The World of TONSEi RECORDS−ブラン公式サイト−


■第12回
アダチ龍光さんのこと
落とし前編

(2003.8.30)
■第11回
アダチ龍光さんのこと3
(2002.6.30)
■第10回
N○K受信料私見
(2002.5.22)
■第9回
アダチ龍光さんのこと2
(2002.5.20)
■第8回
アダチ龍光さんのこと1
(2002.5.20.)
■第7回
オレハタイニホネヲウズム
(2000.1.5.)

■第6回
ブート道〜全部ZEPのせい〜
(99.5.7.)
■第5回
ブート道〜序章〜
(99.4.19.)
■第4回
顔文字論
(99.1.11.)
■第3回
屁音楽
(98.11.6.)
■第2回
自分コレクター
(98.9.15.)
■第1回
珍説万歳
(98.9.3.)

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第2回 自分コレクター


乱歩ネタが続いて恐縮ではあるが、先日、何気なく入った何て事はない古書店にて5,6年前に沖積舎から出た「探偵小説四十年」の復刻版の超美品を発見。
価格5,000円・・・買うしかない。

「持っておくべき本は若い内に借金してでも買え」と誰かが云っておったが、現在私が若者かどうかは別として、確かにそう思う。
でも最近では古書店でお気に入りの作家の初版本を見掛けても見て見ぬ振りを出来る冷静さを持てるようになった。同じ内容なら文庫で結構ってことなんだろうが、大人になったんだか、つまらん人間になってしまったんだか、まぁとにかく。このいても立っても居られない気分は実に久しぶりであった。

オーソドックスな洋装丁、表紙は黒地の布に銀色でタイトルが記されている。収める箱は初版時の黒地に乱歩の著作の書影をあしらったものと復刻の際に付けられた、段ボール製の書棚前の乱歩の3枚の写真を載せたカバーがかぶせられたものの2重の作りとなっている。
飽きずに何度も何度も眺めてはペラペラと頁をめくり拾い読みをする。何だか始めから最後まで読み切るのがもったいない。しばらく遊んでからゆっくりと楽しむことにする。

ちょうどその時期読んでいたのが本橋信宏「裏本時代」(飛鳥新社)。売れないライターであった彼が、裏本の製作・流通の世界を取材していく中で現在はAV監督として有名な村西とおると出会う。村西はこの本の中では「会長」という名で登場するのだが、会長は当時裏出版の世界を牛耳り、そのままでは飽きたらず一般市場で「スクランブル」というスキャンダル写真雑誌を創刊、若い本橋を編集長に任命する。「スクランブル」は独自の路線でそこそこの成功をおさめるものの裏本界の一斉摘発のあおりで資金難となり廃刊。そんなたった数年間のあまりに濃密な時間を描いたノンフィクション作である。
この本の中で著者は敬愛する作家として乱歩を挙げ、「探偵小説四十年」から何度か引用を試みている。実に面白い本であっただけに今回の出会いが単なる偶然とは思えない気がするが、まぁ偶然か。

「探偵小説四十年」の内容に触れていなかった。
これは乱歩がデビュー時からメインに執筆していた雑誌「新青年」に連載された「探偵小説三十年」、同誌の廃刊と共に雑誌「宝石」移って続けられた「探偵小説三十五年」に補足をした記録体自伝である。
乱歩の自分コレクターぶりは有名な話で、自分の生い立ちから自分に関する新聞記事などの資料をスクラップし「貼雑年譜」と題した冊子にまとめていた。確か3冊目までは記事ひとつひとつに詳細なコメントが加えられており、以降資料の山は9冊まで続いた。この3冊目までは乱歩の死後、一級の資料として確か出版されたはずである。その本のことなのかどうかは確かではないが、かつて「貼雑年譜」のダイジェスト版のような豪華な製本の書物を見たことがある。新聞・雑誌に掲載された自分に関する記事はもちろんとして著書の広告、「屋根裏の散歩を地で行く怪盗」などといった乱歩の小説をもとにしたとする犯罪の記事等々事細かに年代順に整理されている。なんと自分が出した手紙までカーボン紙で複写し、その返事とともに保存、 更に驚くのは乱歩の出生時から移り住んだ住まいのほとんどの間取り図が手書きによって掲載されている点。乱歩も頻繁に住まいを変える人だったが父繁雄も転居を繰り返したそうで、名古屋市内で5回、中には3ヶ月しか居なかったところもあったそうだ。そんなものよく憶えていたものである。もちろん乱歩自身の記憶だけでは無理な話だろうが。気持ちはわからんでもないがなかなか出来まい。
正直異常ですらある。その辺りに我々が乱歩に惹かれる所以があるのかもしれないが。

