「炎」は遁生初期の楽曲のリメイク。「月光」も何度目かのリメイクで久々に演奏。決して悪くない演奏だったとは思う。 ライブ直後の放心状態は毎度のことなのだが、今回はいつにもましてひどい。 一体ライブハウスで演奏活動を続ける意味とは何なのだろうか。日々の活動の中で作り上げた楽曲の発表場所?だったらこんな一発勝負のあぶない橋など渡らずに、何度も何度も自分の納得のいくまで音を重ね上げることが出来る音源発表の手段のみを選べばよいのではないか。 他のバンドからの刺激を受けるため?だったらそういうバンドを見に足を運べばよい。お膳立てされたパッケージの中で「これはスゴイ」などというバンドに出会ったことなど数えるほどしかない。まぁ、その程度のことしか私がやってないからなのかもしれないが・・・。じゃあ自分で企画を興せばいい?私がやりたいのは自分のための音楽であって先にライブありきなのではない。 矛盾しているだろうか。何だか自分で自分がわからない。自分の音楽に自信が持てなくなってしまっただけなのか。それなら終わりだな。 確かにライブという瞬間瞬間の表現形態は楽な面がある。音を放った瞬間それは消えて無くなってしまうのだから。そりゃあごまかしも効くだろう。果たして今まで完璧な演奏というものをしたことがあっただろうか。私は今すぐにでも自分の音楽の完成形が見たい。
98.6.14.(ブラン/アダチ)
|
|
東京ロッカーズ時代にデビューというとんでもないキャリアの持ち主と共演ということで並々ならぬ緊張感で臨んだ公演だった。自分らの公演に前売り券の発売が告知されるのも初めてであったし、吉野大作自身ソロ、バンド含め10枚近いアルバムを発表しており、しかもベスト盤まで出していると云うではないか。一体どんな奴が来るのか、一体どんな音を出すのか。 メンバーの帰宅が遅くなると云うことで当然トリのはずが彼等は3番目の出番に変更。この大舞台、ブランがトリに。おいおい、客帰っちゃうんじゃないか。 そんなわけで吉野大作 with プロスティチュート、良い演奏でした。ジャズ、ファンク、歌謡曲、ロックがごちゃまぜで鉄壁の演奏。金払って音楽を聴いたという気分にさせるバンドであったことは確か。でもしかし正直あまり印象に残っていないのは何故なのか。 メンバーに音に対する集中が感じられなかったのは私だけであろうか。上手いことはわかる、良い演奏だったこともわかる。でもそれだけでは何かが足りない。上手く説明できないが、数人のメンバーがひとつの音に全身で集中し奏でられた音楽に危うさが感じられなければ、私にとっての音楽の魅力とはなり得ない。フリーな演奏箇所も多々あったが、安心して見れてしまった自分がいたことは確か。一歩間違えばオヤジの課外活動にもなりかねないなどと云ったら云いすぎだろうか。 ブランは約1ヶ月ぶりの公演。メンバーチェンジ、改名から2度目の演奏となった。前公演でのあまりにクールな演奏に対する反省から「エキセントリックさ」をテーマに臨んだ。ブランとなって培った演奏力と新たな楽曲をもとに、遁生時代の「演奏力不足のごまかしのためのエキセントリック」からの脱却を目指したのだが果たしてどうだったのだろうか。奇抜さに走りすぎで逆に演奏が損なわれていなかったことを祈る。 音楽を聴かせるだけなら音源を作ればよい。会場にに足を運ぶ人々は音源がないからという理由だけでここにやって来る訳ではないだろう。大音量で体中で音楽を感じつつ視覚でも何かを期待しているはずである。目から耳から感動を得ようとしているのではないだろうか。ライブという瞬間の表現の難しさを実感した。 SO WHATのオモト氏が当日の模様をレポートしているので以下に転載する。原文はhttp://home2.highway.or.jp/omoto/rep/980201.html、写真も掲載されている。
|
翌日早朝7時に大阪着。「♪大阪へやって来た〜」と友部正人を熱唱。一同に無視される。
いよいよ出番。いつもより少ないと云っていたが客ぎっしり。あっという間に7曲演奏。何だか良く覚えていない。舞台袖にスハラさん。「お疲れさま」といつもの笑顔。少し落ち着く。「ぶち壊れてたねぇ」・・・・オレ何したんだ?|
良い企画でした。実に。 遁生は決して万全の演奏とは言い難かったが、健闘したとだけ云 っておこう。この場は身内褒めは止めておくことにしているので す。 「月光」のリ・アレンジは今までなかった「艶」をバンドにもた らしたと云えよう。 「艶」と云えば、今回の企画で最大の収穫がシュガー・カイト。 奥に透明なものをもつ朝もやの風景とでも云おうか、わかりずら いか。 すーっと吸い込まれていく感覚が気持ちよかった。艶っぽく、凛 として。独特のセンチメンタリズム、ロマンティシズム。あーっ うまく説明出来ん。 なお、シュガー・カイトはギューン・カセットから3曲入りシン グルを出している。 個人的にはギューン・カセット社長スハラ氏と初めて対面出来た のがうれしかった。気さくで実にいい方。色々お話させていただ きました。 最後にスハラ氏の知人がやっているというギューン・カセットの ホームページを紹介しておく。 |
