遁 生 生 活

現在7回目


前書き


 その表現手段など何だって良いのかもしれない。唄である必然性など、正直云って私にはわからない。そこにある花の美しいということを、私の隣にいるあなたに伝えられればそれでよいのかもしれない。
 そのためにわざわざ唄などという周りくどい方法を取らなくてはいけない理由など果たしてあるのだろうか。
 花の美しさを隣のあなたに伝えるために、何故その言葉を不特定多数の人々の眼に、耳に触れさせようとするのだろうか。

 私にとっての唄は本当に矛盾だらけだ。私は一体、唄で何を伝えたいのだろう。私にとっての唄とは一体何なのだろう。



その1


 たった一度でも良いから、自分で心から感動できる唄を自分で心から感動できる演奏で人に伝えたいと思う。
 「他人のためでなく、自分のために音楽をやっているのだ」何て言葉は嘘っぱちだ。自分で感動できるからこそ、他者もそれに心動かされるのだから。自分の中に迷いや照れがあれば、他者は必ずそれを察するのだ。私の迷いに他者は唄を疑問視し、私の照れに他者はうつむくことだろう。
 そんな唄は他人の眼に触れる前に、己の中に封印するべきである。それがきっとお互いのためである。

 「今日の演奏は最高だったね」と心から云えたことなど一度もなかった。だからこそ「次こそは、次こそは」とやってこれたのかもしれない。それなのに楽屋にのこのこやってきて「今日は素晴らしかったよ」何て云われると私は混乱してしまう。こんなはずではないのに、こんなものではないのに。

 唄の作者がひとり居て、それを別の人格を持つものが共にひとつの完成形に作り上げる時、各々のその唄に対する思いは異なってくるはずであろうし、異なるからこそ、その唄は作者の手から離れ、新しい命を吹き込まれるのであろう。それはその唄にとっても幸せなことだと思う。
 その唄に対する思いにズレがあったとしても、お互いにそのズレを理解し、許容しあい、そして音楽の上でひとつになりたい。数人の演者が舞台に上がり、それがひとつになって自分に問いかけてくる。そんな音楽こそが他者の心を巻き込むことが出来るのであろうし、そういう音楽を私は奏でたい。


その2


   悲しみ、憎しみ、後悔の唄は、何故こんなに私たちを感動させるのか。もしそのような気持ちを直接言葉だけで伝えたなら、人はきっと眼を背けることだろう。
 その思いが唄となった時、そしてその気持ちが本気であれば本気であるほど私たちは心からの感動を得る。
 悲しみ、憎しみ、後悔が唄として発せられる時、聴き手である私たちは、同様に悲しみ、憎しみ、後悔の思いを発しているのかもしれない。唄い手の言葉が私たちの言葉となり、私たちは同様に唄っているのだ。

 本当の唄は聴く者を唄わせる。


その3


   今の私は唄が全然作れない。バンドの練習は黙っていてもやってくるわけで、他のメンバーには本当に申し訳ないのだけれど。‥‥‥少しあせってしまう。
 唄は産もうと思って出来るわけではないし、今の私には唄うべきことが無いのだと自分を慰めてみたりする。無理矢理ギターを握っても、唄いたいことが無いのだからかえって疲れてしまう。

 それであるなら、なるべく自分の心が動かされるようにいろんなものを見てやれ、聴いてやれ、感じてやれと思う。
 喜びにせよ、憎しみにせよ、心の中にいろんなものをぶち込んで、それがごちゃごちゃに交わり合って自然と唄があふれてくるのを待つともなく待とうと思う。
 それが明日なのか、来週なのか、それとも10年後なのかわからないけれど。
 10年間も熟成された唄なら、きっととてつもなく素敵なのだろうな。あまり笑えない、冗談のような、本当の気持ちのような。わけがわからない。


