【雑  評】


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映画「全身小説家」(原一男/監督 '94年)97.9.16



映画「全身小説家」(原一男/監督 '94年)

「奥崎謙三、出所」のニュースがあちらこちらを騒がす中、「ゆきゆきて神軍」を観たいと思った。映画は時間の無駄遣いだなどと偉そうなことを常々考えている私が実に久しぶりにレンタルビデオ店に足を運んだ。
戦争責任追及、天皇制批判、日本兵の人肉喰い告発というテーマに加え、何だかこの奇っ怪な奥崎という人物がとてつもなく魅力的に映ったのである。このオヤジは一体何をやらかしたのか。それで私に何を訴えてくれるのか。

しかし残念ながら近所のレンタル店にこの作品は置いていなかった。映画マニアの知人が
「あのビデオはもう絶版になってるから多少マニアックなレンタル店に行かないとないかもしれませんよ」
と云っていた。何で手に入る内に入れておかないんだ。「レンタルビデオ店は映像図書館として機能し始めた」などと誰かがほざいていたが、しっかりしてほしいものである。

とかいいつつこれは観るべきだと思った人は公開当時ちゃんと観ているわけで、普段映画を観ないこんなバカのわがままはさておき、その代わり原一男監督のその次の作品に当たる'94年公開「全身小説家」が置いてあったのでこれを観ることにした。

・・・とてつもなく感動した。身につまされた。この気持ちを自分の中でいかに整理をつけてよいものか、そわそわして仕方がない。

表面的なストーリーは作家、井上光晴のガンに犯され亡くなるまでの数年間のドキュメンタリーである。何だか嫌なオヤジだなと思わせる元気な時期から徐々に身体が弱っていく様は、それはそれで私の心に迫っては来たが、それだけでは単なるお涙頂戴映画である。

この映画は生前の光晴の人生がいかに嘘で固められたものであるかを冷酷に暴いていく。

光晴は自分の出生について語る。
自分は朝鮮で生まれたこと。皿絵師をしていた父親が幼少の頃に精神に支障をきたして行方不明になってしまったこと。そのせいで中学に進学できなかったこと。初恋の相手が名古屋に出稼ぎに行くと云い別れたのに1年後、地元の売春宿にいることがわかりショックを受けたこと・・・・。

しかし自著にも公開されているこれらのエピソードは全てでたらめであった。死人に口無しとばかりに、光晴は間違いなく佐世保で生まれていること、父親とはずっと一緒に暮らしていたこと。中学に進学出来なかったのはたんに光晴が試験に落ちたに過ぎないこと。初恋の相手とされている人は確かに実在の人物ではあるが地元のアイドル的存在の女性に過ぎず、光晴の恋人であった事実はないこと。当然その娘が売春宿で働いていた事実は無かったこと・・・・。

こうしてみると、映画の中でたくさんの弟子たちを前に偉そうな文学論を振りかざしているのも単に女性の弟子に手を出すための格好つけにしか見えないし、どうみても命残りわずかであるのに「私はそう簡単には死なないような気がします」と気丈な態度を示しているのもカメラの前だからであって、映っていない部分でどれだけ弱音を吐いていたかわからないと勘ぐってしまう。

この映画はそれを狙っているのだろう。実像だと思っていたものを粉々に崩していく、それがこの映画の本質なのだろう。

それで私が井上光晴という作家を軽蔑し、冷ややかな笑いを画面に投げかけたかというと、いやいや、全く逆であった。
タイトルの「全身小説家」、まさにこれが全てを云い表している。彼は自分があるべき姿、ありたいと思う姿を演じ、人生を全うしたのである。人生全てが表現であったのである。

我々は己の一生を表現に捧げる覚悟をしているだろうか。週に一度だけの表現者になっていないだろうか。ステージ上だけの表現者になっていないだろうか。 音楽にせよ、文学にせよ世にある表現物がなかなか私を感動させてくれないのは、そんな表現に対する甘えがあるからではないのだろうか。

じつに身につまされ、何か大きなものに気付かせてくれた映画であった。