そんな「貼雑年譜」、そんな資料があればこそ、これだけ詳細な自分史が書けるわけで「探偵小説四十年」は読む「貼雑年譜」と云ってよいだろう。それでも170点を超える写真が掲載されているし、巻末には細かい索引、写真だけの索引まで付けられている。
もともと内外の探偵小説マニアであり、筆が鈍ってからは探偵小説界の発展に寄与した人物であるので、その知識、幅広い交流から、ただの乱歩史にはとどまらず、大正末から昭和30年代までの探偵小説史という読み方もできる。自分に関するスクラップ帳から時代が見えてくるってのも何ともすごい話である。

乱歩は「貼雑年譜」のことを引き合いに、著書の中で何度か自分コレクターぶりを披露しているが、その中で私が最も好きなのが「わが夢と真実」(春陽堂「江戸川乱歩全集」付録冊子 所収)の「蒐集癖」(現在は河出文庫「群集の中のロビンソン」で読める)にある一節
歴史家や好事家は過去の他人に関する資料を血眼になって蒐集するが、自分に関するものは蒐集しない。これは主客転倒ではないか。史上の人物の方が自分より偉いから蒐集の価値があると考えるのかもしれないが、そんな他人よりも自分自身への執着なり興味なりの方が強いはずではなかろうか。人々はなぜ他人のものばかり集めて自分のものは顧みないのであろう。自分が一番可愛いのだから、自分蒐集こそ最も意味があるのではないか。自分のものを集めるには自分こそが最適の立場にあり、最も正確を期することもできるわけである。自分自身のものはほうっておいて、他人の作った、学問的にも対した意味のないマッチのペーパーや料理屋の引札なんか集めている人の気がしれない。

おいおい自分だって探偵小説や同性愛文献、浮世草子のコレクターじゃねぇかと突っ込みたくもなるが、これらを集めるのは学問的に意味があるってことなんすかね。
乱歩のエッセイ数あれど(多分小説よりも紙数は多いだろうな)、「マッチのペーパーや料理屋の引札なんか集めている人の気がしれない」などと子供みたいにムキになった攻撃的な文章は珍しく、印象に残っている。

この奇異な印象を持ったのは私だけではなかったようで、今回乱歩関連の資料を改めてひっくり返してみたら、澁澤龍彦が全く同じ箇所を引用して乱歩論を展開しているのが可笑しかった。1969年に講談社から出た「江戸川乱歩全集第2巻」に寄せられた「玩具愛好とユートピア/乱歩文学の本質」(現在は福竹文庫「偏愛的作家論」で読める)という一文で「乱歩文学の精髄は短編にある」という主旨の論を進め、最後に上記の箇所を引用し
これは一種のナルシシズムにはちがいないだろうが、何だかひどく散文的なナルシシズムのような気がする。いかにも乱歩らしい論理で、「自己収集」(原文ママ)とは傑作だ。しかし、よほど几帳面な人でもなければ、こんな丹念な収集の仕事はつづけられまい。
(中略)
そんな乱歩の人間としての一面にも、私は大いに興味をそそられるのである。

と締めている。それまでカフカや稲垣足穂らを引き合いに冷静な分析を述べてきた澁澤が、最後にニヤっと微笑んだような何とも楽しい気分にさせられる。
思えば対照的な2人である。澁澤に自己蒐集という性質はなかったし、晩年まで自分自身を語ると云うことをしなかった人物である。貝殻から螺旋の魅力を語ったりと乱歩に云わせれば「学問的に意味のないもの」から学問、文学的意味を引き出したと云って良いだろう。上記の一文は乱歩への反論なのかなんなのか。乱歩は澁澤をどう読んだだろうか。

そんなわけで読んでもいない本からダラダラと大した結論もなくここまで来た。
そろそろ読んでみましょうか。

(98.9.15.)

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