その4


 いつだってお互い真剣勝負のコミュニケーションをしたい。私は自分の考えのすべてをぶつける。だから相手も私に真剣に言葉をぶつけて欲しい。いつもそう思っている。でも、そんな考えはあまり通用しないようだ。
 自分の意見を必要最小限に抑えた者同士が相手のプライドを傷つけない程度に牽制しあい、適当な上っ面で人と人との輪を形成している、そんなことの方が実際多いような気がして、正直私は混乱している。
 同じ輪に居るあなたが自分の立場、意見を明確にしないで私に意見を求めても、求めているあなたが上っ面である限り、私は私をどの位置まであなたに表明してよいのかわからないではないか。あなたの絶対的な考えが私に伝わらない限り、通り一遍であなたが私とのコミュニケーションを済ませようとする限り、何も生まれないのだ。そんな者同士の輪など何も生みだせないのだ。
 それがあなた方のやり方なのか、皆のやり方なのか、私が駄目なのか。私はそれでも戦うべきなのか、あなた方のやり方に私も従うべきなのか、その輪から私が去るべきなのか。
 あなたの考えが見えなくとも私は私の全てをあなたに突きつけ、私にとってのコミュニケーションのやり方を示すべきなのかとも思うが、それはあなたに云わせれば自分にとって「損な」やり方らしい。私は混乱してしまう。
 そういった意味でも、唄は自由だ。だから私は唄うのかもしれない。少し、私にとっての音楽の必然性が見えたようでそれだけでもこの混乱は意味があるのかもしれない。

その5


 唄を作る時、他者のことを全く意識しないと云ってしまえば嘘になるだろう。でも唄の中に「あなた」という言葉が出てきたとしても、結局は「あなた」へ何かを働きかける自分のことを唄っているわけで、そんな時は大いにエゴイスティックであるべきだ。
 はじめから「あなた」に聴いてもらうことを意識してしまっては、本当の自分は幾分か歪められてしまうことだろう。きれいごとだらけのご機嫌うかがいの唄なんて聴いてる方も寒気がする。そんなものは唄われるべき唄などではない。

その6


 せめて音楽においては最大限自由でありたいと思う。自分の気持ちを隠したり、当たりさわりない言葉で済ましてしまうことがないようにしたい。そのためには最大限自分が自由でいれる環境作りをしなければならない。
 そのために情やら上っ面の優しさなど本当は必要がないのだ。
 自分にとっての音楽が本当に自由な場であるなら、やらねばならない。
 他人を傷つけずして本当の自分は実現出来ない。分かってはいるのだけれど。
私は音楽がやりたいのだ。本当に自分の納得出来る音楽がやりたいのだ。なのに何故音楽とは関係のない部分で神経をすり減らさねばならないのだ。
 私の中の私が「暴走せよ」と云う。だがもう一人の私が「冷静であれ」という。一体どうしたらよいのだ。
 いっそのこと全てをぶち壊したい気分だ。もう一度0からやり直したい気分だ。

その7


現実世界では実現できないことを唄にすることがある。
例えば憎しみの唄。「殺したい」という気持ちを現実で実行しては犯罪になる。だが唄の世界は自由であって相手を切り刻もうが何をしようが構わない。
悲しみの唄だってそうだ。人に進んで涙を見せようとは思わないが、悲しみが唄を産み出すきっかけとなることはある。そこではどんなに涙を流そうと、みっともない位に許しを乞おうとも構わない。

自分の唄にいつの間にか自分自身を支配されているような気分になり、恐ろしくなることがある。
憎しみの唄、悲しみの唄。現実世界では忘れてしまっている、忘れたふりをして生活すべきことを唄として形に残し、何度も口に出すことで、憎しみや悲しみを再生産してしまっているのではないか。
自由な唄の世界で己の内面の奥深い所まで忍び込み集められた言葉たちは全てあまりに真実であり、それ故に忘れるべきことも逆にさらに甦り、また現在における憎しみ、悲しみと相成ってその気持ちはますます膨張していく。
なら何故唄うのか。唄に犯られる前にはっきりさせたい。あせる。一体私にとっての唄とは何なのだ。