アダチ龍光さんのお孫さん
本日、アダチ龍光さんのお孫さんに当たる中川龍一さんとお会いする機会をいただきました。来年還暦で3年前まで20年ほど商社を経営されていらっしゃった方。今も友人の仕事を手伝いながら新しいビジネスを立ち上げようとし始めたところだそうで、エネルギッシュな方という印象を受けました。
龍光さんが写る中川家の集合写真をいくつか見せていただき、また龍光さんがもらった勲章(1972年に叙勲した勲五等双光旭日章)の現物もお見せいただきました。
たくさんのお話をおうかがいして、オープンに書けること、書くことを控えておいた方が良いだろうことがそれぞれありますが、いくつか特に印象に残ったことを・・・。
龍一さんは、おじいちゃん(龍光さん)の家に行くのが、嫌で仕方がなかったそうです。龍光さんは寡黙でとても怖くて、甘えることも出来なかったと言います。いつも硬くなって正座していた印象的とのこと。
龍光さんの家のあった東久留米に行くのは年2、3回だったそうです。
東久留米の家は玄関入ってすぐのところでウサギと鳩を飼っていたとのこと(手品の道具ですね)。
龍一さんは、手品の道具の部屋があって、そこに入ってワクワクしたのを覚えているとおっしゃてました。
「おもちゃの鉄砲をもらって帰ろうかと思ったのを覚えている。」
アダチ龍一(本日お会いした方とは同名の別人)、アダチ光一のふたりのお弟子さんに関してもおうかがいしました。龍一は内弟子(故人)で、光一は外弟子。龍光さんは、弟子には一切指導はしなかったと言いいます。「見て盗んで覚えろ。」というのが信条だったと。おそらく龍光さんが師匠の木村マリニーにそうされたからだろうというお話でした。
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可笑しかったのが、龍光さんのお通夜の時のエピソード。
お経を頼んでいた浅草のお坊さんが遅刻をして、なかなかやって来ない。
当日、阿達家からは、新潟の多宝寺の住職の健介さん(私の祖母トキの腹違いの兄で龍光さんの代わりにお寺を継いだ操さんの子供。法名天真。)、私の祖母の弟で当時栃木の医王寺の住職をしていた武男さんが出席。
「だったらもうやっちゃおう」と出席していた新潟の住職と栃木の住職が、次々お経をあげて、浅草のお坊さんが到着した頃には、お経を読み終わった後で、浅草のお坊さんがとても怒ったそうです。遅刻した坊さんが悪いんだけれど、おかしくて仕方がありません。
龍一さんは、「龍光さんが亡くなっても葬式で正直あまり悲しくなかったのを覚えている」と言います。どこかで「自分とは血が繋がっていない」という思いと「自分たちは中川家を存続させるための子供、孫だったのだろうという気持ちが強かったかもしれない。」ということをおっしゃってました。
葬儀にはたくさんのテレビ取材がいて、「無理に悲しい顔をしたのを覚えている」とおっしゃっていたのが印象的でした。
他にもたくさんお話をおうかがいしたのですが、また整理してみます。
貴重な時間とお話でした。