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■第12回
アダチ龍光さんのこと
落とし前編

(2003.8.30)
■第11回
アダチ龍光さんのこと3
(2002.6.30)
■第10回
N○K受信料私見
(2002.5.22)
■第9回
アダチ龍光さんのこと2
(2002.5.20)
■第8回
アダチ龍光さんのこと1
(2002.5.20.)
■第7回
オレハタイニホネヲウズム
(2000.1.5.)

■第6回
ブート道〜全部ZEPのせい〜
(99.5.7.)
■第5回
ブート道〜序章〜
(99.4.19.)
■第4回
顔文字論
(99.1.11.)
■第3回
屁音楽
(98.11.6.)
■第2回
自分コレクター
(98.9.15.)
■第1回
珍説万歳
(98.9.3.)

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第9回/アダチ龍光さんのこと(その2)

独立コーナー化いたしました。こちらでお読み下さい。

 

※引用文中「龍光」「竜光」と表記が統一されておりません。原文ママです。

(その1からの続きです)

■アダチ龍光の本名 中川一の謎と謎の死?
そんなこんなで面白がって色んなサイトを渡り歩いていたのだけれど、この「有名人辞典」掲載のプロフィールではたと疑問にぶつかりました。

名前 アダチ竜光
ヨミ アダチリュウコウ
本名 中川一(ナカガワハジメ)
出生地 新潟県蒲原郡鹿瀬
生年月日 明治29年7月20日
学歴 岩倉鉄道学校中退
経歴 曹洞宗の寺の子として生まれる。18歳で家出。新派の見習い、活弁士などを経て24歳で奇術界に入る。越後なまりのとぼけた語りで人気があり、昭和46年には「天覧奇術」で天皇に奇術を披露したこともある。41年に芸術祭奨励賞を受け、同年から日本奇術協会の会長、48年からは同永久会長を務めた

私自身が持っていた知識の「妹である祖母が新潟のお寺の娘であったこと」「長男だった龍光が芸の道を目指したことによって若い頃に勘当されたこと」と確かにこのプロフィールは一致します。しかし本名が「中川一」とあります。中川??私の身内で中川姓の方に会った記憶はありません。

また「今日は何の日〜毎日が記念日〜」で龍光で亡くなったのは1982年10月30日ということがわかりました(ちなみに葬儀を担当したのが神田にある博善。「主要葬儀実績」に龍光の名があります)。

1982年ということは、昭和57年。私は既に10歳です。
さすがに物心がついている年代であるはずなのですが、「龍光さんが亡くなった」「誰それが葬儀に参加した」という話を聞いた覚えが正直ないのです。あれだけ「引田天功より偉かった」「笑点に出た」「天皇の前で・・・」と云っていた父親の口からですらです。

実際のところ「亡くなった」という事実は私に伝えられていたのかもしれません。だとしてもこんなにも記憶が曖昧になるほどのさらっとしか表現でしか伝えられていないはずです。

ここで前述の「パペポ傑作トーク集」から再びその続きも含め引用させていただきます。

鶴「わー、嬉しいなあ。天皇も〜!」

龍「さあ、そこでや!ここは一つ”その通り!”と言って開けるべきか?アダチさん、一瞬迷ったんや。けど、えーいと思って、”残念でした〜”って。」

鶴「偉いわ!その後ですよ、アダチさん。なんか謎の死を遂げられましたねえ。」

龍「アホ!」

ここで触れられている「天覧奇術」が1971年(昭和46年)、龍光が亡くなったのが1982年(昭和57年)と10年以上の開きがあるので、単に「ネタだろ」と思わないでもないのだけれど、「謎の死」という言葉がどうしても気になって仕方がない。

「謎の死」だったからはっきりと私に伝えられなかったのだろうか?
兄弟である祖母は葬儀に行ったのだろうか?
行っていないのだとすると、龍光とアダチ家との関係はどんな状況だったのだろうか?
そして中川姓の理由は?

この身内とされる龍光への親しみが増す一方で、情報を集める内に疑問もどんどん湧いてきました。

龍光の華やかなプロフィールから正直「父親の話は全部嘘で芸名がアダチの中川さんに勝手に感情移入してただけだったのではないか」それとも「息子に嘘をついて信用しているのを裏でほくそ笑んでいたのか?」という疑念も湧いていて来たのだけれど、「ここまで来たら徹底的に調べてやろう」という気持ちになり、早速、田舎に電話を掛け父親に話を聞くことにしたのでした。


■私はアダチ家のタブーに触れてしまったのか?
「ひょっとたらアダチ家のタブーに触れてしまうのか?」それとも「ごめーんあれは全部嘘」と謝罪されるのか、少々ドキドキしながら電話を掛けたのだけれど、「龍光おじさんのことが聞きたい」という私の問いかけに、父親は少々うれしそうに答えてくれました。

アダチ龍光こと阿達一はその名の通り新潟にある曹洞宗の寺の長男として生まれ、妹である祖母とは腹違いの兄弟となるそうです。当然、一には寺の後継ぎをと両親は考えていたのでしょうが、芸事にうつつを抜かしていると18の時に勘当され、上京します。周りからは「河原乞食」呼ばわれされたそうです。

長女だった祖母は高校を卒業後、福島県の会津若松の隣、河沼郡日橋村(後に堂島村と合併し、河東村に。現・河東町)で理髪店を経営します。一時期は数人の従業員を抱えるほど繁盛していたと聞きます。後に自転車店を営む祖父を婿に迎え、しばらくは二店を並行して営業し、後に理髪店を畳みます。この「阿達自転車店」が私の「ばあちゃんち」ということになります。

父親の幼い頃、龍光は何度が祖母の家を訪れており、父によれば「龍光伯父さんは小遣いを1,000円くれたりした。当時これだけの大金をくれる人はいなかった」と云います。当時ラジオ等で龍光の活躍に日常触れる機会がどれだけあったかはわかりませんが、「手品をやっている金持ちの伯父さんがいる」ということは強烈に父の印象に残っていたようです。また18の時、父は高校卒業後上京し、東京に嫁いだ姉に連れられて演芸場へ上京報告に龍光を訪ねて行ったそうです。

このようなエピソードを聞く限り、龍光と祖母の関係は、決して悪いものではなく、却って家族ぐるみの付きあいをするほど仲の良い間柄であったことが伺えます。

後に龍光は婿入りし、この際に中川姓となったようです。子供を持たなかった龍光は晩年養子を取ります。祖母は常々「悪いのにつかまった」と口にしていたそうで、龍光と祖母が疎遠となったのはこの辺りに事情があるようです。やはり祖母は龍光の葬儀には出席してませんでした。

父によると晩年龍光は不遇な生活を送っていたと云います。それがどのようなものだったのかはわかりませんが、死因に関しても父は「よく知らない」と答えました。

私の祖母は2000年の3月に93歳で亡くなったのですが、身の上を綴った遺書のような文書を残していると聞きました。「この中に龍光叔父さんのことも詳しく書かれているのでは」と父は云います。これは次回帰省をする際の大きな宿題となりそうです。

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正直まだまだわからないことが多すぎるのだけれど、阿達家と龍光の関係はもとより、アダチ龍光という人物そのものに対する興味はつきません。引き続き手に入る資料集めと出来る範囲での取材をしていきたいと思います。

今更ながらも悔やまれるのが、祖母が生きている内に彼女自身の人生と共に龍光の話を聞いておけば良かったと云うことです。(2002.5.20/つづく→その3へ)



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