|
新ベーシスト榎戸が加入してからのフリーボを見るのは初めてだ った。「はっぴぃえんど」を引き合いに語られることの多いフリ ーボだが、榎戸の「ズ太い」ベースに、ライブ版「Live On Stag e」を聴いている時の感触をおぼえた。 素晴らしい日本語のロックバンドだ。「10年に1度のバンド」 という形容はあながち大袈裟ではないと思う。 大阪のギューン・カセットからCDもしくはカセットを出している スパローズ・スクーターとマドモアゼル・ショートヘアは都会人 のヒーリング・ミュージックといった趣き。1度レコーディング 音源を聴いてみたいと思った。 ボーンデージ・フルーツのさがゆきはドラムと2人での出演。 約10分程度のリハを見た時点でぶっ飛んでしまった。 私は常々、「言葉」という記号にとてつもないもどかしさを感じ ている。思っていることを相手に伝えるのに何故それを1度言葉 に置き換えなければならないのか。 もし音楽で己の感情の全てを伝えることが出来たら、どんなに素 晴らしいことだろう。何故、音があるのにそこに言葉をのせて、 説明をしなくてはいけないのだろろう。 さがゆきに私のひとつの目標の到達点を見た気がした。 なお、さがゆきのファースト・ソロアルバムはまぼろしの世界か ら出ている。 |
|
早速ですが昨日の遁生の感想を。 久しぶりのせいもあって新たな気分で新鮮でした。これまでは遁生の音楽によるエンターテイメント性を少々心配していたのですが、ファン以外の聴衆への吸収の可能性が結構あるのでは?と期待を持ったのが第一印象です。音質、ボーカルの聞こえ方も良かたからでしょうか。それに加えて、曲構成。以前から遁生に関しては聴きやすく構成されているなと賞賛しているところですが新曲もあってメリハリがあると聴きやすいのは確かです(先日行ったスリンガーのライブでは10分くらいの新曲をラストに演奏して間延びに感じられ、失敗だなと思いました。演奏者の思い入れもほどほどに、といったところ)。そして、何よりも新鮮だったのは、ダブル高橋さん。当然と言えば当然ですが、Voである安達さんばかりが強調されてしまうように感じられていたのですが、今回のDr、Bのダブル高橋ご両人の演奏振りは安達さんと張り合うようなものであったと感じています。以前からDrの高橋さんの楽しそうにドカドカ叩く姿は微笑ましく(?)痛快!と思っていましたが、印象はいま一つといったところでした。しかし今回はさらに勢いがあって安達さんとは違う勢いを発していたように思います。それはBの高橋さんにも言えることで三人の演奏の性質の違い、それは3人の性格の違いに繋がると思うのですが、見ていて程よい均衡が保たれていたと思います。 遁生の皆さんが絶賛していたバンドは音では印象に残りますが言葉を乗せた途端、聴衆への吸収力が半減してしまったように思われました。今日の遁生は音でも言葉でも印象に残るように感じられ、3人の各々の個性が発揮され、各々のぶつかり合いが見れた。見るものは思わず惹き付けられます。この点が第一印象の理由。 でも本当にファン以外の聴衆への吸収力があるのかどうか。音と言葉と。特に日本人が日本語で日本人に聞かせるということは。ぶつかり合いだけでいいのかどうか。音楽が時代に関わりながら活動していくこととは、とか。これは遁生だけでなく他の日本のバンド(インディーズもプロも)にしても言えることです。長く聞き続けられる日本の音楽は本当に数少ないように思われます。それがいいのか、悪いのかということも含めて、リスナーとしての私にとっても時々考えてしまうことなのですが、しかし、しかし、あれ狂う安達に力強く淡々とリズムを刻む高橋とメロディーラインを守りつつも奔放に我が道行く高橋。そんな想像が出来たいいライブだったと思います。 蛇足ではありますが、これはファンである私の意見ですから、信頼できるものか疑わしいといえばそれまでなんですけれど。それでも少なくとも私が音楽を聴くときは、『音楽という出来事』という対象として考えるので、好み、不好みに関わらず、興味をもてる出来事には反応する姿勢でいるつもりです。やはり物言う創作者としては我は通さなくては。 ちなみに「興味ない」も興味あることの内に含まれているんですよね。何が最悪かというと、何とも思わない、とも思えない…、「どうでもいいよ(=言葉なし)」でしょうか。それは対象が対象でなくなってしまう瞬間です。そうなったら、音楽、絵画、文学はもちろん、お笑いも、日常でのお喋りも、はい、それま〜で〜よ。ってなもんです。終わりなのです。創作者(とも限らないので発信者)としてはそれだけは避けなければならないことだと痛感する次第です。 それでは、また。 11/19 FROM O |