東京都水道局 大木戸営業所
・関東配管KK
・東京瓦新(?)四谷営業所
・東京ガス四谷サービスステーション
間に細い通りが1本あって、
・ぶるーめモード
・国際住宅社
・コーヒ(コーヒー?)大和 小川
・喜(七3つの旧字)楽食堂
・三ツ石食堂 など
そして環状4号(現・外苑西通り)を挟んで、日本石油 四谷給油所。
これは、これまで、たっくさんの1960年代の四谷四丁目交差点(大木戸交差点)の写真を見てきましたが、ここには長年ガソリンスタンドがあったようです。
現在の、1階にファミリーマートの入ったビル、その隣りにポプラ社があるところです。
ここに先ほどの写真の翌年、新宿区歴史博物館所蔵の「1966年(昭和41年)2月 四谷四丁目 新宿文化会館4階より四谷三丁目方面」の写真をアップします。

(画像クリックで拡大地図にリンクします)
交差点ガソリンスタンドを辺りを見ますと・・・。

貝のマーク「SHELL」の文字。
この1年で、ガソリンスタンドが、日本石油からシェル石油(現・昭和シェル石油)に変わったようです。
さらに3年後、新宿区歴史博物館所蔵の「1969年(昭和44年)8月12日 四谷大木戸交差点」の写真を見てみましょう。

(画像クリックで拡大地図にリンクします)
新宿文化会館から交差点までの建物が区画整理か何かで一掃され、交差点の向こうに貝のマークと「SHELL」の文字、シェル石油(現・昭和シェル石油)がはっきりと見えます。
では、少し角度を変えて、「1964年(昭和39年)9月25日の四谷四丁目大木戸交差点の写真」の説明にあった
「四谷特別出張、新宿区文化会館4階郷土資料室から四谷3丁目方面を望む(大台風20号)」
の「大台風20号」を追ってみます。
ここで、気象庁サイト 台風経路図より、1964年の台風20号の経路をみます。
台風経路図は以下。

この写真が撮影された1964年(昭和39年)9月25日9時現在、台風は、石川県と富山県の県境辺りを通過していることがわかります。
前日24日には高知県で死者3人、負傷者51人、住家の全壊799世帯、半壊3,593世帯、床上浸水17世帯、床下浸水807世帯の被害が出たという記録が残っています。(四国災害アーカイブスより)
かなりの大きな台風であったことが想像されます。
さて。
今一度「1964年(昭和39年)9月25日の四谷四丁目大木戸交差点の写真」を見てみましょう。

(画像クリックで拡大地図にリンクします)
日本国内に大きな被害をもたらした台風の接近を間近に控えたこの日の風景。地面が濡れていることは確認できますが、交差点にいる人は傘をさしてはおらず、雨はやんでいたと察せられます。
ではでは次に、交差点の外苑西通り(当時・環状4号)側を見ていきます。

(画像クリックで拡大地図にリンクします)
曲がってすぐのところに、以前確認した「トルコ大木戸」の看板を見ることが出来ます。その斜め上には長良川の看板が。
建物を見ていくと・・・。
四谷三丁目側から
・デパート鶴屋
・胃腸科のお医者さん
・SONYのFMラジオの看板
・モリタ薬局
が確認出来ます。
通りの向かい側には「富士フイルム」の看板の「光◯写真」と推定される写真店が。
電信柱には「紀文」の看板が多く見られます。
これはあのおでんの紀文さんなのかと、サイトをあたり、「紀文ヒストリー」を。
昭和26年(1951年)の欄に「業界をリードした広告戦略=電柱広告」とある。ここにある画像とおそらく一致。
「黄色地に黒色で「紀文」の文字。以来、空きを見つけては電柱広告を設置した。業界に先駆けた独創的な広告戦略である。」
そんな当時先進的だった電柱広告を行っていたお店をもうひとつこの写真から見つけることが出来ます。
写真左下の電柱広告。
「1969年(昭和44年)8月12日 四谷大木戸交差点」の写真でより鮮明に確認することが出来ます。

そうです!
現在「割烹自慢荘」「トルコ大木戸」跡地向かいに今も「ホテル新御苑」として営業を続け、当時は外苑西通り(当時・環状4号)の反対側、旅荘長良川側の通り沿いで営業をしていた、あの「新御苑」の看板を確認することが出来るのです。
現在まで、場所を変えながらも長年四谷四丁目の地で営業を続けてこられたその秘訣は、ひとえにその先進的なマーケティング戦略故だったのでしょうか。
そんなわけで・・・。
今回はまず、新宿区歴史博物館所蔵の数枚の写真から、1960年代半ば〜末の、四谷四丁目交差点辺りを見てきました。
引き続き、たくさんの写真と証言を整理して、核心に迫って行きたいと思います。
50年前の1966年7月1日、「ポールが行きたかったけどかなわなかった」トルコ風呂を追いかけようと始めた旅は、気が付くと1960年代の四谷四丁目の姿を追う旅にもなって来ました。
次回は、交差点を外苑西通りへ曲がって「割烹自慢荘」「トルコ大木戸」方面にぐぐっと迫って行きます。
→続き:【裏ビートルズ来日学】ポールとソープと新宿風俗史 その7
[追記]
念のため書いておきますが、この文章にポール・マッカートニーに対する悪意などの他意は一切ありませんし、1966年の来日時に「ポールがトルコ風呂に行こうとしてそれがかなわなかった」ということが100%事実である裏付けは私には取れておりません。文中の書籍での記述や、証言者の発言から、それが事実だと想定してのフィールドワークです。また、文中の取材先などの表記や画像の掲載、表現に問題がございましたらご指摘ください。
そして、これは、飽くまで本家「ビートルズ来日学」宮永正隆さんの長年の緻密で執拗なインタビューと検証への最大限の敬意がまずはじめにあっての、そこでちらっと見えた連載や書籍ではやりづらいかもしれない「スキマ」への好奇心が発端の取り組みです。
(わざわざ言うのも無粋ですね)